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◻︎本文

『五輪書』は江戸初期の剣豪である宮本武蔵が著した兵法書です。
寛永20年から武蔵死没直前の正保2年に至る2年の間に執筆されたとされています。厳密に言えば、武蔵による自筆本はすでに失われ、今伝わっているのはその後に書かれた写本を原型にするものなので「宮本武蔵が著した」という事実が確定しているわけではありません *1

『五輪書』は「地・水・火・風・空」の章に分かれた戦術指南書で、この5つの分類は、仏教(特に密教)に由来しています。仏教(特に密教)には「五輪」という考え方があります。万物は「地・水・火・風・空」の五要素によって構成されているというものですね。余談ですが、古代インドにはヴァーストゥ・シャーストラという思想がありました。これは元々ヴェーダを原典にする思想ですが、その観念はヴェーダ編纂前から存在していたと言います。この思想では「五大」として、万物の構成要素を「地・水・火・風・空」に認めます。古代インドでは、それらの要素を前提に建築や環境を考えていたみたいです。まさに中国における風水ですね。因果関係は明らかにされていませんが、時代の前後関係だけを考えれば、ヴァーストゥ・シャーストラから中国に風水の概念が伝わり、その後「五大」という観念が「五輪」として仏教に合流したと考えられます。

宮本武蔵は、無神論者のように語られることもありますが、晩年仏像を掘っていたという話も残っています。『五輪書』の冒頭には「観音を礼し」とありますし *2 何よりも『五輪書』を記すにあたって「五輪」を採用していることから仏教的な信仰心を持っていたと考えるのが妥当でしょう。

さて。

『五輪書』は戦術や戦闘についてのノウハウがまとめられた書ですが、単なる技術本ではありません。この書には「人として生きるべき道」が描かれています。

武蔵が生きた江戸時代初頭は戦争がない、とても平和な時代でした。そのため当時の武士たちにとって、戦闘によって自身のアイデンティティを保持することはとても困難だったと思われます。そこで彼らは、戦国時代における「生き残りの技としての武術」を「精神修養としての武術」として再構築しました。諸論ありますが、私はこれが「武道」の始まりだと考えています。事実、この時代あたりから「武道」と「禅」が融合し出したりもしていますからね。もちろん、武蔵自身がその人生において「武道」的なものを直観したということもあるでしょうが、時代の流れが原因で『五輪書』に「武道」的な内容が多く含まれるという考察も大きく間違っていないはずです。

前置きが少し長くなりましたが、次にそれぞれの章における武蔵の哲学を見ていきましょう。

『地の巻』では「兵法」について語られます。
冒頭で彼は「現在において兵法の道を体験している武士はほとんどいない」と指摘し「武士として兵法を学ばないということはあってはならない」と断言します *3
では、兵法とはなんなのでしょうか。
武蔵は「兵法の定義はこれそれである」と明言していないので、これは私個人の解釈になってしまいますが、「兵法」とは「戦いの道を極めるための心得」だと考えられます。彼は、単に武士における戦いについてだけでなく、大きな戦闘の陣頭指揮や、果ては国家運営までも「兵法」の一つだと考えます。何をするにも必ず「理」というものがあって、対象がなんであれ、それを追求するための心得は共通であると。
「理」を追求するための心得として武蔵が特に重視するのは「合理的であること」と「文武二道」です。
「合理的であること」は読んで字の如くですね。物事には必ず因果関係が存在しており、何かの行為は必ず何かの結果を生み出します。その因果を正しく理解すれば、何かを極めるためにやるべきことは明確だろう。こう表現しては元も子もないですが、武蔵は「当たり前のことを当たり前にやること」を勧めているのです。『五輪書』には、戦いにおいて当たり前に取るべき行動が列挙されていますが、その「当たり前」の徹底には鬼気迫るものがあります。
「文武二道」とは、武道だけでなく芸事にも興味を向けよという意味、翻って「すべての道は同じ場所に通ずる」のような教訓を持つ言葉です。武蔵は芸事に対する探求も「勝つために」必要な行為だと考えました。一般的に、特定の物事を深く突き詰める様は、元々の能力から鋭角に領域が伸びていくイメージで表現されます。しかし、どうやら武蔵の感覚は違っていて、彼は特定の物事を深く突き詰めると、ある瞬間に全ての物事の道理が理解できるようになると考えていたようです。だから、武道を極めることは芸事を極めることと同義であり、兵法を体験することは、あらゆる事柄を体験することと同じなのです。
このように『地の巻』ではあらゆる道への探究に共通する姿勢が説かれています。重要なのは「芸事にも精通すること」や「物事の因果を正しく見ること」などの人生においての教訓のような観念を、「勝つために」重要視しているということです。これはまさに「勝つ」という道を深く突き詰めると「人生」という大きなものへの理解も深まるという端的な例でしょう。

