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THE MATCH 2022 那須川天心vs武尊  —2人の孤独な主人公。決戦。そして完結ー

今週末の6/19(日)、東京ドームで開催される一夜限りの立ち技格闘技の祭典『THE MATCH』にて、ついに那須川天心vs武尊が激突する。

私自身、20年程前からの格闘技ファンだが、ここまで待望され、熱を帯びた日本人対決は見たことが無いし、日本格闘技界の歴史を振り返っても、史上最大規模で行われる日本人頂上対決だろう。いや、日本人と絞らなくてもここまで注目され、待望された試合はなかった。

過去の例を挙げると魔裟斗vs山本KID徳郁、エミリヤ・エンコ・ヒョードルvsミルコ・クロコップ以上にファンからの待望は熱かったと思う。

彼らの対戦がファンの間で「見たい」と言われ始めたのは、2015年辺りからだ。武尊は新生K-1のリングでスーパーバンタム級(-55㎏)のチャンピオンとなり、そこから数か月後、那須川はK-1グループ以外(非K-1)の国内キックボクシング団体のチャンピオンやトップファイターが集結したBLADEのトーナメントを3試合全てKO勝ちと言う圧倒的強さで優勝。

この頃から、互いを意識したライバル関係は始まった。

まず、軽量級の日本人対決が、東京ドームで、5万人ソールドアウトの会場で、ここまでの規模で開催されること事態が異例であり、奇跡と言っても良い。

負けずに勝ち進んで来たことが、彼らの対戦をここまで大きくしてきた最大の要因であると思うが、そこまでに至った経緯には、他にも様々な要点がある。2人の世紀の一戦まで1週間を切った今、私は彼らのファイターとしての主義・思想・信念と言う『本質的な部分』を彼ら2人の試合やインタビュー、著書をここ7~8年見て、読んで、感じた客観的な事実と私自身の主観も踏まえて『核の部分』を記したいと思う。

そこを掘り下げて行くことで、多くの人には理解されにくい、彼ら2人が抱える共通した『献身と孤独』が見えてくる。



これまでの那須川天心


2人には、共通した『格闘家としての原点』がある。彼らがプロのキックボクサーになった最も大きな要因は『K-1 WORLD MAX』の存在だ。武尊は10代、那須川は10代にも満たないの頃の00年代に日本国内では空前の格闘技バブルが起こっていた。

その中で、軽中量級の礎となったのがK-1 WORLD MAXである。武尊と那須川。2人にとって、この旧K-1の世界が彼らがプロ格闘家を目指す原点であった。

【⇩K-1 WORLD MAXとは?その歴史を振り返った記事⇩】

Youtubeや雑誌、SNSなどと言った様々な媒体で、これまでの彼らの主張をここ数年に渡って傾聴してきたが、キックボクサーとして彼らが目指していた物は共通して自身が幼き頃、憧れた旧K-1的な世界観を追い求めていたところだった。彼らはファイターとして、どこか純粋すぎる程ただ真っ直ぐに手に入るはずのない消えていった虹を追いかけてるように見えた。

「自分が面白い試合をして国内と世界の強豪に勝っていけば、おのずと格闘技界の中心に立ち、実績と知名度を高めていけば、きっと世界を変えられる。自分が憧れたあれ以上の世界を創造できる。そして、有名になり皆から尊敬され支持される」

表舞台に立ったばかりの頃の彼らにはファイターとして、そんな信仰にも近い主義主張、そして信念があったはずだ。それが、彼らの戦い人としての心の軸なのだと彼らの主張を聞いてると強く感じていた。

しかし、現実にそんな世界は待っていなかった。そもそも、キックボクシングは旧K-1消滅以降、世界中で選手がGLORYや韓国に拠点を置いた新体制のK-1(日本国内の新生K-1とは別)やONEと言った各団体に分散、或いはMMAやボクシングと言った別の競技に闘いの場を移す選手が後を絶たない状況が長く続いている。

「この団体のチャンピオン=正真正銘の世界一」と言う団体が存在しない。つまり、MMAの最高峰であるUFCのように、歴史と圧倒的な資本を持つ団体や組織がないキックボクシングの世界は、選手個人がどれほど頑張ったところで、MMAやボクシングの世界チャンピオンのような地位や名声と言ったステイタスは得られない競技だ。

