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千葉to神奈川、工業地帯を見てみよう③

我ながら、この記事を書いたときのトップ画像を作るときに、登場するキャラたちをまとめた画像にしようと思ってやってみたら、
何というカオスな画像になったことでしょうか。

マグロ天カレー以外、すべてこの記事に出てくる人たちです。
マグロ天カレー、食べてくればよかった…

川崎 ~教科書にのっていない偉人たち

前回まで、千葉県にある郷土資料館を通じて歴史と工場の成立を見ていきました。そして、千葉から川崎の工場夜景にも目を向けてみました。
今回の最終回では、本格的に京浜工業地帯の歴史を描写してお終いにしていきます。
山手線駅は港区の「品川駅」から横浜方面へ、南に行くと大田区の蒲田です。そっからすぐに多摩川超えると、神奈川県に入ります。
最初の神奈川県は川崎市。
多摩川と鶴見川が作った岬(三角州)として、古来より丸子渡しや二子渡し(世田谷~小田原の交通が発達した中世後期)、江戸時代は津久井街道との登戸渡しなど交通の要所として栄え、東海道は六郷渡しを経て川崎宿がにぎわった。

今回は横須賀までつながる京急線にて川崎に入ります。六郷土手より、京急川崎駅に入る。
上野東京ライン・東海道本線・京浜東北線だと川崎駅へ向かいますが、
湘南新宿ライン・横須賀線・相鉄線だと北の丸子を通るため川崎駅は行けません。途中の新川崎駅は、川崎駅からかなり北で歩いても相当な時間がかかるので注意しましょう。
右手の大田区との境目が多摩川。
左手の横浜との境目が鶴見川。
その間に埋め立て地と運河で櫛状のような形となった三角州(デルタ△)の川崎。
ちなみに、うっかり京急の羽田空港線に乗ってしまい、いっそ羽田空港第三ターミナルから川崎の工場群が見れないものか探ってみましたが、建物自体が背を向ける位置にあり。
多摩ふるさと資料館にあった昔の多摩川周辺図。
左手が羽田神社あたりから、川崎大師のある川崎三角州地帯。
右手がそれよりやや北にある東海道川崎宿。

さて、この川崎が工業都市として発達した立役者がいる。
彼は、日本の歴史においては、日本初の臨海工業地帯を作った人物であり、セメント開発の元祖でもある「セメント王」。細かく言えば、京浜工業地帯の基礎をつくっただけでなく、さらには渋沢栄一と大倉喜八郎とともにサッポロビールを設立、日産創始者の鮎川義介あいかわよしすけ(長州藩)が北九州につくった全身・「戸畑鋳物」とともに自動車開発にも手がけ(日産自動車の基礎も手がける)、さらには横浜の立小便が多い苦情から63か所の公衆便所をつくりそこから肥料売買でも利益を得た「公衆便所の開祖」とも言われた偉人。

浅野総一郎

深川にて。清澄白河駅から、清澄庭園のすぐ近くに浅野総一郎の銅像。
なぜ川崎じゃなくて深川かというと、日本初の深川セメント工場は官営(政府が設立)で、それを浅野総一郎が払い下げを受けて引き継いだから。

セメントで埋め立てられし工場群!
もともと越中国氷見郡(富山県氷見市)の医師の家に生まれた浅野総一郎は、商人を目指すが、事業に失敗。23歳で東京に行き御茶ノ水で水売り、本郷赤門前でおでん屋をはじめ貯金をする、赤貧の青年であった。
繁盛すると横浜へ移り贈答用の竹の皮を売り、父の旧友の縁で薪炭商を開く。やがて横浜瓦斯ガス会社とつながりができると産業廃棄物であるコールタールやコークスを安く買い取り、セメント製造の燃料として官営の深川セメント製造所に納め巨万の利益を得た。
やがてセメントが建築資材の基となることに目を付け、官営深川セメント製造所の払い下げに成功。これがのちの浅野セメント(現・日本最大のセメント会社である太平洋セメント)の基礎となる。このときに渋沢栄一と出会い、交友関係が続く。

1896年の欧米視察により「港湾開発」の必要性を目の当たりにし、「日本初の臨海工業地帯」を計画。これに安田善次郎(安田財閥)が出資し、鶴見~川崎の埋め立てで京浜運河を15年かけて完成。ここで浅野造船所など多数の会社を設立し、浅野財閥を1代で築いていった。

