学級崩壊と大衆


この↑記事の中で、次のやうに書きました。

相手によっては、そして状況によっては、厳しくきつい態度や言葉も必要になるが、それはその時に必要だからで、「コワイ先生」や「厳しい親方」といった硬直したキャラクターになるためではない。


 学校では、相手を一人一人の個人として見て配慮する先生は、むしろ、生徒たちから「なめられ」ます。
 どこでもさうだとは言ひませんが、クラスとして人が集まると、それは一つの人のマス(かたまり)であり、マス(大衆)となります。

 個人が確立してゐる生徒が過半数のクラスなら、一人一人を個人として見て、個人に応じた対応を心掛ける先生を歓迎するでせう。
 けれども、集まって群れになると、大衆化する生徒が過半数なら、先生が、一人一人を個人として見て、個人に応じた対応を心掛けることによって、なめられてしまひます。

 なめるとは、
あなどって軽く見る、あまく見る、バカにする
といふことで、どうしてさうなるかといふと、
先生が個人に対して配慮する、つまりは優しい気持ちを持ってゐるからです。
 優しい気持ちで配慮する人につけ込んで、自分たちのやりたい放題にするのが、大衆といふ群れです。

 クラスが大衆となったら、先生は「怒るとコワイ」といふ感じの人でないと制御できなくなります。

 これを見てスカッとするやうな大衆としての日本人は、石原慎太郎氏のやうな指導者を求めるでせう。
 上から決めつける態度の人がゐないと、自分たち一人一人の行動が自分でもコントロールできない大衆だからです。
 個人として自立してゐたら、「自分のために𠮟ってくれる」人なんかは必要が無い。そっと教えてくれる・心優しい人がゐればいいからです。

 映画の『帰ってきたヒトラー』『帰ってきたムッソリーニ』などで、
ヒトラーもムッソリーニにも、「私を望んでゐるのは、君たちだ」と言ってゐます。
 君たちとは、クラスとして集まると、先生が優しい人のときには、学級崩壊してしまふやうな大衆のことです


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