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閉所恐怖症

提供:ハイッテイル株式会社(肉BISTRO人気です)


こんにちは。哲学チャンネルです。

私は極度の閉所恐怖症です。

例えば棺桶のような狭い空間に閉じ込められたら発狂しますし「閉じ込められている」という様を想像するだけでパニックになります。(今もこの文章を書きながら手汗がすごい)

まぁ「棺桶に閉じ込められる」レベルの閉所の場合、多くの人がパニックになるのかもしれませんね。

もう少し程度の軽い例で行くと、電車なんかもそうですね。次の降車駅まで外に出られないことが確定している状況で、電車という箱の中に自分が閉じ込められているという事実が結構苦しいです。これが飛行機になると「万が一にも外に出られない度」が増すので、もっと怖い。

エレベーターに乗るときも、必ず「もし閉じ込められたらどうしよう」と想像してしまうんですよね。面倒な性質だと思います。


で、私は結局何を恐れているのか・嫌がっているのかと考えてみると、やっぱりそれは「束縛感」だと思うんです。その対象が何であれ「縛られている」そして「それを自分が解決できない」という感覚がどうしても駄目で、パニックに陥ってしまうのだと自己分析しています。

更に面倒なのが、私の場合はその「束縛感に対する拒否」が時間的にも広がっているということです。

今の時期ですと、否が応でも忘年会的なお誘いが複数あります。
忘年会に参加すること自体は嫌ではない(むしろ好き)のですが、忘年会の予定が重なることは嫌なんですよね。スケジュールが埋まっていくことで「狭く」なっていると言いますか、時間的なフィールドに自分を圧迫する壁がどんどん表れているような、そんな質感を感じてしまうのです。感覚的にいうと、週に2件以上の特殊な予定が入っていると、もうそれだけでドキドキしてしまう。

同じような意味で、選べる選択肢が少ない状態も嫌いです。理想としては常に「今なら何にでも対応できる」という状態をキープしたいのですが、人生そうそううまいこといきません。時間的・能力的・金銭的・環境的な要因によって、今はAかBしか選べないみたいな状況になることもままあります。それが「狭く」でしんどい。


この感覚って特殊なんだろうか。

少なくとも私にとってはこの感覚が通常で、そうした性質が私の人生に与えた影響は小さくありません。

例えば(スケジュール的な「狭さ」があまりに嫌いだから)私はなるべくスケジュールが固定されない仕事をしています。完全なるわがままでありますが、無理を言ってフルリモートの仕事をしていますし、先の予定がすでに複数ある場合は「キャパオーバーなんで」と言って(別に該当の日に予定がないにもかかわらず)アポイントを断ることもしばしばです。

哲学チャンネルの作業を継続しながらも、例えばコミュニティ的なものとかを始めることに尻込みしているのは、そういう理由が大きいかもしれません。哲学チャンネルの活動は大好きだし、視聴者さんとの交流もめちゃくちゃしてみたいんだけど、それをすることでスケジュールが埋まってしまうことに恐怖を感じている。

また、同じような文脈で、私は常に選択肢を広くとれるような努力をしています。

短期的な意味では時間的・精神的余裕ですね。
いつでも広い選択ができるように、時間と精神に余白を持たせておく。時間と精神がいっぱいいっぱいだと、いざというときに好きなムーブができず、それを想像するだけで頭がおかしくなります。もちろん金銭的にも余裕があると更に選択肢の幅が広がるのですが、金銭を得るために束縛を許容することができないという性質から、金銭を得るためにどうしても縛りプレイみたいなことをしなくてはいけない。よって金銭的な余裕はまだありません。

長期的な意味では能力や環境ですね。
その瞬間に「こうやって生きたい」という想いを叶えられるような能力や環境を保持しておくこと。巷では「何かを始めるのに遅すぎるということはない」的な格言がありますが、私はそうは思いません。始めるのに遅いものは確かにある。否が応でも年齢と共に取り得る選択肢は減っていくわけです。でも個人的にそれは「狭く」て嫌だ。ですから、年齢の増加によって減っていく選択肢を補填できるぐらい能力や環境を高めていかないと、自分の人生に十分な「広さ」を提供できないと思ってしまうのです。


つまり、私の人生の一部は「閉所」との追いかけっこなのです。あぁ、なんて貧しい価値観!!そんな自分が嫌いじゃないですけどね。

もし共感くださる方がいましたら、ぜひコメントなどください。


まぁ、私がやっている行為は本質的にほとんど意味のないものなんですけどね。

これは、ここに書くことすら憚られるのですが(パニックになりそうになるので)私たちは「世界」という空間・時間によって根本的に閉じ込められています。本質的には絶対的な自由なぞ、そこにはないのです。
だから、私の行為は、世界という棺桶の中で「ここが狭い」「ここは広い」みたいにうろうろしているようなものであり、メタ的に捉えると滑稽以外のなにものでもないんですよね。まぁそんな自分が嫌いじゃないんですが。

ちなみに「世界という空間・時間に閉じ込められている」ことの恐怖に対する対処法は「知らんぷりする」しかありません。私も普段はこの事実(というかそう思ってしまう主観)について無視を決め込んでいるのですが、こうやって言語化してしまうとしばらくは後を引いちゃうんですよね。なんというマゾヒスト。まぁそんな自分が嫌いじゃないんですけど。

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