浅野総一郎がつくった浅野中学高等学校は、現在では聖光学院や栄光学園とならぶ神奈川県屈指の名門中学校。
ここにも深川と同じ浅野総一郎の銅像があるが、工事現場視察の時の姿であり、苦労人らしいヨレヨレでツギハギだらけの服でステッキを持ちお供は一人で歩き回っていたよう。
銅像設立には「ここなら死んでも俺の庭を見下ろせる」と喜んでいたようで、京浜工業地帯を見下ろせる位置にある浅野中学高等学校(京浜急行の生麦~新子安間)から見守っています。

浅野財閥は鶴見線だけでなく南武線の株主にもなり、南武線で青梅から石灰などの資材を輸送、鶴見線で埋め立て整備を行っていく。
鶴見線には、浅野という駅だけでなく、安田善次郎の功績も称えるため「安善あんぜん」という駅もあり、一時期「安全」にちなみ若者に切符が大量に売れたとかで、他「扇町」も浅野家の家紋の扇から来ているなど、浅野家にちなむ駅名が多い。
以下、筆者が鶴見線を利用したときに撮影したものである。
「浅野埋立」と言われる、日本最初の臨海工業地帯を見ていこう。
なお、夜景を②で撮影しているので浅野総一郎が撒いて実った工場たちの美しさをぜひ見ていただきたい。実際に見る場合は、「東扇島西公園」と「東公園」、「川崎マリエン」「扇橋」「千鳥橋」からがオススメのよう。
個人的には、夜景ではないが浮島町の「かわさきエコ暮らし未来館」から工場の展望を見てみたい。

さて、ここから別の人物にも触れていく。
その前に、鶴見線の最高オススメスポット「海芝浦」駅だ。ここは海に浮かぶ駅であり、鉄道マニアがオススメしてきた最果て駅の1つといえる。
東京湾に突き出て一望するかのような感じが得られるだろう。

しかし、この駅は下車できない。なぜかというと、東芝の敷地内であるため、社員や関係者しか入れないようだ。なお、直結する小さな「海芝公園」は入園無料、よく初日の出を見に来る人もいるらしい。
話は別の人物、東芝の話に向かっていく。
おまけであるが、ささやかな工場夜景(電車の車窓から撮影のためブレブレですが)、扇町駅へ向かうまで。海と工場群と地元の住宅地を縫っていく路線のため、華やかな観光地や繁華街はありませんが、そういう景色はまた良きものです。

扇町駅は猫の撮影スポットでも有名です。
ブレブレのブレネコでお目汚しを躍動感あふれる!

さきほど、海芝浦で東芝の工場を示したが(撮影は禁止されているよう)、川崎は東芝の町でもある。
川崎駅前に東芝の本社がある(2本社体制でもう1つは港区芝浦の浜松町ビル)。
この東芝をつくった人物が2人。

田中久重と藤岡市助

東芝のビル内にある「東芝未来科学館」にてお届けします。
なお、当館は当日でもよいが予約が必要です。

田中久重は「東洋のエジソン」と言われる天才発明家、別名を「からくり儀右衛門」と呼ばれていた。

これらは、すべて「独学」でつくったのだ。何という好奇心と実行力。

元は久留米の鼈甲細工職人の子であるが、複雑な金属細工も施す鼈甲細工を見ながら「細工」そのものに目を奪われ、9歳の頃「開かずの硯箱」を発明し友人らをからかった。
やがてお祭りなどで人々を驚かせた「からくり人形」と「機巧図彙からくりずい」にハマってしまい、寝る間を惜しんで創作に打ち込んでいく。
童子盃台、文字書き人形、弓曳童子など。さらには、「消えることがない灯り」無尽灯や、時計の概念をひっくり返した須弥山儀や万年時計など。
やがて佐賀藩に請われ、技師として蒸気船や蒸気機関車の模型をつくり、わが国初の国産蒸気機関車模型を藩主・鍋島直正の前で走らせたり。
久留米藩に戻っても多くの発明を続け、自転車や製氷機など生活にかかわるもの、戊辰戦争で活躍したアームストロング砲をも完成させた。
明治維新後、政府に請われ、東京に移住。早速、輸入品より優れた電信機を開発、銀座に店をかまえ、電気計器に木綿糸取機、国産電話の試作に報時機など。1881年に82歳で亡くなった後は子の大吉が芝浦に田中製作所として移り、のちの芝浦製作所となる。

