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日本の儒学者安東省庵(あんどう せいあん)を通して読み解く東アジア

こんばんは。テツジンです。                                                                           本日、江戸時代の儒学者安東省庵(あんどう せいあん)について紹介します。

安東省菴は日本の儒学者で、筑後国柳河藩(現在の福岡県柳川市)立花氏の家臣にして藩儒です。                                                                                     安東省菴は幅広い学問に通じ、学派に偏らない本来の精神を追求し、生活は清貧に甘んじ、実学を信念とし、論語のような生活態度をしたと言われています。

松野一郎『西日本人物誌⑥ 安東省庵』西日本新聞社、1995年。
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安東省庵(1622~1701)が儒官として仕えた筑後国柳河藩(現在の福岡県柳川市)は、立花宗茂(1569~1642)を藩主としていました。安東省庵は、「柳河藩の学問の祖」と言われ、「西海の巨儒」とも呼ばれています。

八幡和郎『江戸300藩 最後の藩主』光文社新書、2004年、267頁。
1701年頃の筑後国の地図
(出典:松野一郎『西日本人物誌⑥ 安東省庵』西日本新聞社、1995年。)


私が安東省庵に注目したのは、2021年1月20日のブログで紹介した儒学者の朱舜水について調べることがきっかけです。


端的に言えば、朱舜水は先に安東省庵と知り合って、安東省庵が朱舜水を水戸黄門のこと、徳川光圀にし紹介したのです。現在風に言えば、安東省庵はコーディネーターの役割を果たしたのです。


明が清によって滅びて、朱舜水が日本に亡命した時、安東省庵は京都において松永尺五の下で学問を修めていました。友人の穎川入徳から朱舜水の情報を得て長崎に赴き、朱舜水と会談し、師弟の交わりを持ちました。             

当初、安東省庵は朱子学一辺倒であったが、朱舜水に諭され、陽明学なども学みました。それが、省庵の人格育成にも役に立ったに違いありません。

朱舜水が長崎に滞在期間中、少ない自分の俸禄(200石)の約半分を朱舜水のために贈ったようです。安東省庵のその援助は、1665年に朱舜水が徳川光圀の招聘に応じて江戸に赴くまで6年間も続きました。友情の深さを物語っています。

コロナ禍で暗いニュースばかりの時期、安東省庵と朱舜水および水戸黄門と朱舜水との交流の歴史を知り、思わず胸が熱くなり、希望が湧いてきます。コロナ禍が収束したら、安東省庵の故郷福岡県柳川市を訪ねたいと考えています。安東省庵についてはいつかまた続編を書きます。

参考文献                               ・松野一郎『西日本人物誌⑥ 安東省庵』西日本新聞社、1995年。     ・八幡和郎『江戸300藩 最後の藩主』光文社新書、2004年。

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