皮肉にも那須川天心は、そのジレンマに最もはまったキックボクサーの一人だ。


彼は『真の世界一の称号を証明出来るはずがない競技で、世界一になってしまった天才』である

わずか18歳で現役のムエタイ最高峰の王者を1R一撃でKOしても、ムエタイ最強クラスの選手をことごとく降しても。MMA主体のイベントでキックボクシングを自らの力で持ち込み、主役の座を勝ち取っても。世界的スターであるフロイド・メイウェザーと拳を交えた奇跡も。あまりにも若い年齢で団体を背負い、1万人規模の観客を集められる程のスターでありながら無敗で勝ち続けている事も。

彼がどれほど凄いことをやり遂げているのか。その本質が見ている人のほとんどの人に伝わらなかった。

これは那須川天心個人の問題では全くない。キックボクシングと言う競技は団体と選手が乱立したエゴばかりの村社会が混在している世界であるがゆえ、サッカーのFIFAのような連盟、バスケットボールのNBAや野球のMLBのような機構、MMAのUFCのような圧倒的資本を持った団体がなく、まとまりがない上に分かりやすいシステムが構築出ていない。一部のマニアにしか分からない評価しにくい世界だ。

ボクシングの4大タイトル、MMAで言うUFC、W杯やオリンピックのような『このタイトルを獲得した=世界一』と言ったシンボルがない以上は、競技としての発展は乏しく、そんなインディの世界で彼は「世界一」と証明出来ない競技で世界一になってしまった。

誰よりもキックボクシングと言う競技を愛し、才能を与えられた天才は皮肉にも、どれほど献身的に奉仕しても、勝てば勝つほど周りに正当な評価を与えられない。誰に勝っても得をせず、孤独と言う闇に呑まれていく状況に陥ってしまった。

さて、ここで読者の人に問いたい事があります。

もし、あなたが何かに自分の人生を賭けて時間と身を捧げ、献身的にどんなに与え続けても見返りが返ってこない、作り上げても自分が求める結果が来ることはないと知ってしまった場合どうするでしょうか?

答えは2つです。

全てを辞めて去っていく。もしくは、自らが造り上げたその対象を捨てる、もしくは破壊するのではないでしょうか。

彼は『全てを辞めて去っていく』と言う選択をした。そうせざる得なかったと言っても良い。自らが献身的にいくらこの競技に捧げても、正当な評価を得られなく、現状のキックボクシング界では、もうこれ以上証明する事がないのだから。

自らが愛した世界を去らなければ行けないその心境は、那須川自身がRIZIN煽りVTRの制作者・佐藤大輔にお願いした選曲である新世紀エヴァンゲリオンに使用された有名曲『甘き死よ、来たれ』の歌詞と完全にリンクするような想いだったのだと思う⇩


しかし、那須川のキャリアにも1本刺さった、抜くことの出来ないトゲがあった。それは彼にとって避ける事の出来ない重い十字架のような存在だったであろう、これまでずっと比較され続けてきた新生K-1の3階級制覇王者・武尊の存在だ。

彼と試合して勝利することで、今まで伝わらなかった選手、そして表現者としての葛藤と孤独を少しでも晴らし、自らがこれまで築いたキャリアの凄さを分かりやすい形で世の中に証明する事が出来る。

そして、彼と試合すれば当然世間がこれまでにない規模で注目を浴びる事は必然であり、かつて自身が旧K-1を観て憧れ、プロのキックボクサーとなったように、今の10代かそれに満たない年齢の子供達に世紀の一戦を見せる事で、次の世代のキックボクシングを支えていく才能にバトンを繋ぐ事が出来る。

これまでの全てのカオスにケリを付け、自分が築いた功績を未来に繋ぎ、そして何よりも、今までの自分を肯定する為に、神童が最後にして最強のライバルとの世紀の一戦に挑む。



これまでの武尊


私は20年以上格闘技を観続けてきたが、武尊というファイターはK-1という競技に留まらず、これほど完璧なメインイベンターは今まで居なかったと言える程、完璧なメインイベンターである。

以前、RIZIN旗揚げ興行となった『RIZIN WORLD GP 2015 ~IZAの舞~』のメインイベント・桜庭和志vs青木真也の煽りVTRで青木がこんな名言を語っていた。