藤岡市助は「日本の電気の父」「日本のエジソン」と言われ、日本に電球と電気を広めた人物である。
岩国藩(山口県)に生まれ10代で明治維新をむかえ、英語を得意としながら新政府の工部大学電信科に入学、エアトン教授に学び銀座で初のアーク灯(電灯)の実験に参加した。

銀座のアーク灯実験

20代となり日本初の電信の教科書を執筆、工部大学は首席で卒業。
日本初のアーク灯実験から4年後に銀座で2000個のアーク灯点灯実験を行う。27歳で工部大学教授となり日本の電気工学の責任者としての活躍がはじまる。
このころ、日本では田中久重と、アメリカのフィラデルフィアの万国電気博覧会を視察したときはニューヨークでトーマスエジソンと会っている。
のち、東京帝国大学工科助教授に就任するも退職し、「東京電燈」を設立し実業家に転身。
背景には大倉喜八郎(大倉財閥)や渋沢栄一(渋沢財閥)など協力者もいた。
内国勧業博覧会で日本初の電車を走らせたり、浅草凌雲閣での電気エレベーターの開発に成功。故郷の岩国に中国地方初の路面電車も走らせ、さらに念願の安価で丈夫な国産電球「マツダランプ」を発明し電球の普及に努めた。

藤岡市助の死後、20年後に、東京電気(東京電燈)と芝浦製作所は合併。
東京芝浦電気、これが世界に冠する電気製品メーカーである「東芝」となる。

東芝の日本初…白熱電球、水車発電機、電気扇風機、ラジオ受信機、テレビ、洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機、蛍光ランプ、電気釜、電子レンジ、ワープロなどなど。
東芝の世界初…二重電球コイル、ヘリカルスキャンVTR、郵便物自動処理装置、セットフリールームエアコン、マイコンデジタルコントローラー、家庭用インバーターエアコン、大容量ガス変圧装置、DVDプレイヤー、高音質音声合成方式などなど。(東芝HPにて)

個人的に、田中久重のファンだったために彼の業績を見ていくことが目的でしたが、ここで現在話題になっているリニア中央新幹線の技術「超電導」の実験が見れた。

僕の弟は超電導の技師(責任高め)なので、ちょっと興味を持ってみた。
ああ、けど僕はただのその辺の羽虫。ぶんぶと飛んでどっかに消えるだけの、ただの生産力弱めの世の中ウォッチャーです。

というわけで、川崎編は以上です。
3人の人物は、歴史に名を残すべき偉人でしたが、教科書に名前が載ってません。最近は、卑弥呼も坂本龍馬も教科書から消えていくとか、本当でしょうか。「教えることがたくさんあるのは教育上良くない!」と内容を減らしがちですが、偉人はたくさん教えることが、子どもたちの明るい希望につながると思います。
そして先人たちが育ててきた日本の工業は衰退の傾向があります。
日本の製鉄業や自動車工業などは中国にも抜かれ、かつての「ものづくり」の勢いはありません。
ついに、川崎は昨年9月、製鉄の最後の高炉が廃止されました。鉄鋼の需要の低迷と海外との競争力低下が原因のようですが、東京ドーム47個分のこの敷地には、商業施設や水素エネルギーの研究と開発(ドローンや空飛ぶ自動車など)、クリーンエネルギーなどエコ施設などができる予定です。

(個人的には、もう一度日本の工業が活気づいてほしく、中国産のソーラーパネルや電気自動車などに頼らずに、不安定な再生可能エネルギーはあくまで電源の1つで原発や火力などの電力の復活、国産で安価で丈夫な電気自動車やハイブリッド車の生産、日本人の技師や労働者の育成など上手くいかないものだろうか。なんだか今の風潮が良くないような気がする…)

まあ、そんな愚痴は置いておいて。

横浜へ

横浜を描くと長くなりますから、工場とのつながりについてコンパクトに短くまとめます。次の横須賀がメインです。
まずはやはり、1859年に日本史上初めての世界(特に欧米をふくむ)に開けた貿易港として開港されたことでしょう。

開港前の横浜。
横浜って言っても、今の横浜市とちがい、当時の横浜村は大きな三角形の湿地帯(新田部分)の下辺に「→」の形、横に突き出した岬のあたり。
横に突き出た浜で、「横浜」。
下の地図で示すと、赤いピンがある「横浜市役所」のあたり。
右上が、開国前の図の現在を示していますね。
上が縮小、下が拡大した地図。
向かって右が同じ方位、左が「上が北」。
みなとみらい、赤レンガ倉庫、山下公園は、近代以降できた埋め立て地です。

