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絶対矛盾的自己同一|西田幾多郎 【君のための哲学#12】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



絶対矛盾的自己同一


西田幾多郎(1870年-1945年)は、押しも押されもせぬ日本における哲学の第一人者である。「日本の教養を学ぶなら、まずは西田哲学からである」とも言われる。
彼は当時隆盛を誇っていた西洋哲学のスキームに疑問を感じ、西洋哲学に東洋思想的なエッセンスを合一させた新しい体系を提唱した。その中でもとりわけ重要なのが絶対矛盾性自己同一という概念である。
絶対矛盾性自己同一の語義はかなり広い。宗教と宗教の信仰者との関係の説明に使われることもあるし、時間と空間の関係に対して用いられることもあるし、社会と個人の関わり合いに適用されることもある。しかし、共通して言えるのは「西洋的な二分法・二項対立に対して批判的な問いを投げかけていること」である。
例えば、過去と未来は相反する概念である。しかし過去と未来の性質が結びついて生まれているのが現在であり、その意味で現在は絶対矛盾性自己同一的に形成された表象だ。
ヘーゲル的(西洋的)な弁証法においては、テーゼ(A)とアンチテーゼ(¬A)が止揚してジンテーゼ(A')に辿り着くモデルが提唱される。元あった二項対立が解消されることで、新しい概念が創出されると言うわけだ。
西田はこのイメージを批判する。テーゼ(A)とアンチテーゼ(¬A)における対立を無理に解消しようとすること、あるいは解消が可能である(そして解消の後に進化がある)という前提は間違っているのではないか。必要なのは、一見二項対立に見えるテーゼ(A)とアンチテーゼ(¬A)が、実は一体である(一つのものの二面性である)ことを実感(B)することではないか。「対立」とは、人が勝手に生み出した恣意的な概念でしかない。


君のための「絶対矛盾的自己同一」


西洋哲学の根底には3つの大原則がある。

①AはAである(同一律)
②Aは¬Aでない(矛盾律)
③Aと¬A以外は存在しない(排中律)

この前提は非常にもっともらしい。”りんご”は”りんご”であり、”りんご”は”りんごじゃない”ではないし、”りんご”と”りんごじゃない”以外の存在はこの世の中に存在しないように思える。
西洋哲学(もっといえば西洋的感覚)には、上記の前提のもと、物事を「白か黒か」「イエスかノーか」「真か偽か」で判断する習慣がある。
しかし、世の中にはこのような方法では説明しきれないことがたくさんある。
カントが提示したアンチノミーもそれに含まれるだろう。「宇宙が有限(A)か無限(¬A)か」という二項対立には「Aも正しいし¬Aも正しい。同時にAも間違っているし¬Aも間違っている」という不思議な結論が導出される。
もっと身近な、例えばトロッコ問題的な二者択一もそうであろう。海で溺れている母親と恋人のどちらかしか助けられないとして、そのどちらを助けるか。こうした問題には「白か黒か」では答えられない。
私たちの目の前にある暮らしの中には「白か黒か」では答えられない事柄が無限に存在する。そのような問題に対して、形式的な論理は無力である。
人間は物事を曖昧なまま保持しておくのが苦手な生き物である。その性質が(私たちに染み込んだ)西洋的価値観によるものなのかは分かりかねるが、少なくとも現代人にはそういう傾向があるように見える。
「白か黒か」で計れない事柄を、それでも白か黒に分類する。もしかしたら、その行為自体があらゆる苦しみを生んでいるではないか。
西田哲学には「物事を曖昧なまま認識し保留する」という勇気ある行為を後押しする原動力が込められている。




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