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羊飼い衛星

○作品データ○

タイトル:羊飼い衛星
文字数:71773
舞台:日本(北へ南へ)
ジャンル:学生時代から大人へ。心と衛星は巡る
一言紹介:三編からなる物語。連作集であり長編小説。『雨の鎮魂歌(レクイエム)』の桐島由夏が登場。彼女の成長記録でもあります。がんばれ久保田幸生

羊飼い衛星 目次

 夏の不成年 ――桐島由夏の物語

 冬のアキレス腱 ――久保田幸生の物語

 羊飼い衛星(シェパード・サテライト) ――由夏と幸生の物語


 夏の不成年


     1

 薄い雲が、朝の太陽を引き延ばして優しい黄色を作っている。
 波打ち際に立つと、果てしなく遠いところまで来たような気がした。ここは朝焼けの国で、あたしのことを知ってる人間はだれもいない。
 やっとだ。やっとひとりになれた――。
 それが望みでここにきたはずなのに、取り返しのつかないことしてるような気がする。胸が、締めつけられるように痛い。
 もっと楽しまなきゃ。好きなだけ独りごとを言おう。だれにも聞かれない。だれもあたしを見ていない。ウトウトしてるときに呼びかけられてびくっと身を起こさなくていい。マネージャーに次のスケジュールを告げられることもないし、風呂場でまで台本を広げる必要もない。苦手な共演者やスタッフと、いやいや喋る義務もないんだ。東京じゃない……ここではあたしはだれでもない。自由なんだ!
「あっ、冷たい」
 思わず言って、自分の声に笑った。
 朝の海に入るのは初めてだった。裸足に水が冷たい、そんなことが嬉しかった。間違いない、ここは故郷の海だった。あたしは戻ってきた――
 気を抜くと淋しさが押し寄せてくる。それを振り払うようによしっ、と声に出して、波を蹴立てて進んだ。こんなときに羽根を伸ばせなくていつ伸ばすの? 膝まで波につかったとき、なんとなく浜のほうを振り返った。背筋が凍りつく。
 だれかいる。
 浜は見渡す限りの灰色の砂。さっきまで人なんかいなかったのに。悲鳴を上げずにすんだのは、その顔に見覚えがあったからだった。近づいてくる。
――あの子だ。旅館の……
 思わず、水着姿の自分を隠すように両腕を身体に巻きつける。
 砂の上で少年が動きを止めた。
 強い眼だ――。彼女は、昔好きだったひとを思い出した。波の温度と、きつい潮の香り。そして、少年の浅黒い肌が胸を満たした。ここは故郷(ふるさと)なんだ、ほんとに帰ってきたんだ、とまた思う。
「あんた!」
 少年が声をよこした。
「なにすんだ」
 塊のような声だった。顔にぶつけられた感じがした。
「いけなかった?」
 彼女は答えた。でも、自分の声には棘がある……できるだけ柔らかくしよう。
「朝、泳いじゃいけないのはわかってる。でもあたし、泳ぎは得意なの。こう見えても」
 水泳部だったんだから。言いかけてやめた。胸はまだ早鐘を打っていて、それでも顔はにこやかだった。あたしは気持ちを隠すのが上手くなった。上手くなってしまった。
「ほんとか」
 少年は疑っている。
「泳ぎにきたのか。こんな時間に」
「いいじゃない。人がいないときに泳ぎたいの」
 少年はまだ睨んでいる。彼女は少しあごを上げて、呆れたような顔をして見せた。
 いま、あたしはだれを演じているんだろう。どんな自分を選んでる?
「わかったよ」
 少年は目を伏せた。
「気をつけて。水冷たいから」
 ふいに子供っぽさが漂ったその声が、耳に残る。浜から離れてゆく背中を、しばらく見送っていた。
 あの子はあたしが気になって、わざわざここまで来てくれた。心配してくれた。
 自惚れ? でも、旅館では口もきいてくれないあの子が、初めて自分から声をかけてくれたんだ。嬉しかった。
 少年の姿が消えた。彼女は水平線のほうに向き直り、全身を海に入れた。わっと身体を包む冷たさはすぐ身体に馴染んだ。柔らかく光る海面を、平泳ぎで漂う。
 いまでもプールではよく泳ぐ。だが海に入るのは高校以来だった。潮の香りも、波の感触も水平線も、ずいぶん久しぶりだ。少し怖い。それでも、浮いているうちに気持ちが伸びやかになってゆく。
 こんな贅沢はない。あたしは、ひとりきりだ。
 ときどき浜の方に目をやる。あの子の姿はどこにも見えない。だけど、どこかで見てる。そんな気もした。素朴で強い、あの顔。まるでこの町、方波見(かたなみ)そのものだ。
 あの子は、初めてあたしの顔を見たとき何の反応も見せなかった。
 あたしを見たことがないんだ、と思った。子どもはテレビが好きだから、名前が判らなくても顔ぐらいは知っていて、あっと口に手を当てたり首を傾げて見入ったりする。それが普通だった。でもあの子は違う。
 ふー、はっ、ふー、はっと息継ぎしながら、彼女の顔はほころんでいた。あの子は、あたしが雑誌やテレビで見る顔だから心配してるんじゃなくて、こんな朝早くに海に入る女、を心配してくれたんだ。フフッ、と笑うと水が口に入る。ぶくぶくぶく。しょっぱい。ますます笑いたくなる。
 平泳ぎから背泳ぎに切り替えた。少しずつ明るくなる空を見ながら、思った。
 話しかけてみよう。戻ったらきっと。
 まだ、ヴェール一枚被ったような空の青を見つめていると、空がどれほど遠くにあるかわからなくなった。吸い込まれそうな気がして怖くなる。目を、閉じる。
 優しい水の音だけが残った。

     2

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