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崖線をゆく

今回は東京をうろつきます。気まぐれですいません。
千葉はもうちょっとあとで書きます。
僕は旅に出ると、現地の博物館や郷土資料館を巡りたいものですが、今年になって月曜日休みとなりました。だいたいが休館日。
どこか遠くに行くのも良いのですが、そんな豪儀な時間と金もありません。
何か手軽に、東京の本質を探れる「散歩」ができないものか。
で、いろいろ調べたところ、魅力的なキーワードに出会いまして。
「山手線の東側はテーブルマウンテン」「山手線は山岳鉄道」
荒川や中川など川が好きで、埼玉や東京の地形などに興味があり。
先日は国府と国分寺を巡ろうと相模国の海老名市と下総国の市川市を巡ったついでにもう一度、武蔵国の国分寺を散歩したら、「国分寺崖線を改めて勉強したり散策したいなあ」と思ってたところです。国分寺崖線の北にある国立や立川は畑作中心だが、低地部分の日野など多摩川沿いは稲作がさかんという生活の大きな違いがある。旅をしながら人の暮らしを探っていきたい。
すいません、何言ってるかわけわからんですよね。つまり、僕の中で「崖線」がキーワードだったという。
そういう僕の気分の中、こんな魅力的かつ東京の本質を教えてくれそうなワードにふれたもので。なので、今回は「山手線で1周しながら、わが地元(埼玉の西武)に広がる武蔵野台地のふもとをめぐり、ついでに東京を探る旅」、略して「東京中心部を縦断する旅」にしました。

これは世界最大級のベネズエラのテーブルマウンテン。
もちろん、関東平野広がる東京のはちっちゃいやつですが。
ユーラシア旅行社さんのYouTube動画に心奪われました。

東京は台地の端っこ(旅の前に)

隅田川の西に広がる、武蔵野台地。その端っこの「崖線」は、「ハケ」や「真間」とも言われる。
実はここが、原始時代以来の埼玉~東京の人々の生活の拠点でもありそうなのです。まずはそんなお話から。

東京都環境局HPより引用。

みなさまは視覚的に西の関東山地に目が奪われ、東側はほとんど平地だと思うでしょうが、東西に細長い東京の大部分が武蔵野台地という割と平坦な丘陵地です
荒川の南、多摩川との間に、石神井川や神田川、善福寺川に目黒川が流れ込む武蔵野台地。日本列島ができる以前から、富士山や浅間山など火山の噴火による火山灰や山が崩れてつもった、低く平坦な台地です。

多摩六都科学館HPより引用。

原始時代、人々の生活が大いに栄え、その文化も現在まで残っている縄文時代。実は今より温暖で海面も高いため、関東の南は海の底でしたね。
上の2枚の画像、隅田川から江戸川までの低地帯が海に沈み、そして武蔵野台地の東端まで海が迫っていたのを想像してみましょう。

埼玉県の「嵐山町web博物誌」より引用。
縄文時代の人々の集落のあとである貝塚の分布。

武蔵野台地の北東部の上野の対岸に、千葉の市川市の国府台があるイメージです。
南東部は大森あたりのようで、ここに大森貝塚が発見されてますね。
縄文時代の遺跡は、人々は山の幸や海の幸に恵まれる海沿いの小高い丘陵地に発見されているので、武蔵野台地の東端に遺跡が分布される。大森貝塚と武蔵野台地がつながって目から鱗です。

北区の王子近くにも、縄文時代の遺跡がありました。

やがて弥生時代ごろから海岸線は後退しましたが、低地は葦が広がる湿地帯。天皇による政府(朝廷)が日本を支配したころも、武蔵国の国府や国分寺も武蔵野台地の西部の小高いところに作られ中心地となりました。
やがて朝廷の支配がおとろえ、関東も武蔵武士団が争い、鎌倉に幕府もでき、室町時代には関東支配の中心地が鎌倉府となり。
川が流れ込む「江戸」という場所に江戸氏が城をつくり、太田道灌により整備されます。
家康入府の時は、江戸はあまりにも住みづらい場所だったので、家臣は鎌倉や北条氏が支配していた小田原を拠点とするように訴えましたが、家康は江戸を選び、いちから周辺の町づくりをはじめていきます。
家康は江戸を、秀吉がつくった水運の町「大阪」を真似しようとしましたが、この江戸城も「武蔵野台地」の東端でした。

家康入府以前の江戸。
宝島社「地形と地理でわかる神社仏閣の謎」より。
海青社のtwitterより、山手線と武蔵野台地。
東京駅の西に江戸城の堀が見える。
当時の物流(水運)の拠点(船で運ばれた荷物を蓄える蔵屋敷)であり、最大の繁華街の浅草は上野駅のすぐ東、隅田川との間。

