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私の政治思想的立場について(おまけで哲学チャンネルの大義名分について)

提供:ハイッテイル株式会社

普段いくつかの媒体で発信をしていると、たまに発信者である私の政治思想を問われることがある。それは「右ですか?左ですか?」や「〇〇という法案についてどう思いますか?」などの質問だ。私は基本的にこう言った質問には回答しない。それは意見が違うからとか興味がないからという意味ではなく、回答の意図を齟齬なく伝えるのが極端に面倒だからである。

しかし最近、何の表明もなくそのような態度を貫いているのは、もしかしたら不誠実なのではないかと考えるようになった。そこで、今回は私の政治思想的な立場についての表明をしておこうと思う。

似たような内容をサブチャンネルで語っているので、興味があればそちらも参照されたい↓


政治思想についての話をする前に、前提となる考え方を提示しておきたい。
私は常々、政治思想を分類する際の方法に違和感を感じていた。わかりやすいところでいうと、政治思想を大きく分類するとき「右か」「左か」「真ん中(中道)か」という分け方をすることがある。確かにこれはとてもわかりやすい分け方なのだが、そこには重要な要素が抜け落ちているような気がしてならない。その要素というのは「その立場を積極的に選んでいるか否か」というものである。

例えば右寄りの思想を持っている人がいるとしよう。一般的にその人は保守的な人と呼ばれることが多い。しかし、同じ保守的な思想を持つ人でも、”あえて”保守的な立場にいる人と、”なんとなく”保守的な立場にいる人では、その思想の構成も、そこから生まれる行為にも大きな開きがあると思われる。
選挙がわかりやすい例かもしれない。選挙の際、”あえて”保守的な立場にいる人は、選挙に行って保守派政党に投票するのだろうし、”なんとなく”保守的な立場にいる人は、選挙に行かないことで「そのままで良い」という意思表明をすることが多いのではないだろうか。

このように”あえて”と”なんとなく”には大きな溝がある。
私はそれぞれを「能動的」「受動的」と呼んでいる。

思うに「能動的な保守派」と「受動的な保守派」における溝は、「右」と「左」における溝と、同等かそれ以上の落差があるのではないだろうか。

少なくとも、「能動的な保守派」と「受動的な保守派」という別種の立場にある人々を、「右」として一括りにしてしまう分類方法が正しく機能するようには思えない。

そこで、私は(あくまでも私の中で)以下のようなマトリクス図をイメージするようにしている。

このように分類した方が、より政治的立場を鮮明に表せるのではないだろうか。特に、それぞれの立場の行動様態を分析する際には、有効になるような気がしている。

とはいえ、別にこの分類方法を啓蒙したいわけではない。この分類方法が正しいか、有用かにも特に興味はない。今回、私の政治思想的立場を説明する際に、おあつらえ向きだったからこの話をしたまでだ。

では、上記のマトリクス図において、私の政治思想はどこに位置するのか。
答えは↓である。

「答えは沈黙」のような肩透かしをしてしまって申し訳ない。私の政治思想は「右」にも「左」にも「中道」にも属さない、とはいえ能動的な要素を持つものである。私はこれを勝手に「能動的ノンポリ」と呼んでいる。(もちろん縦軸の対極には「受動的ノンポリ」がある)

「ノンポリ」とは、英語のnonpoliticalの略語であり、政治的無関心を意味する言葉だ。私は政治的無関心な人間なのである。しかし、それは能動的に選択している立場でもある。つまり、色々なことを考えた結果、落ち着くべくして政治的無関心に落ち着いているということだ。

もう少し具体的に言うならば、私には政治がどこに向かうことが正解なのか、全くわからない。一時期とてもそのことについて考えたけれども、答えみたいなものは一切あらわれなかった。だから、政治に興味がないわけではなく、政治についての明確な意思表明をするだけの知能を持ち合わせていないのだ。もしくは(自分の中で確固たる信念を持てない主張を叫ぶような)勇気を持ち合わせていないかだ。