全国で生産された、生糸や茶など(特に武蔵野台地や多摩丘陵部は茶栽培や養蚕農家が多かったようだが)日本製品が、横浜に集められ取引されます。
やがて、寒村だった横浜は人口が東京市(23区)に次ぐ大都市へ。
京浜工業地帯が発達した原因も、工業原料や製品の輸出入など、横浜港の交通の利便性が大きいことがあったでしょう。横浜はやがて、日産自動車の本拠地にもなっていく。

神奈川県立博物館と、開港資料館より。開港後の横浜外国人居留地のようす。
横浜市の関内は外国人居留地の関所の内側という意味。

これぐらいにして、最後に埋め立て地方面の夜景をお届けいたします。

いずれ、関東夜景企画も実行しようと思ってます。

横須賀へ

さあ、この千葉と神奈川工業地帯の物語、最後を飾るのは「横須賀市」です。あくまで工場メインで、工場もろくに描写できないかもしれませんが、その周辺の町の様子を描写できたらと思います。
まず、京急の横須賀中央駅です。横須賀は海軍によって導入されたカレーライスの発祥地。カレー臭がしてきそうです♪

横浜観光案内所にて。横浜を舞台にしたアニメの展示ですが、僕が視聴したのはスローループです。フライフィッシュなど横須賀の女子高生が釣りを楽しむ漫画。

駅前の通りをちょっと海の方に向かって歩くとすぐに、海軍カレー本舗が。
本格的な横須賀カレーを楽しむことができます!
けど、時すでに遅し(閉店時間後)と予算の関係で、僕なんかその辺の羽虫はカレー煎餅がお似合いです。しかし、いつか食べに行くぞ!
スローループの劇中で、ここでバイトをしていた主人公たちの姿に出会えます。

目的地は戦艦三笠ですが、ここで横須賀ポートマーケットが。
横須賀の物産や地元野菜に魚介などが楽しめます。何と言っても、「三浦大根」、そして「マグロ」ですね。変わった形や色の大根、そしてマグロのいろんな部位を楽しめます。ここまでの旅費がキツイ、貧乏人はマグロメンチコロッケを買いました。普通の獣肉メンチより、あっさり目。素材の味を楽しもうとしましたが、ソースをかけて食べればよかったかな。

戦艦三笠を見ようとしましたが、時すでに遅し、です。
本当の目的は、もちろん工業地帯。
そう、この建物の裏に日産自動車の輸出が見られるのです。
輸出場であってるよね?10年前に三笠の見学に来た時、自動車が輸出されるのを見た記憶で来てみたのですが。(ちゃんとグーグルマップで確認済みですが)

ナンバープレートが無い、販売用の自動車が、貨物船に乗り込むのを待ちわびているようです。

最後に、日産工場をお見せしますが、その前に横須賀をもう少し楽しみましょう。
まずは、先ほどからの戦艦三笠。日露戦争で世界最強のバルチック艦隊を全滅させた大日本帝国連合艦隊の旗艦です。当時、ロシアの南下政策の脅威下にあった日本、いつ日本はロシアに侵略されるのか。その危機から日本を救った司令長官の東郷平八郎は日本の軍神として今でも外国に侵略されないように、ここから日本を見守っています。
彼がとった「丁(T)字戦法」は、日本を救ったどころか、世界でも研究されているようです。

移民を推進しているどころか、土地の買い占めまで許している現在の日本政府。
サイレントインベーションやサラミスライス戦術で、いつか外国に侵略されることがないように、祈るばかりです。

横須賀駅を目指します。ここにもう1人、お伝えしたい偉人がいるのです。

道すがら、日本のどの案内板地図に描かれてなかった米軍基地がありました。
撮影しようとしたら、怒られたため、写真はすべて消しました。
ふん、日本の土地なのに、アメリカ軍基地の門番みたいな人が鬼のように日本人を怒鳴りつけるなんて、偉そうにしくさってからに。

きれいな横須賀の町ですね。横須賀市っていっても、三浦半島南端の三浦市の手前で、東京湾と相模湾に面する大きな都市で、僕が見せているのはごくほんの一部ですが。さあ、見えてきましたよ!