「格闘技は裏切られるんだから。新日本プロレスはハッピーエンドで客を帰してくれる。格闘技はハッピーエンドで帰れないんだよ。ファンが泣いて帰るんだから」

振り返れば、私もそんなファンの一人だ。格闘技の興行に於いてハッピーエンドで幕を閉じた大会よりも、バッドエンドで会場を後にした大会の方が多くあったような気がする。

しかし、武尊と言うファイターは違った。新生K-1と言う団体のエースである彼は新生K-1のファン、或いは武尊と言うファイター個人を応援してくれるファンを、魅せる試合をした上で必ず試合に勝ち、ハッピーエンドでファンを帰してくれた。


彼が中心となって創造するその世界は、『格闘技』と言うジャンルとは距離を置き『100年続くK-1』と言うスローガンの元、展開していく世界。その団体と契約を結んだ選手たちでピラミッド型のヒエラルキーを構築し、その中で競わせ、その世界を支持したK-1ファンに還元していくシステム。そんな『幸福な村社会』である。

外の世界など知らなければ、自分達だけの世界で喜びと興奮、感動を享受し、自分達だけで物語を回すことの出来る、外の世界とは契約と言う名の『壁』で遮断した世界だ。

そのコンセプトは旧K-1を始めとした格闘技界の栄枯盛衰の歴史を振り返れば、私の求めていた理想とした世界だった。1つの団体でピラミッド型のヒエラルキーを形成し、アメリカ市場で一大帝国を築いた『UFC』を目の当たりにしたからである。その枠の中で物語を回せるシステムを創れば、ファンが求める夢のマッチメイクをスムーズに組める。それを日本市場と言う格闘技バブルから焼野原になった市場で、そのコンセプトを取り入れたのが新生K-1だった。

そんな新生K-1の舞台で武尊は3階級制覇を達成し、不動のエースになった。

しかし、そんな彼の存在を脅かす1人の存在がいた。壁の外の世界で活躍する那須川天心と言う才能との比較から来る差別だった。立ち技格闘技の世界で、元々同じ階級で戦っていた他団体との選手の比較は避けられなかったのだ。

地上波中継がなく、新生K-1と言う村社会で活躍する武尊はどれほど劇的な試合を見せ、結果を出しても、RIZINと言う地上波の電波に乗り、日本全国のお茶の間に試合が流れる那須川天心との評価の差は開くばかりだった。その決定的な差を作ったのは、2018年大晦日、那須川天心がフロイド・メイウェザーと試合し、日本全国から世間の注目を集めた辺りからだ。

皮肉にも那須川に対する武尊のコンプレックス・ジェラシー・そして憎しみに近い感情が、何よりも彼の原動力となっていたことに違いはないだろう。しかし、どんなに新生K-1の枠の中で勝ちを積み重ねた所で、ロジックでは中々説明しにくい『見えない差』から来る差別は無くならなかった。

彼もまた、那須川とは違った種の差別と偏見を持たれた孤独なチャンピオンだ。那須川との直接対決に執念を燃やし執着したのはシンプルに「選手として自分の方が上だ」と証明したいことが、勿論、ファイターとして1番の動機だろう。

それ以外にも、私が以前読んだ武尊のインタビューで興味深いコメントがあった。それは、武尊と言うファイターの道標とも言える主義・主張・思想・信念という『核』の部分だ。

「自分自身が最強だと証明する事と共に、『K-1こそ最強である』と証明しなければいけない」と彼は何度も口にしていた記憶がある。

それは、かつて私が10代の頃見ていた石井和義氏が創造した旧K-1にあった思想だった。自分自身が最強であると同時に、身を置く団体への愛と崇拝にも近い帰属意識から来る宗教的な主張。平成の格闘技界に良く見たアングルである。彼は今の日本格闘技界の中心選手の中でも、特に『平成の格闘技の思想』を色濃く持った選手である。

武尊という新生K-1のエースは『旧K-1の思想も継承したK-1の化身』とも言って良い存在なのかもしれない。

自らが最強である証明、そして、人生の全てを捧げ、愛し、創り、支えてきた『K-1』の舞台こそ最強の団体であると証明する為に、彼は那須川との世紀の一戦に挑む。

自分が身と心を削り、やってきた事が「正しかった」と証明する為に。


THE MATCH後にある立ち技格闘技の未来


那須川天心と言う存在は、メイウェザーと拳を交えた辺りから、国内において「キックボクシング」という枠を完全に越えた『那須川天心』というジャンルとも言うべき存在となった。彼が主戦場としていたRISEとRIZINと言う団体の枠をも超えた、日本格闘技界の1つのブランドとも言うべき存在であると思う。

これが何を意味するかは、那須川本人と1部の関係者とファンだけが分かっていた。

キックボクシング=那須川天心となってしまった場合、彼がこの競技を去った後どうなるか?

