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「差別主義者」認定のパラドックス

「反差別界隈」が誰かを「差別主義者」と認定するときの方法とその問題点について書いておこうと思う。

本来、差別主義者とは「〇〇人は日本から出ていけ!」「〇〇人を人間扱いする必要はない!」みたいな悪意と害意に満ちあふれた偏狭な思考の持ち主のことを指す言葉のはずだった。

そのような相手に対してミラーリングとして侮辱や暴言をぶつけること、右の暴力団に左の暴力団がぶつかっていくことはまぁ、等価交換というか歯には歯をというか、善い悪いはともかくとして納得のいく話ではあるだろう。

さて、差別にも色々あって、そういった「明らかに差別でしょ!」みたいなものではない、「えっ?これが差別なの?」みたいな、「悪意なき差別」や「マイクロアグレッション」が近年注目されるようになっている。

「悪意なき差別」とは、例えば「健常者」を中心として作られた世の中で、障がい者は様々な設備や制度で不便を感じる。でも「健常者」にとってはそれが当たり前なので、嫌がらせで階段や段差を作ったりしているわけじゃない。でもマジョリティが過ごしやすいけどマイノリティの住みにくい世の中の仕組みそのものが「差別の構造」で、それを悪意なく続けようとすることも差別への加担、つまり差別だよって考え方。

「マイクロアグレッション」は、例えば親が外国出身だけど自分は日本生まれ日本育ちの日本人が、見た目だけで「ハーフ?」「どこ出身?」「英語話せるの?」と百万回(比喩)聞かれるのいい加減にしろよみたいな話で、悪意はなくても積み重なると辛く、傷つく。それはマイノリティだからこそ受ける仕打ちで、やっぱり差別だよねという話。

なので「反差別」としては、そういうのもなくしていきたい。というかみんなでなくしていきたいことではある。

で、そうした「悪意なき差別」やマイクロアグレッションをなくすために「それは差別ですよ」と呼びかけていくんだけど、相手の反応は当然「えっ?これが差別なの?」になる。実際分かりにくいと思う。説明して分かってくれる人もいれば、いつまでも分かってくれない人もいる。

この、説明しても分かってくれない人や納得しない人を「反差別界隈」では「差別主義者」に認定してしまう。差別だと教えてやったのに意図的に続けようとしている、自分の意思で差別している悪い奴だということになるので。

足を踏む喩えでいうと、「足を踏んでますよ」と伝えているのに認めずに足を踏み続ける酷い奴め!となるので怒りも湧いてくるという話だ。

以上が「反差別界隈」が「差別主義者」を認定する方法だ。

問題点は3つ。


1つ目は、はじめに挙げたような悪意と害意に満ちた人と「悪意なき差別」をした人とを同じ「差別主義者」と呼ぶことが妥当かどうかという点。

2つ目は、悪意なき「差別主義者」に対して暴言や罵倒や脅迫的な行動をすることが妥当かどうかという点。

3つ目は、「悪意なき差別」を封じようとするあまり、必要な議論まで封じられてしまい反発を招いたり別の差別構造に加担したりして、状況を悪化させる点。

1つ目、「差別主義者」と呼ぶことが妥当かについて。


差別か差別でないかの線引きはハッキリしない。そのグラデーションの中でせめぎ合い、話し合い、理解を深める中で何が差別かという社会的な合意が得られていくものだろうと思う。

現在世間一般では差別ではないと思われるような「えっ?これが差別なの?」ほどの物事について差別だと言われて納得する方が難しいだろう。

そんな普通の人をつかまえて、世間一般で明らかに差別とされる言動を意図的に嬉々としてするような異常な人と同じ「差別主義者」に分類することは、あまりに雑で極端な分け方じゃないだろうか。

善でなければ悪だ、味方でなければ敵だ、のような0-100思考のようにも思える。

2つ目、悪意なき「差別主義者」への暴言・脅迫が妥当かについて。


悪意なき「差別主義者」は、「コロセ」だの「ヒトモドキ」だの暴言を吐いたり脅迫をしたりしたわけではない。

にもかかわらず「反差別」界隈の中には、何とかの一つ覚えで罵倒と暴言で責め立て、人間扱いしなくて良いのだ!仕事を出来なくしてやれ!と脅しかける人たちがいる。

元の言動と受ける仕打ちとで、不釣り合いにもほどがある。

足を踏まれたと因縁をつけられ集団で殴る蹴るされた後に「足を踏んだ自分が悪かったな」と思う人間がどこにいるだろうか。
過剰かつ理不尽な行いだと言えるだろう。

3つ目、逆に状況を悪化させる点について。


トランスジェンダーにとって「えっ、でも体は男なんでしょ」と身体の性別を突きつけられる言葉はマイクロアグレッションとなるし、風呂やトイレやスポーツなどで自分の信じる性別通りに扱われないことは差別だと感じるだろう。その「差別の構造」を維持・強化するような言動を、悪意の有無に関係なく差別だと考えることは理解できる。

だけど「身体の性別」や「生物学的性別」を差別用語だと糾弾したり、用語を使うことを禁止したらまともな議論は出来なくなるだろう。

さらに、身体の性別の区分をなくしたり、ペニスがあるままで女性スペースを使えなければ差別だと言われ、断った施設が訴えられ敗訴したりすれば(アメリカで実例ありhttps://www.dailymail.co.uk/news/article-12176407/Washington-womens-spa-compulsory-nudity-ordered-judge-start-admitting-trans-women.html)、女性の安心や安全が損なわれるし、

女性スポーツで大差がつくなど(https://nypost.com/2023/06/12/trans-cyclist-austin-killips-wins-nc-race-by-5-minutes/)男女の身体差に基づく不平等が広がるようになる。

これらは男性優位社会におけるマイノリティである女性の社会進出を妨げ、機会を奪い、自信を失わせてしまう。つまり女性差別の構造への加担となる「悪意なき差別」なのだ。しかしこれが相当分かりにくいらしく、いくら説明しても理解されず逆に「お前の不安に向き合え」などと言われる始末だ。

トランス差別反対の旗の下に「差別主義者」認定され議論を封じられ罵倒される中で、反発や反感を持たない方が難しいだろう。

以上のような問題点から、「差別主義者」認定が理解増進どころか差別増進していくパラドックスを生むのだと考えている。

(2023.06.24 てててああ@teteteaa)

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