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尊厳|カント 【君のための哲学#10】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



対象は認識に従う


イマヌエル・カント(1724年-1804年)は、言わずと知れた哲学界の大巨人である。彼は、認識論におけるコペルニクス的展開をもたらし、17世紀から18世紀にかけて行われた哲学における諸派閥の争いに終止符を打った。
18世紀のヨーロッパは科学技術の大きな飛躍により「科学の力で世界を解明することができるのではないか」という期待に満ち溢れていた。しかし一方で「本当に科学は万能なのか」あるいは「科学が世界を説明できるとすると、道徳や倫理の居場所がなくなるのではないか」という疑念も噴出していた。これに対してカントは、理性の性質を厳密に分析し「人間には何をどこまで認識することができるのか」や「認識し得ないものに対して人はどんな態度で向き合うべきか」などの指針を打ち出したのだ。
彼は「対象は認識に従う」と言う。私たちは感性によって何かのデータを受け取り、語性によってそのデータをまとめ上げ、理性によってその全体の掴み取り意味づけする。「りんごが赤い」というとき「りんごが赤い」はその人の認識による総合の結果であり、データを提供した当の物自体をそのまま表しているものではない。つまり、物自体には(私たちに固有の認識プロセスがある以上)絶対に到達し得ない。
カントは「人間は絶対に真理(物自体)に到達できない」と主張したかったわけではない。認識のプロセスにおける限界を無視し、傲慢に真理を追求する姿勢を批判したのだ。しかしそれは「真理(理想)を目指さなくて良い」ということでもない。理想は実在しない。しかし、理想を掲げることはできる。そして理想と現実には大きな乖離がある。理性によって作られた理想には、私たちがそこに向かうための努力を促す力がある。カントはこの力を道徳行為の基準とし、新しい認識論を前提に倫理を構築した。


君のための「尊厳」


カントは著書『道徳形而上学言論』にて「目的の国」という概念を提唱した。目的の国とは、すべての人間が相手の人格を手段ではなく目的として扱う理想の社会のことである。
カントは「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という。これはつまり「〇〇ならば◻︎◻︎する」という目的のための手段(仮言命法)ではなく「そうすべきだから◻︎◻︎する」という目的と手段が合一した判断(定言命法)を良しとする言葉である。
目的の国では、人それぞれが定言命法で行為を決定する。人々は手段ではなく目的として扱われる。言い換えると、人々は価値を持つモノではなく尊厳を持つヒトとして扱われるのだ。
価値は交換が可能である。交換が可能なものは手段として利用されやすい。価値は何らかの対価によって置き換えることができるからだ。一方で尊厳は交換することができない。尊厳を手段として用いることもまた不可能である。尊厳を何らかの対価によって置き換えることはできない。
カントは、このような目的の国を理想として掲げ、その理想に向かって努力することが道徳的な善であると考えた。
翻って現代。私たちの社会はどうなっているだろうか。異論もあるだろうが「人々は価値に対して熱中している」と表現しても間違っていないのではないだろうか。自分自身に関しては、その価値をより向上させるように努力しているし、他者に対しては、対象の価値を持ってその有用性を測っているきらいがある。これはカントが理想として目的の国と真逆である。いわば手段の国だ。
すでに(完全に)価値の交換が前提になってしまった社会を変えることは難しい。しかし、個人単位で変化することは可能なように思う。
自分の尊厳を大事にする。他者を目的として認識する。
カントが定めた道徳規律とそれに対する努力目標は、今もまだ、私たちの格率になり得るのではないだろうか。



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