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受け手と表現者(R.I.P.ソルリ)

表現者は、体で心で作品で、時にその個人を晒して伝え届ける。
受け手は、目で耳で心で全身で、時にその個人を隠して感じたままに呟く。

また一人表現者が命を絶った。

僕もたまに人前に出るお仕事をさせて頂いている立場として、ステージの上と下は別世界という事は重々承知している。
(無論そこに上下関係はない。)
ステージの下からだと、小さく一段上がっただけの舞台でも、いざ上がってみると随分高く感じ、自分へ向けられる視線は、急に好奇のものに変わる感覚に陥る。
「何してくれるの?」「ちょっとお手並み拝見」「頑張って!」「あの子誰?」
目線から心の声が聞こえて来る様な気さえする。
自分に自信のない時は、その見えない圧力に負けそうな時もあった。
それでも伝えたい事があるから、人前にその身を晒し続ける。

人と人は対等だと言うけれど、

表現者と受け手は対等なのだろうか。

僕の様な生のステージが多い人間ならまだ良いだろう。
歌い喋る僕も此処にいる。聞いてくれる皆さんも此処にいる。顔の見えた世界だ。

しかし、これがSNSやネットの発達した世界ではどうだろう。途端に優劣が生まれる。
一方はノーガードで自分という作品を晒して演じ、もう一方はフルオプション(フル装備)で名前さえも隠して言葉という名の銃を撃ち込みまくる。

いつも称賛してくれなんて言わない。
褒められりゃ誰だった悪い気はしないけれど、全ての行動が人の心に響き、認められるなんて表現者はこれっぽっちも思っていない。
(noteを書かれている皆さんならお分かりだろう。)
万人受けする作品なんてないのだ。

ただきっと、

表現者は、まず自分というファンに向けて発信しているだけ。

そうではないだろうか。

自分の中の自分だけは裏切らず、応援してくれる様な自分でいたい。
それを、言葉や歌や芝居や、一声、一音、一挙手一投足にかけて表現しているのではないか。

それなのに、何故だ。

その延長線にいる名前も知らない誰かは、無責任に殺しにくる。
殺すつもりもなく魂を削りにくる。

不公平だ。

そう言って良いと思う。

表現者は先出しジャンケンだと思う。

後から出す人間(受け手)は、どうとでも言えるし、どんな手も出せるのだ。
オカシイだろ。そんなやり取りが許されて良いのか。

こんな不平等の行き着く先は、閉鎖的な空間での表現だと僕は思っている。
自分を良く思う人たちだけが入室可能な部屋で演じられる表現に、気心の知れた称賛が投げかけられる世界。
上っ面の優しい世界だ。それはきっと生温い世界だ。

違うだろ。
そんな世界で芸術は育たない。

受け手も名を名乗れば良いだけなのだ。

お前も出てこい。好き勝手撃ちまくる言葉の銃に名札をぶら下げろ。自分の意見をいう以上、お前も表現者じゃクソヤロー。

元f(x)ソルリさんのご冥福をお祈り致します。

この誰もが発信できる時代の、世界中の表現者たち(強いては全ての人たち)に、産みの苦しみ以外の辛い日が来ませんように。


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