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顔|レヴィナス【君のための哲学#6】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



エマニュエル・レヴィナス(1906年-1995年)は、ユダヤ思想を背景にした独自の倫理学を構築した。その中でも彼の他者論は非常に有名である。
彼はナチスのユダヤ人虐殺によって、家族や友人のほとんどを亡くしている。自身もひどい扱いを受けた。しかし、そこから逃れたレヴィナスは「それなのに世界が普通に続いている」ことに恐怖を感じる。どれだけ苦しい思いをしても、世界は平然と日常を繰り返す。仮に自分が死んでこの世からいなくなっても、世界は平然と続いていく。内的な世界と外的な世界には形容のし難い断絶がある。彼は、この外的な世界に対する恐怖感をイリヤと呼称した。
彼の他者論における「他者」は人間だけを指すものではない。部分の外部にある無限を、彼は他者と呼ぶ。
例えば、ある言明Aがあった際に、その言明を括弧に入れて否定する言明A'が必ず存在する。「〇〇の言明は間違っている」と。さらに、その言明A'を否定する「「〇〇の言明は間違っている」は間違っている」という言明A''も存在できる。このように、何かがその何かだけで完結することは不可能で、必ず元の何かを無限に問い続けることが可能である。レヴィナスは人間関係についてもこのような性質があると言った。私は他者に対して無限の責任を持つ存在であり、他者は私に対して無限の責任を課すものである。どこまで行っても私と異なる存在。それが他者である。
その上でレヴィナスは、自分が他者と対面するときに相手に対して抱く具体的なイメージを「顔」という概念で表現した。ここでいう顔とは、顔そのもののことではない。相手の姿形から読み取れる全ての情報を総合したものを顔と呼んでいる。実際彼は、顔の特性を「常に溢れ続ける情報・意味の源泉」と表現している。


君のための「顔」


「イリヤ」とはフランス語で「〜がある」という意味を持つ語である。主語がないのに「〜がある」恐怖。確かにそれは冷や汗をかくほど恐ろしいことである。
私たちは他者が何を考えているかわからない。質問をすることでわかった気になることがあるかもしれないが、本当のところはどこまで行ってもわからない。私たちにわかるのは自分の内的な世界だけである。その外の世界は全て他者である。そしてそれらの他者には原理的に「絶対に理解できない」不気味な部分がある。それが怖い。
では、私たちはイリヤに対してどう向き合えば良いのだろうか。
レヴィナスは、恐怖の対象である他者に、それでも向き合うことが必要だと言う。他者のは、常に私たちに何かを語りかけている。その人が何も言葉を発しないとしても、その人の顔は何かを語っている。私たちは「他者の顔によって語られる情報」に触れたとき、それに応答しようとする。そして他者の顔に対して応答したとき、そこに責任が生まれる。レヴィナスは、この責任こそが倫理の根幹であり、そうした責任を負うことが自分の内面世界から外にある無限の世界にアクセスする唯一の手段だと考えた。
人間が他の人間に酷い行為を働くとき、加害者側は被害者のを見ていないのかもしれない。だから、加害者には被害者(他者)に対する責任が付随しない。その最たるものがナチスの蛮行だった。
私たちは、他者のを見ているだろうか。現代には、面と向かわなくても他者と関わり合える環境がたくさんある。それだけに他者の顔は見えづらい。
他者の顔を無視した瞬間に、そこから責任は消失する。そうなれば、誰かに対してどこまでも非情でいられてしまう。
今、私たちには「他者の顔とどう向き合うか」という難しい問題が立ちはだかっているのかもしれない。


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