政治は、その時々に現れる課題に対し「正解に近いだろうもの」を選びとって試行錯誤を続ける営みだ。民主主義においては、その選択を、間接的に国民が担っている。その仕組み自体は素晴らしいと思う。そう言ったことを否定したいわけではない。私は「正解に近いだろうもの」すらの判断もできないので、そもそも主張する思想すら持ち合わせていないのだ。

だから「能動的ノンポリ」なのである。

(多分)能動的ノンポリに属する多くの人は投票に行かないはずだ。行っても支持する政党がないので、意味がない。適当に名前を書くほど政治を舐めてもいない。
最も、私の場合は選挙には必ず参加して白票を投じるのだが。

そういう政治思想を持っているため、普段政治関連の質問を受けた際に困ってしまうのだ。ここで書いたことをそのまま伝えるのは流石に文章量が暴力的になってしまうし、ここで書いたことなしに回答をしてしまうと、必ず棘が立ってしまう。よって、そういう質問には回答を控えていた。

だから、(莫大な量の人間を人間自身がコントロールなんてできるのかという疑問はあるが)政治というものに絶望しているわけでもないし、アナーキストであるはずもない。

ただただ、自分が政治に参加することを拒否し、自分の手の届く範囲においての活動に集中しようとしているだけなのだ。

*一方で、自治体レベルの活動にはびっくりするぐらい積極的である。今は田舎に住んでいるのだが、自治体関連の活動には(消防団なども含めて)大体参加している。

だから私は、政治的な対立に巻き込まれることがとても少ない。右の意見だろうが左の意見だろうが等しく「そうかもな」と受容できてしまうし、等しく「本当かな」と疑えてしまう。よって、議論になることはあれど、ぶつかる主張がないわけで、対立にはなりようがない。ある種、つまらない人間だなと、自分でも思う。

これを以て、私の政治思想的ポジションの表明とさせていただきたい。



さて。

これだけで終わるものつまらないので、こうした政治的立場を前提にしたときに「哲学チャンネル」として何ができるのか、みたいな話をして終わりたいと思う。

以前の記事でも触れたように

哲学チャンネルにおける最大の目的は、私自身のインプットとアウトプットにある。それは、言ってしまえば自慰行為みたいなものであり、どこまで行っても自己満足でしかない目的だ。そして、私はそれで良いと思っている。

しかし、私のどこかには「それだけじゃ流石にダメなんじゃないか」と心配する自分がいて、その自分が哲学チャンネルの活動に対して、何かしらの大義名分を設定したがる。本心ではエピクロス的な「隠れて生きよ」を遵守したいと考えているのであるが、そもそも哲学チャンネルとして表に出てしまっているし、出てしまっている以上「自己満足」以外の大義も必要なのではないかと思うわけだ。

そこでキーワードになるのが「能動的」という言葉である。

前述の通り、私は政治に対して特定のポリシーを持ち合わせていない。いや、持たないようにしていると言った方が正確かもしれない。とはいえ、政治に興味がないわけではないし、社会がどうなっても良いと考えているわけでもない。多くの人と同じように、”良い”政治が行われてほしいと思っているし、”良い”社会が実現してほしいと思っているし、それに伴って”良い”人生を送るための恩恵を受けたいとも考えている。(とはいえ”良い”の基準がわからないから困る)しかし、それに対して「この方法論が答えである」という方向性を提示することができないため、中途半端に主張を叫ぶよりも、沈黙することを選んでいるわけだ。
そういう意味で、もしかしたら私は、政治(もっと厳密にいえば「国家」という大きな規模における社会運営)のおける限界を感じているのかもしれない。現代における人権を重視した民主主義は、歴史上おそらく最良の政治体系だと思うのだが、それは”体系”の話であって、結果的に最良の社会を約束するものではない。多数の構成員を抱えた民主主義の多くは、衆愚政治に成り下がる傾向を持っているし、だからと言って専制政治を肯定することは到底できない。その結果、平たくいえば「どう足掻いても悪い方向に進むことから逃れられない」と私は考えているのかもしれないし、そうだとしたら、それはとてもニヒリズム的な考え方である。