やがて明治時代になり、首都・東京の町と鉄道の整備をはじめる。
新橋(上の画像でいう東京駅と品川駅の間)から横浜まで鉄道が敷かれるが、当時最大の輸出品であり日本の産業の中心となった製糸業による生糸を横浜まで輸出するには、群馬の富岡製糸場やら北関東まで鉄道を伸ばす必要があった。しかし、東京東部の「上野~品川間」は、住宅地や商業施設が密集するために西の池袋や新宿・渋谷を通る「田端~品川」に設置された。
日本鉄道品川線、今の山手線は実は西側しかなかった。
しかし、福島など東北の常磐炭田の石炭を輸送する必要もあり、上野~品川間に鉄道をつくる必要が出てくる。
そのときに、武蔵野台地の東の縁(へり)、崖状になっている「崖線」の下に今の山手線が作られます。
鉄道は高低差を嫌うため、丘陵地につくるには、山を崩して切通しにしたり、トンネルをつくる必要がある。なので武蔵野台地の崖線下の平坦部に敷いたわけです。
つまり、武蔵野台地の東端の江戸城と、上野や秋葉原・新橋や浜松町に品川、東京の重要な拠点は、武蔵野台地の崖線に沿うわけです。
なので、その崖線の散策をみなさまにお届けしようと、散歩してみました。

武蔵野台地の東端の崖線を通り、東京の真ん中を突っ切る旅へ!

山手線に乗りながら、まずは池袋~新宿~渋谷~目黒~大崎を経て、品川に向かいます。かつての日本鉄道品川線ですね。

開発が進みビルばかりですが、かつてはすぐここまで海でした。

品川から、東京を通り、武蔵野台地東端の崖線沿いに北上し始めます。
日暮里に向かいましょう。
品川駅のホームからは建物も多いため、坂や崖がまだ見えにくいです。
降りたらすぐ白金台の台地があるのでしょうが、電車代をケチります。

浜松町。海に近く羽田空港までのモノレールが通ってます。

新橋の近くにある愛宕山(東京タワーのすぐ北)も武蔵野台地の一部ですね。さて、皇居目の前の東京駅に来ました。
ちなみに北部の神田には以前は山があり、家康はその神田山をすべて崩して日比谷入江を埋め立てました。また、秋葉原とお茶の水を流れる神田川は、江戸城を守るため伊達政宗~綱宗のとき本郷台の南端を真っ二つに割り、湯島台と駿河台に分かれました。地下鉄丸の内線で御茶ノ水駅あたりで急に不自然に地下から川の上に開けるのは、台地を切り開いて流れる神田川の上の、2つの台地をくぐるためなのですね(以下の画像)。

台地の下から出て、台地の下に入り込む地下鉄丸ノ内線。

上野駅のすぐ隣の上野山。やっと崖線が駅のホームから見えてきました。

東京の鉄道利用者にはお馴染みの、上野公園すぐ隣です。

さて、鶯谷駅。あの有名なホテル街ですが、もともと東北から東京へ出稼ぎに来た人々が上野に降りたとき、その人たちへの旅館が集まったため、ホテルが多く作られ、今では男女のホテルのスポットとなったようです。
遊郭である吉原に近かったこともある、諸説あり。

て、ホテル街を撮影したのは、崖線ふもとの低地を示すためです。やましい理由ではありません。
ほら、崖線が見えるでしょう。

最も崖線を通っているのがわかるのが、日暮里からですね。

さあ、山手線は田端駅で、ここから歩きます。
田端から東にカーブし、武蔵野台地の中に突っ込んでいきます。山手線も東から池袋を経て西にグルグル回り始めますね。崖線のふもとを北上したと思いきや、台地の中に突撃する山手線が、「山岳鉄道」のいわれでしょうか。たしかに崖のふもとは電車で「山の中を通っている」と思えなくはない(けど、ビルばかりがそれを感じさせないなあ)。
僕はさらに北に延びる崖線に沿って行こうと思います!
というか、最も東口と西口の高低差に驚いた経験があるのが、田端駅というのもありまして。

東京に坂が多いのも、武蔵野台地とそれを削る多くの河川の谷間があるからですね。
東京は、多くの川や橋に谷(渋谷や市ヶ谷や千駄ヶ谷など)とともに坂も多いですね。
こういう谷間の崖も、ハケやら真間やらいうのでしょうか。