ヴェルニー公園ですね。向かて左下に注目してください。

横須賀製鉄所の跡です!今は米軍基地施設内にあり自衛隊関連施設らしいですが、江戸時代の幕末の頃、江戸幕府によって作られた製鉄所です。
やがて明治政府に引き継がれ、そして横須賀造船所と改められ、近代日本の造船と海軍を支える場所となる。そして、これをつくったのが…

はい、国府国分寺特集「上野」編でも紹介しました、小栗上野介忠順ですね。日本の富国強兵を目指した彼は、新政府によって理不尽に斬首されます。
ここから、横須賀を見つめながら、強くて世界に誇れる日本を見守ってくれていることでしょう。

斬首されたときの、群馬県高崎の河原の石です。

横須賀駅へ。この日はもうすっかり暗いので、横須賀の日産工場に向かうのは諦めました。電車に入ると、僕がスローループ以上に好きな「ぼっちざろっく」のコラボポスターが貼っていました。どうやら八景島シーパラダイスとコラボ企画を行うようです。

追記。
先日、日産の工場がある追浜おっぱまへ行ってきました。

工場見学しようかと思ってましたが、去年の5月から一般人の見学は無期限の中止ということ。(学校の社会科見学は大丈夫で、なんならオンライン工場見学がHPでできます)
なので工場の外観だけですが、せっかくはるばる追浜駅まで、しかも昨日は台風並みの暴風、夕暮れで陸から海への風が強くなる中です。
海の先まで、チーバ君のチン、チソ、チッチャクナイ・デベソ追浜とくっつきたいのか!?である富津岬が見えないかなと。
そしたら、こんなものも見れました。

横浜市金沢区の金沢八景のすぐ先が、横須賀市の入り口の追浜市です。
「追浜=おっぱま=OPPAMA」。なかなかの難読地名ですね。
舌噛みませんが、息つぎ間違えマの発音小さかったり、寝ぼけてたら最後に「ママ…?」とか言っちゃいそう。
チーバ君の突起物が迫ってますね。
意外と、千葉と神奈川は近いのです。アクアライン線(鉄道)できないかなぁ。
追浜駅から歩いて30分以上かな。向かって左は横須賀スタジアムです。
その背後に日産工場がそびえ立ってきます!

そこからずっと歩くと、海が見えてきます。チーバ君の突起、富津岬が見えるでしょうか?

あの薄ぼんやりしているところが千葉でしょうか。

とりあえず、富津岬はおいといて。
日産工場以外にお見せしたかったのが、東京湾第三海堡遺構、つまり日本が外国の圧力で開国を迫られた後、東京湾から外国の圧力をチェックするためにつくられた砲台です。
以前、僕は埼玉の川越を散策したとき、川越藩の飛び地でこの横須賀があると聞き、それが幕府の命令で大津陣屋をつくり川越藩松平家がその警備にあたったことを知りました。横須賀にも埼玉があるんだ!
埼玉の岩槻藩とか、関東諸藩がこの任務にあたったとか。千葉の方にも同じく警備網が敷かれ、挟み撃ちで東京湾を監視していたようです。
この海堡は役目を終えた今でも遺跡として存在しているよう。

ロシアのウクライナ侵攻に続き、中国の台湾進攻も噂されるなか、日本のリベラルたちは自衛隊や米軍基地の反対運動をやったり、しかも自衛隊基地近くの中国の土地買収を知らないか知ってか何も聞かない・言わない。
とまあ、先人たちの知恵と努力と考えを学んでいく必要はどうしてもありますね。

横須賀は、農業と漁業で発達していましたが、近代以降は外国からの侵略に備える基地。そこから、造船という軍需産業で発達し、戦後も造船は中国と韓国に抜かれますが、同じ輸送用機械というつながりで日産の工場で発達しているところもあったのですね。
日産の創始者で、戸畑鋳物から日本産業(日産)に成長させた鮎川義介あいかわよしすけの功績も大きかったでしょう。
今回は、町の変遷よりも、浅野・田中・藤岡・鮎川など戦前の偉大な実業家たちにもスポットを当てていきました。「アニメの聖地なんて要らん!」という人もいるでしょうが、僕は町歩きとその町の歴史と、伝承や漫画やアニメなど町につながる物語にも注目していくのもテーマにしていますので、話がとっちらかって申し訳ないです。
これにて、工業地帯特集は、いったん終了とさせていただきます。
また、鹿島臨海工業地域など見学に行った際は続編を出すかもしれませんし、何より横須賀はもっと散策したい場所です。
我が地元の川越とのつながり、幕末の史跡巡り、横須賀の農業や町のようす。大好きな郷土資料館や博物館すら横須賀は1つも行ってませんし。

とりあえず、モノレール記事に国府国分寺を描きつつ調べつつ、並行して調査を続けていこうと思います。

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