しかし、一つだけ社会が良い方向に変わる可能性がある方法があると私は考えている。それが「能動的な人間が増えること」である。

衆愚政治においても、全体主義においても、その根底に隠されている大きな原因は「構成員の受動的な態度」ではないだろうか。与えられた情報を自分の受け取りたいように受け取り、それ以外の世界に好奇心を持たず、なるだけ余計な脳のリソースを使わないようにする。そのような受動的な態度が、ときに自己の利益だけを追求した我執的な主張を生み出すのかもしれないし、またときに残虐な政治的決定に”流されて”従ってしまう空気を醸成するのかもしれない。

逆にいえば、それぞれの構成員が「与えられた情報を常に疑い」「自分の世界の外にも好奇心を持ち」「出来るだけ物事を考える」ようになれば、もっと良い民主主義的な社会が実現できるのではないか。それが「構成員の多くが能動的な人間になる」ということである。


※余談

もしかしたらこれは「政治思想」にあたる主張かもしれないのだが、私は前述の「構成員の多くが能動的な人間である社会」でしか民主主義的な手続きにおける社会の向上はあり得ないと思っている。例えば、今後、AIによってより良い政治が行われるようになるかもしれない。その政策に従っていれば、人間は今よりも幸せに生きることができるかもしれない。しかしそれは民主主義的な社会だろうか。私は違うと思う。おそらくそれは専制政治的な社会とカテゴライズされるべきだろう。そのとき、人々の多くは”受動的”な態度でもってAIの政策を受容することになるだろうから。
そういう意味で「構成員の多くが能動的な人間である民主主義」と「構成員の多くが受動的な人間である専制政治(リーダーが優秀である前提)」のみが、これからより良い世界を実現していくにあたっての現実的な選択肢ではないかと考えている。その上で、私は専制政治的な社会を好ましく思っていないから、事実上「構成員の多くが能動的な人間である民主主義」だけが目指すべき世界だということになる。そして、少なくとも今の日本は「構成員の多くが能動的な人間」ではない。よって、この状況下で何かの政治的主張をしても、結局は衆愚政治へのステップに加担しているだけではないか。という想いが常にあり、それが私を積極的ノンポリに駆り立てるのかもしれない。



話を戻そう。

哲学チャンネルの発信における大義名分は

能動的な人間を増やすきっかけを作りたい

である。

メインチャンネルでは哲学者たちの思想を取り上げ、考えることの面白さや、物事を多角的に見る必要性、様々な意見が存在するという事実が伝われば良いと思っている。
サブチャンネルでは文学の紹介を通じて、人の人生にはいろいろなことがあること、それに伴った想像力、人間という存在の理不尽な性質や面白さなどを感じてほしいと考えている。
また、noteに関しても同じような目的をもっているのであるが、特に以前不定期で連載していた『幸福論』などにおいては、まさに「能動的に生きる重要性」をそのまま主張として織り込んでいる。

このようにして(それが果たして貢献につながるかはわからないが)哲学チャンネルの発信によって、少しでも何かしらのきっかけを得て、結果として能動的に生きる人が増えることで、その連続性の果てに「構成員の多くが能動的な人間である民主主義」が実現するかもしれないという実感。それが哲学チャンネルの大義名分の一つであり、私自身のモチベーションの一因なのである。

これは個人的な感覚でしかないのだが、積極的ノンポリとして目の前の政治的なあれこれにノータッチでいることよりも、哲学チャンネルのような活動を通じて限られた人に働きかけることの方が、よっぽど政治的な活動であると私は信じている。

もしかしたら、今後テクノロジーの発展によって、人間が能動的に社会を動かすよりも、人間以外の存在が政治の方向性を定めた方が、よっぽど”正解に近い”社会が生まれる時代が来るかもしれない。しかし、私は「人間以外のものが作った正解に近い社会」よりも「人間が作った不正解の社会」の方に意味を見出したいと考えている。そうでないと、人間の存在意義は消滅してしまうだろうから。

人間は不完全で、矛盾していて、不合理な生き物である。しかし、だからこそ、その限られた能力の中で”能動的に”努力をして、人間らしい社会を追い求めていくことが、最終的に我々に課せられた使命のように思う。

そして私は、「哲学チャンネル」によって、そんな活動の1兆分の1ぐらいには貢献したいなと思っているのである。


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