崖線の上から。

スカイツリーが見えますね。
新幹線の高架も高低差の迫力が出てきます。
駅前の田端大橋(ふれあい橋)から崖線の上を。
これでも橋の上ですから、さらにまだ下がありますね。
新海誠監督の「天気の子」の聖地だとか。

田端は東京都北区です。このまま北区を歩ききりましょう。
北区と言えば、この漫画「東京都北区赤羽」も有名ですね。赤羽じゃなく滝野川会館に貼っていた北区推進ポスターです。

現代は住宅地が立ち並び景色も見えにくく、崖線の上の道路を歩いても、もうすぐ「崖の上」という感じがなくなります。
平塚城のあった北区平塚神社は、豊島郡の武士「豊島氏」の拠点だったようです。それよりも、その下に坂があり、崖線を下る道が見れました。

しばらく歩くと王子駅近くへ。飛鳥山も武蔵野台地の端にそびえる場所。
王子と言うと王子製紙など近代産業を育てた渋沢栄一の住居跡ですね。

言い忘れましたが、田端にも多くの文人たちが住んでいたよう。
文士村というと、落合や目白などもありますが、神田川沿いの崖の上あたりですね。目白と言えば、田名角栄が住んでいたし、また神田川沿いの早稲田には大隈重信、音羽に鳩山会館もあり。日当たりもながめも良く川よりも上、こういう崖の上、高台に住居が立ち並ぶものでしょうか。
東京の地形はとても興味深いものです。

飛鳥山から新幹線。なんか似ていると思ったら、赤羽八幡神社を思い出します。あそこも崖線の上ですね。

なんだか崖線と武蔵野台地、その中にある川や谷をめぐることで、東京の土地と人の多くの情報が見えてきそう。
飛鳥山をいろいろ撮影。

崖線の下にはよく湧水が出てきます。
飛鳥山の紫陽花もシーズンオフかなぁ。
飛鳥山のふもとから、崖線上へ再び坂道を上ります。

さて、今日の最後は、板橋にしたいのです。東京の武蔵野台地の東端、崖線の最北部あたりです。ここから荒川を越えると埼玉県。
ここには「これぞ崖線!」というスポットがあるのです。

田端から王子あたりまで歩いたところで、僕は「ワープ」を考えます。
ずっと崖線をなぞって赤羽の岩淵水門(荒川から隅田川が分流する場所)あたりまで行って、終着地点の板橋まで行くのもいいのですが、
まず①暑い…。トイレはたびたび寄ったため大丈夫なのですが、暑さもあり何だかちょっとだけ頭痛もします。まだ10キロちょっとしか歩いてないのに。
そして②たぶん、目的地に着くころには6時まわる。
夏いせいか、陽が高いため19時あたりまで明るいのですが、もし目的地がなかなか見つからない場合、暗がりの中探すことに。以上のため、写真の十条駅より先の「都営三田線・板橋本町」に乗ることを決めます。
汗臭過ぎたらどうしよう。けっこうビッチャビチャだ。

都営三田線の終着駅、西高島平駅へ。意外と目的地の例のスポットは、よく訪れる板橋郷土資料館の近くです。駅から15~20分。

武蔵野台地方面。
西の低地方面。まっつぐ行くと赤羽や荒川区や足立区、北千住あたりだね。
写真からむかって左は埼玉の川口市や和光市。

さあ、目的地に登りましょう! はじめて行くので遭難しないように!!
今日の最終地点、夕日の日差しが迎えてくれてそうです!

階段を登り、高台の上。やはり想定した場所にはありませんでしたが、いろいろそれっぽいところを探した結果、割と早く見つかりました。
板橋区、赤塚4丁目。
23区最大の高低差をもつ崖だと聞いた場所です。
どーん! う~ん、僕のふるさとの長崎だとこんな場所多そうだけど、今回の崖線をめぐる旅の最終地点にふさわしいでしょう!

エグい階段…
けっこう圧巻でした。
北をのぞむと、荒川の土手が見えてきます。

さて、すぐ近くの東上線と副都心線の成増駅にて帰宅します。
僕の住む地元の武蔵野台地(飯能の近くなので狭山丘陵や加治丘陵だけど)、それがずっと伸びた先にある山手線沿いの崖線。
いつもは川をテーマに調べてましたが、崖線を知ることで、ますます東京や埼玉の土地のようすがわかってきました。
今度は武蔵野台地の南にあたり、多摩川にて神奈川と分かれる「国分寺崖線」を巡ってみたいなあ。

その前に、チーバ君の旅日記を締めくくらないとですね!
次回、佐原と銚子を描きます!!


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