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即非の論理|鈴木大拙【君のための哲学#5】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。


即非の論理


鈴木大拙(1870-1966)は仏教学者の立場からの情報を英語で著し、その文化を海外に紹介した。「禅」は掴みどころのない概念である。その真髄を言葉で表すことはできない(不立文字)。禅による"到達"は、体験でしか得られない。そういう意味で、鈴木が著したのは禅の周辺情報である。
鈴木は「人間は禅によって生きなければならない」、更には「生きることが禅なのだ」とも言う。
私たちは物事を分類したがる。あの人は良い人、あの人は悪い人。これは私の物、これは他人の物。その分類は多くの場合執着を生み出す。分類がなければそもそも執着という概念は存在しないのだ。
鈴木は禅の根幹の論理として「即非の論理」というものを提唱する。(『金剛経の禅』)その公式は以下のようなものだ。

「AすなわちA、Aすなわち非A、故にAすなわちA」
(A⇒A,A⇒¬A,A⇒A)

例えば目の前にテレビがあるとする。このとき上記公式にそれを当てはめると「①テレビはテレビである ②テレビはテレビではない ③テレビはテレビである」となる。一見矛盾しているように思える言明だが、これには深い意味がある。私たちはテレビという分類された概念(①)を認識している。しかし、その概念は人間が恣意的に名づけただけのまやかし(②)である。一旦そのまやかしを理解(正しくは体験)した後に、再度テレビというものをテレビ(③)として認識する。
禅における体験とは「色即是空、空即是色」の直観である。私たちの悩みの多くは、物事を分類することから始まっている。禅的な生き方とは、そういった恣意的な分類から解放され「我々一人一人に備わっているすべての力を解き放つ」ようなものである。坐禅を組むのは、そこに到達するための訓練なのだ。


君のための「即非の論理」

仏教用語に「無分別智」というものがある。「分別智」が識別・弁別によって得られる知識のことを表すから、「無分別智」はその逆。識別・弁別をしないことによって得られる知識である。
星座を考えてみよう。星空を見上げればさまざまな星座を認めることができる。しかし、その星座は最初からあったものだろうか。そうではない。星座とは、星空という分別されていない全体から分別された部分を恣意的に取り出した人工物なのだ。
「冬の大三角が綺麗だね」という感想と「星空が綺麗だね」という感想には、分別智と無分別智における違いがある。いや、厳密には「星空が綺麗だね」も星空という分別された部分を恣意的に取り出した人工物を前提にしているから、それすら分別智である。本当は「なんかすげー!!」で良い。
先ほど取り上げた即非の論理は、分別智と無分別智の弁証法の論理でもある。「星座は星座である」という分別から「星座は星座ではない(星座という概念は人工的なものである)」という無分別智に変化し、矛盾する。その後両者は止揚し「星座は(その意味で)星座である」という無分別の分別に至る。
「この世のありとあらゆるものは分別された人工的な概念である」ということを知らずに生きているのと、それを知った上で概念を利用することの間には大きな溝がある。善と悪・美と醜・真と偽。これらも全て分別された部分であり、どこまで行っても相対的な概念でしかない。
禅の真髄を体験することは非常に難しい。しかし、知識(分別)として即非の論理を理解することは無駄ではない。目の前の世界を無分別智の観点で捉えると、いつもより執着や偏見が少なくなるのかもしれない。


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