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新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵を通して読み解く東アジア

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本日、新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵について紹介します。

新宿中村屋について、以前一度書いたことがあります。

余談の話ですが、だいぶ前から、新宿中村屋と相馬愛蔵夫妻の創業史に関心を持っていました。市民講座の準備のため、この2ヵ月ほど、集中的に調べてきました。

出典:相馬愛蔵『一商人としてー所信と体験』岩波書店、1938年

   

以下では、新宿中村屋の公式ホームページを参考して、相馬愛蔵のライフヒストリー(生活史)を辿っていきます。


相馬愛蔵は父の相馬安兵衛、母のちうの三男として長野県安曇野市穂高に生まれました。相馬家は祖父の代まで庄屋を務めていた地元の名家でしたが、愛蔵が1歳にも満たない時に父が、その5年後には母が他界しました。相馬愛蔵は年の離れた兄に育てられ、子供に恵まれなかった兄夫妻の養嗣子となります。

1887年(明治20年)、相馬愛蔵は東京専門学校(現 早稲田大学)に入学しました。卒業した後、北海道に渡り養蚕を学び、1894年に『蚕種製造論』を書き上げました。

1894年、相馬愛蔵は、仙台を訪問して、島貫兵太夫と知り合うようになりました。島貫兵太夫は牧師で日本力行会の設立者、苦学生や移民の援助事業に生涯を捧げた人物です。

1894年に孤児院支援を目的とした義援金集めの協力を求めるため、仙台を訪ねます。仙台で後妻となる相馬黒光と出会いました。二人は1897年に結婚し、翌年に長女の俊子が誕生しました。

話は少し飛躍しますが、俊子は後にインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースと結婚します。ラス・ビハリ・ボースは、日本のインドカレーの父と言われています。

話を元に戻して、1901年に相馬夫妻は本郷に中村屋を創業します。1909年、中村屋は新宿移転と同時に和菓子の販売を開始します。

中村屋は大正末から昭和の初めに新宿に進出してきた百貨店に対抗すべく、営業時間の延長や優秀な技術者の招聘、レストランの開設など積極的な方策を打ち出しました。また、1927年には中村屋を代表する3商品の「純印度式カリー」「月餅」「中華まん」を発売します。これらの施策が奏功し、中村屋は百貨店の出店にも負けず、逆に売り上げを伸ばすことに成功します。

大正末期、相馬夫妻は朝鮮半島から中国大陸を数カ月かけて回り、見聞を広め多くの商品を持ち帰り、中村屋の名物として育てあげました。


商売が軌道に乗った相馬愛蔵は、世間の人々から「中村屋が繁盛する祕訣を話せと云ひ、商賣のコツを敎えてくれなどと云ふ人がある」と多くの要請を受けて、1938年に『一商人として』を刊行します。


相馬愛蔵『一商人としてー所信と体験』岩波書店、1938年

  

1954年に相馬愛蔵が亡くなりました。享年83歳です。

                                        新宿中村屋ビル            

2014年10月29日に「新宿中村屋ビル」(地上8階、地下2階)がオープンしました。テナント8店と中村屋のレストラン・ショップ3店の合計11店、中村屋サロン美術館から構成される商業ビルとなりました。

2021年、中村屋は創業120周年を迎えました。百聞は一見に如かず。業歴100年以上の老舗に敬意を払って、2月半ばに初めて新宿中村屋を訪ねました。また、機会があったら訪ねたい、そして、いつかは相馬愛蔵の生まれ育った長野の故郷を訪ねてみたいと思います。

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