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我々次第でないもの|エピクテトス 【君のための哲学#15】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



心像(ファンタジア)


紀元前3世紀初め。古代ギリシャのゼノンから始まったストア派の哲学は、古代ローマの時代に最盛期を迎えた。その中でもとても重要な哲学者の一人がエピクテトス(50年ごろ-135年ごろ)である。エピクテトスの母親は奴隷階級であったため、彼もまた奴隷として売られてしまった。彼を”買った”エパプロディートスという人物も、元は奴隷だった。
エパプロディートスは奴隷の自由に対して寛容であった。それもあって、エピクテトスは奴隷の身でありながら、ストア哲学者ムソニウス・ルーフスに師事することを許された。
その後、奴隷から解放されたエピクテトスはギリシア東部の大都市であったニコポリスにて哲学の学校を開いた。この学校はとても有名になり、第14代ローマ皇帝であるハドリアヌスも学んだとされている。
エピクテトス自身は著作を残さなかったが、彼の言葉は『語録』として残っている。
彼は「心像(ファンタジア)に拉致されるな」という。心像とは事柄に対する思惑のことである。人々は人生に対して不安を抱える。しかし、その不安の原因は「事柄それ自体」ではなく「事柄に対する思惑」である。人が「死」を怖がるとき、それは「死」そのものを怖がっているのではなく「死は恐ろしい」という心象を怖がっているのだ。
エピクテトスに言わせれば(死ですらそうなのだから)事柄それ自体で怖いものはない。人がそこに思惑を付け加えることによって、その心象に対して恐怖や不安が生まれる。だから彼は「心像に惑わされてはいけない」という。


君のための「我々次第でないもの」


心像に惑わされないために重要なのは「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」をはっきりと識別することである。

我々次第であるもの
→自分の裁量の範囲内にある物事(判断・意欲・欲望)

我々次第でないもの
→自分の裁量ではどうしようもないもの(家柄・富・名声・評判・人間関係・他者の思惑・外見・病気・死)

*富や名声などに関しては努力でどうにかできそうなものである。しかし彼はこれらも「我々次第でないもの」と定義する。なぜならば、それらを完璧にコントロールすることは不可能だからだ。コントロールできない部分が少しでもあれば、その部分が必ず悪い心像を生んでしまう。

私たちがすべきは「我々次第でないもの」に対する執着を捨て、「我々次第であるもの」に集中することである。それは、世俗的な価値に惑わされることない強靭な自制心や忍耐力を鍛え、内的な心の平穏(アタラクシア)を目指す努力でもある。ストア派の教義は禁欲主義と表されるが、それはこうした思想に由来している。
エピクテトスはさらに「所有」の概念をも批判する。私たちが「所有している」と思っているもの。それらは全て勘違いである。例えばあなたが土地を所有していたとしても、その所有権は後付けで設定されたゲームの中の決まり事でしかない。人は「絶対的に何かを所有する」ことができない。あなたが感じている「所有」は「我々次第でないもの」または「心像」でしかない。彼は、何かを失ったときには「私はお返しした」と考えろという。元々所有していたわけではないのだから、それはいつか自分の元を離れる。そのように、コントロール不可能な事柄に対しての執着を捨てることが、幸福を実現するための必要十分条件だと考えたのだ。
エピクテトスの哲学は、私たちに「自分ができることに集中せよ」と語りかける。私たちはときに自分ではどうしようもないことに悩み苦しむ。そうした際に心のどこかで「自分にはどうすることもできないのだから、これはしょうがない」と思えると、生きることがずいぶん楽になるのではないだろうか。


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