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儒学者朱舜水を通して読み解く東アジア

こんばんは。テツジンです。本日、中国明王朝の儒学者の朱舜水(しゅ しゅんすい)について紹介します。

朱舜水(1600-1682)は、中国浙江省余姚の出身です。朱舜水は、明末清初の変乱に際し、明王朝の復興を図り4度来日しましたが、明王朝復興運動が失敗に終わってしまい、1659年に日本に亡命しました。

当時の朱舜水は60歳間近でした。日本人知識人と出会い親交を結み、安東省菴(あんどう せいあん)(1622-1701)と徳川光圀(とくがわ みつくに)(1628-1701)はその中で、最も親しい友人であった。


日本に逃れてから、朱舜水は長崎に6年間在住し、儒者の安東省庵(あんどう せいあん)のもとに身を寄せていました。省庵はその学徳を知って師事し、少ない自分の俸禄の半分を舜水のために援助し続けました。

・佐久間好雄・鈴木暎一監修執筆、森義一画『徳川光圀 水戸黄門一代記』パロス、1993年


常陸水戸藩第2代藩主の徳川光圀は、朱舜水を敬愛し、江戸にある水戸藩の中屋敷(現在、文京区弥生の東京大学農学部あたり)に朱舜水を招聘しました。亡くなるまでの17年間(1668-1682)、朱舜水は徳川光圀の賓師・顧問として務め、二人の間で交流を重ねました。この交流からいくつか大きな建築造園工事が着想、実施されました。その一つが小石川後楽園です。

後楽公園

この庭園は1629年に水戸徳川家の祖である徳川頼房が、江戸の中屋敷の営造に着手し、光圀が完成させました。光圀は作庭に際し、朱舜水の意見を取り入れ、庭園の至る所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国的且つ儒教的な趣のあるものに仕上げました。そして、中国宋代詩人の范仲淹の『岳陽楼記』の「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、「後楽園」と名付けられました。

後楽園駅


上野と本郷を中心とする御徒町(おかちまち)・湯島・谷中・根津・千駄木(せんだぎ)地域である「しのばずエリア」は、歴史の中で知識人たちの溜まり場です。江戸時代、このエリアで朱舜水は、徳川光圀をはじめとする日本の知識人と交流を深めた。

不忍(しのばず)通り


不忍(しのばず)通り


              
不忍(しのばず)通りは、文京区の目白通りから台東区の中央通りに至る延長8kmの2~4車線の環状方向の都道で、沿道には日本女子大学、東邦音楽大学、お茶の水女子大学、根津神社、不忍池などがあります。

東京大学農学部の敷地内にある「朱舜水先生終焉之地」の石碑
「朱舜水先生終焉之地」の石碑の説明


朱舜水は安東省菴と光圀らとの交流を通じて、日本での儒教発展に大いに貢献し、日本文化に大きな影響を与えました。例えば、朱舜水の儒学思想は朱子学や陽明学にとらわれず、実理・実行・実用・実効を重んじ、水戸学思想の基礎を作りました。そして、朱舜水の儒学思想は朱子学や陽明学にとらわれず、実理・実行・実用・実効を重んじ、水戸学思想の基礎を作りました。そして、朱舜水は『大日本史』の編纂にも参加し、『大日本史』や水戸の文化財に多くの漢籍を残しました。


1682年、朱舜水が83歳で亡くなると、光圀は外国人の朱舜水を徳川家の墓所に葬りました。徳川家以外の人物で唯一葬られており、光圀公がいかに 朱舜水を大切に思っていたかが分かります。 


末筆に二つエピソードを紹介します。朱舜水は餃子を日本に伝えたと言われています。


また、ラー博のホームページの記載によれば、

水戸光圀が、日本人として初めて中華麺を食べる。儒学者朱舜水が、光圀の接待に対して自分の国の汁そばをふるまった。


つまり、水戸光圀(水戸黄門)が、日本人として初めて中華麺を食べたとのこと、その中華麺を持ち込んだのは朱舜水でした。

朱舜水について、また朱舜水と日本の知識人の文化交流史について調べており、また適宜の時に続編を書きます。

参考文献

・石原道博『人物叢書 朱舜水』吉川弘文館、1989年
・佐久間好雄・鈴木暎一監修執筆、森義一画『徳川光圀 水戸黄門一代記』パロス、1993年
・石毛直道『麺の文化史』講談社学術文庫、2006年。
・新横浜ラーメン博物館ホームページ

・「しのばず文化情報活用プロジェクト」ホームページ

・「茨城新聞」ホームページ
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14633079708429


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