『水の巻』では戦いにおける「構え」について記されます。
武蔵は理想の構えを水に見ました *4
水は固定されることがありません。どんな形のものにも臨機応変に自身の形を変えてそれを満たし、常に流動して環境に対応します。まさに『老子』における上善如水ですね。武蔵は五輪書とは別に独行道という自誓書を残しました。ここには21ヶ条の生き方の指針が記されているのですが、例えば「自他共にうらみかこつ心なし」や「わが身いたり物いみする事なし」など、その内容は老子が説いたものと非常に似通っています。
戦いにおける構えは人生における姿勢に通じます。有名な言葉である「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」や「近きところを遠く観て、遠いところを近く見る」などは、そのまま人生の教訓として参照できるものでしょう。

『火の巻』では、実際の戦闘におけるテクニックが説かれています。
特筆すべきは「有利でいること」の重要性ですね。佐々木小次郎との巌流島の戦いで、武蔵が2時間も遅刻してきたというエピソードはあまりにも有名ですが、これ(が事実なら)も相手よりも少しでも有利でいるための作戦であると考えられるでしょう。
例えば彼は「常に太陽を背にして戦うこと」を何度も強調します。相手を常に逆光の位置に置くことで、敵の視野における鮮明さを奪おうと考えているのですね。捉えようによってはかなり卑怯な作戦です。しかし彼は「正々堂々」よりも「勝つこと」「生き残ること」を圧倒的に優先します。そういう意味では武蔵は徹底的なリアリストです。
また、彼は戦いにおける心理的な影響を重く捉えています。相手に対しては心理的揺さぶりをかけること自分においては精神的に不動でいること。これはあらゆる勝負の世界に通ずることだと思います。

『風の巻』では、他流派への批判が繰り広げられます。
多くの批判に共通するのは「他流派は形ばかりに拘っている」ということです。流派によっては、レベルに応じた型があったり、動きが決まっている奥義があったり。そうした固定化した技術は戦いに勝利する上で何の価値もないと断罪するのです。他流派が想定しているのはルールありきの戦いです。しかし実際の戦闘は想定通りに進みません。特定の環境でしか機能しない固定された技術は柔軟な対応が求められる実戦闘においては何の役にも立ちません。実際に多種多様な死地を生き抜いた武蔵がいうから説得力がありますね。まさにこれは「マニュアル」が通用しない「現場」を表している言葉でしょう。
では、柔軟な対応をするにはどうしたら良いか。それには形の一つ上の次元である「考え方」を鍛錬しなければなりません。そしてその考え方は『地の巻』や『水の巻』で説かれているわけです。

『空の巻』では、人生における「道」が説かれます。
『五輪書』の中でもとびきり特殊な章です。そもそも、この章はたった500文字しかありません。Xのつぶやき約4回分です。短いので、意訳した内容をそのまま紹介します。

「空」とは決まった形がないこと、あるいは形を知ることができないものである。「空」とは”何もない”ことだ。だから「空」を知るためには”ある”ことを知る必要がある。何かが”ある”ことを知って、はじめて「空」に至る。
世間一般の安易な見方では、あらゆる物事を区別しないことを「空」としているが、これは誤った捉え方だ。その捉え方は心の迷いでしかない。
兵法の道においても、武士としての人生を歩む際に武士としての理を知らぬ者が「空」を体験できずに「空」に対して世間と同じ見方をすることがあるが、これはもちろん正しい意味での「空」ではない。武士において、兵法の理を確実に会得し、武道や芸事を探究することを怠ることなく、心と眼を磨き、一切の迷いがない状態こそ「空」である。
理を悟らないうちは、自分の道こそが正しいと思い込むが「空」の境地からそれを見れば、誤りは明確である。
この道理をしっかりとわきまえて真っ直ぐ正しい人生を歩み、兵法の道を世に広め、明晰に大局を掴むのが「空」の道であり、兵法の究極でもある。
兵法における探究を日々行うことが「空」の境地に至る道なのだ。
「空」は善である。そこに悪は含まれていない。兵法の道を完全に体得することにより、一切の妄執から解放された「空」の境地に到達することができるのである。