『キックボクシング』と言う競技の市場は一旦、焼野原となり、何も残らないのだ。

何故か?

「誰も那須川天心になれないから」である。

青木真也が以前「那須川はもしかしたら救世主ではなく、破壊者かもしれない」と語ったのは咀嚼するとこういう事なのだと思う。それを聞いた那須川本人も「青木さんの言ってることは分かる」と語っていた。

思い返せば、魔裟斗が活躍していた『K-1 WORLD MAX』がまさにそうだった。魔裟斗=K-1 MAXである以上、彼が居なくなった立ち技中量級の世界は一気に求心力と需要を失った。那須川が主戦場とする『RISE』は全く似たような現象が起こるだろう。那須川天心=RISE。いや、RISEと言う団体を那須川個人が飲み込んでしまっているのが事実だ。

RISEと言う団体が新生K-1と同格のライバル団体と見られるのも、那須川天心と言う存在が居るからである。 

新生K-1はRISEと直接戦うのは今回が最初で最後だろう。RISEに資金で強力なスポンサーでも就かない限りは、戦わずして、新生K-1とは団体の規模で差が付いてくる事は避けられないだろう。

逆に新生K-1は武尊と言うエース頼みの団体ではなく、彼が抜けた後も物語を回せるピラミッド型のシステムが出来ている。武尊が近い内に抜けるのは確かに痛手だが、これまでの経営に問題が出る程の影響はなく、今までの規模でやっていくだろう。

それは、コツコツとピラミッド型のシステムを構築し、機能してきたからだ。2014年から始まって以来の新生K-1の努力の賜物だ。


さようなら。すべての平成の格闘技。


私にとっての那須川天心vs武尊と言うカードは、『平成の格闘技が残した最後のビッグマッチ』である。

平成の格闘技とは何か?

それは『思想 vs 思想』である。分かりやすく言えば異種格闘。他流試合。イデオロギー闘争だ。

こういうアングルの試合は選手個人が団体や競技と言う枠を飛び越え、ジャンルと化した選手同士の激突。もしくは、所属団体や競技への愛などの帰属意識から来る宗派と宗派の激突。宗教戦争みたいなアングルだ。

こういったアングルはもう当分ないだろう。何故ならば、令和の格闘家の主張は『個人主義』が基本的なベクトルであり、スタンスだからだ。

最近の人気格闘家の主張はまさにそれで、特に朝倉兄弟はその最たる例だろう。今回THE MATCHに出場する選手さえも「K-1勢がRISEに勝つなんてそんなの興味ない。ただ、あの選手に勝ちたいだけ」や「RISE愛は特にない」等と語る選手を何人か見かけた。

私はこの流れを悪いなど思わないし、否定的な主張をする気は全くない。

ただ「誰もが自分のやり方で様々な手段で情報を発信できる『個の時代』の流れが格闘技界にも来た。そういう時代になったのだ」と思う。

それだけだ。

これからはどの団体にも属さず、自分のやり方でファイトビジネスを初め、キャリア形成をしていく。そんな選手もきっと現れるだろう。

或いは、Youtube上で『○○チャンネル vs ○○ちゃんねる!』なんて対抗戦もあるかもしれない。

そうなれば、必然的に格闘技ファン達の価値観も多様化してくるだろう。あまりにも細分化されて、『格闘技ファン』なんて言葉すら死語になる日も近いのかもしれない。

それが、『令和の格闘技』なのだと思う。

だからこそ、1つの集合体となって大規模でイデオロギー闘争が起こる今回の那須川天心 vs 武尊は、私にとって『平成格闘技の最終回』だ。


きっとこの試合が終わった後、とてつもない喪失感が心に突き刺さってくると思う。それは、長年格闘技を観続けて、何度か味わってきた『喪失感』だ。

自分が心から愛したリングが音も無く消えていった時。そして、心から応援し続けた私にとってのヒーローがグローブを置いた時。


でも、もう1つ増しに行く。忘れたくても、忘れられないことを。


そして、いつの日かその先に、2人の王様に眩いほどの甘き死よ、来たれ。



                             不滅の鉄人







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