仏陀

宗教戦争に終止符を!「仏教国が模索可能な世界秩序」

ビームラーオ・アンベードカル(インド憲法の父:ネルー内閣の法務大臣:不可触賤民/アンタッチャブル 身分出身) 曰く

「自分の社会哲学は 自由、平等、友愛であるが、これはフランス革命から学んだものではなく、わが師ブッダから学ん だものである」
(1954 年 10 月の全インド放送)

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私は、宗教は、若年にのみ必要で、老年になるにしたがって無信教であるべき(無信教となるべき)だと考えています。然しながら、子供の頃から無信教であることは危険です。拠り所の無いアイデンティティの無い人間にしか育ちませんので、不安のみが増し単に精神が混乱するだけとなるでしょう。

一般的に、凡人にとっては、宗教観を持っていない限り人生は成立しないのではないでしょうか。

因みに、私は、大丈夫(平気)です。心の拠り所は「自分の脳」ですので。老年になっても、無信教であってもなんとも思いません。そして、その方が私は健康だとすら思っています。大体、凡人から「南無阿弥陀仏とはなんぞや」なんてお説教くらったって、自分の信念(己の幸福は己の「眼と魂でのみ」見つける事が出来る)の方が絶対なので<私には>意味が無いです。ですので、私は無信教であるし、今後私が老年になるに従ってそれはハッキリするでしょう。膨大な教養は、どの宗教にも与しない強靭な精神を修養するため。然し、宗教観は完全に仏教で彩られている事は事実であると考えていますし、それはとても幸せな事だったと切に思っています。

そもそも、「宗教などと言うものは要らない」と、<見つける>(諦める)事が出来るのが、本物の宗教ではないでしょうか。そういう教えを組み込んでいる宗教こそが本物。然し、流行らない事は目に見えている。なので、成立しづらいし見つけづらい、と言うだけでありましょう。

人生に教えは必要でも神の存在は要らない (Tetsuya K.)

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さて


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