『地の巻』で触れたとおり、武蔵は「ある事柄を突き詰めること」で「すべてに通ずる真理」を体得できると考えていたように見えます。そしてこの「すべてに通ずる真理」が「空」であり「空」を体得するために必要なのが『五輪書』で語られている姿勢と鍛錬の方法なのです。

『五輪書』で主張されていることをまとめると

やるべきことを見定め
目の前のことを愚直にこなし
それ以外のことは水のように受け流し
人生という戦いに勝ち続けよう
その果てに(それが何であれ)道の極みがあり
その理は全てのものに通じていて
そこに到達した時に人生全体の意味を知ることができる

とても当たり前のことを言っているようにも見えるし、かなり難しいことを主張しているようにも見えます。

おそらく武蔵は「戦い」という道を極めたことで「空」に触れ、それが人生という大きな領域に接続されていることに気づいたのでしょう。

とはいえ、仏教における悟りと同様に、知識として「空」を知ったところで「空」を体感したことにはなりません。そのためには、地道で必死な日々の鍛錬と、長い年月に渡る継続が求められます。

だから、彼は武士としての「生き方」を説いたのです。

江戸初期と現代では、社会構造が全く違いますから、彼の主張をそのまま採用することは難しいと思います。

しかし、コスパやタイパが最重視され、様々な快楽が私たちの周りを侵食する現代において、武蔵が説く「物事を突き詰める姿勢」は一際輝きを持って何かを主張しているように思えます。

私は、武蔵ほど「勝つこと」にこだわることもできないし、彼のようにストイックに生きることもできませんが、自分の生に没頭し、少しずつでも日々鍛錬を怠らないようにしよう、と『五輪書』を読むたびに感じます(それができるとは言っていない)



◻︎おまけの独行道

・世々の道をそむく事なし
・身にたのしみをたくまず
・よろづに依怙の心なし
・身をあさく思、世をふかく思ふ
・一生の間欲心思はず
・我事において後悔をせず
・善悪に他をねたむ心なし
・いづれの道にも、わかれをかなしまず
・自他共にうらみかこつ心なし
・恋慕の道思ひよるこゝろなし
・物毎に数奇このむ事なし
・私宅においてのぞむ心なし
・身ひとつに美食をこのまず
・末々代物となる古き道具所持せず
・わが身にいたり物いみする事なし
・兵具は格別余の道具たしなまず
・道においては、死をいとはず思ふ
・老身には財宝所領もちゆる心なし
・仏神は貴し、仏神をたのまず
・身を捨てても名利はすてず
・常に兵法の道をはなれず


□注釈と引用

*1 『五輪書』の写本はかなりの数存在すると言われています。当時それだけ人気があった内容だったのでしょう。それぞれの写本において内容の相違が非常に大きかったため、どれが本当の『五輪書』なのかについての研究は混迷を極めました。ところが、いわゆる肥後系写本群に属する細川家本版の内容が岩波版の底本になったことで、この『五輪書』が事実上正当な五輪書であるという地位を獲得しました。ですから、今流通している『五輪書』は研究によって正当な『五輪書』であると認められたのとはちょっと違うという理解をした方が良いでしょう。

*2 「時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十」

*3 五輪書(講談社学術文庫)地の巻
ー今世の中に、兵法の道慥かにわきまへたるといふ武士なし。

*4 五輪書(講談社学術文庫)水の巻
ー兵法二天一流の心、水を本として、利方の方をおこなふによつて水の巻として、一流の太刀筋、此書に書顕はすもの也。


□参考文献

五輪書 講談社学術文庫 鎌田 茂雄(著)

五輪書 岩波文庫 渡辺 一郎 (編)


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