阿倍仲麻呂を通して読み解く東アジア
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本日、阿倍仲麻呂を通して東アジアを読み解いて行きます。
阿倍仲麻呂は、20歳で第八次遣唐使の留学生として入唐しまた。遣唐使は西暦630年から西暦894年までの264年間に渡って20回、日本から唐に送られた派遣使節団です。
阿倍仲麻呂は、超難関の科挙(官吏試験)に合格しました。
科挙の競争率は熾烈を極めており、仲麻呂の合格した最難関の進士科は、最盛期には約3000倍に達し、受験者千人で合格者が1~2%しかいなかったと言われれいます。合格者は唐代では毎年、30名ほどであったとされているので、留学生で合格した仲麻呂は、スバ抜けて優秀でした。
阿倍仲麻呂は唐朝の諸官を歴任し、当時の皇帝である玄宗(げんそう)にも一目置かれ、唐の大臣職という重責も担いました。
それから、32年の年月が過ぎ、753年、阿倍仲麻呂は皇室の蔵書を管理し運営する長官職である「秘書監」という大臣位職に任命されることになる。これは現代では、いわゆる国立図書館長という地位がニュアンス的に近いよう思われます。
753年、第12回目の遣唐使の帰国に合わせ、阿倍仲麻呂はついに帰国のチャンスを得た。仲麻呂が35年ぶりに日本への帰国を許可された際には、詩仏の王維と詩人仲間が酒宴をもうけ、詩を送りました。
仲麻呂が帰国するが、その航海の途中に嵐に遭い難破してしいました。唐南方の驩州((かんしゅう)現在のベトナム北部)に漂着することになった後、再び長安にたどり着きました。
しかし、その前に難破の知らせが届き、仲麻呂は死亡したと思われていた。彼の死亡の誤報は、友人の李白の耳にも入るところとなり、友人の死を悼んだ李白は、仲麻呂のために以下のような仲麻呂を悼む詩を詠んでいました。
哭晁卿衡 晁卿衡(ちょうけいこう)を哭す
日本晁卿辞帝都 日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し
征帆一片绕蓬壷 征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月不归沈碧海 明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み
白云愁色满蒼梧 白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ
西安の興慶宮公園阿倍仲麻呂記念碑が立っています。阿倍仲麻呂は日本の心の中だけではなく、多くの中国人の心の中に生き続けています。
参考文献
森公章『阿倍仲麻呂)』吉川弘文館、2019年
『しにか』大修館書店、1995年6月号(特集:詩仙・李白)
趙雪「唐風和月:阿倍仲麻呂と唐詩人の交友関係」(2021 年度国際日本学コンソーシアム(報告要旨)
豊福健二 「阿倍仲麻呂と唐詩人の交遊詩 」 『武庫川女子大学生活美学研究所紀要』vol.29、2019:pp.121-134
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