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「愛ある無関心」を少しづつ。

3月、少しまとまった休みをもらった。人生の中でこんなことはあまりなく、どう休んだらいいのかよくわからない。笑
まして、このコロナ禍。さて、どうしよう。

さぁ、この期間、有意義に使おう!
次のステップ向け、バリバリやるぞ!!!なんていう気にもならなかった。
少し旅にでも出ようかな、そんな心境だった。

僕が旅に出る理由。

大好きな本、『深夜特急』の中で、旅に出る目的を沢木耕太郎さんはこう言っている。

「ほんのちょっぴり本音を吐けば、人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ。」

このフレーズが、いつも自分が旅に出かける行き先を決める指標みたいなものになっていた。

大学の同級生でもある、くるりの『ハイウェイ』という曲の中で、「僕が旅に出る理由は大体百個ぐらいあって。。。」というフレーズがあるけど、どれだけ数えてみても、とてもそんな数はない。笑

映画『聖者たちの食卓』を観て行きたくなっていたアムリトサルにある黄金宮殿で無料のカレーをたくさん食べて、写真を撮って、動画を撮って、後で編集して、Vlogなんか作れたら面白くて。
行きたいのはそこぐらいかなぁという感じだった。
「相変わらずJumboは自由でバカバカしいことやってていいなぁ。」と言われたいだけだったのかも、と思う。
ただ、このコロナ禍でそれは実現できなかったけれど。

もっと白状すれば、
ちょっと浜松を離れたかった。言い方を変えると、どこかへ逃げ出したかった。
物理的に関われないような距離に行きたかった。
そして、なんとなく写真を撮りたかった。
Vlogを作るネタを探したかった。
途中経過をSNSにアップして、みんなに 「Jumbo、相変わらず、バカなことやってるねぇ。」といじられて、いいね!をたくさんもらいたかった。
『水曜どうでしょう』みたいに単純におもしろくてバカバカしいことしたかった。
なんか、ぐちゃっとしていたココロのバランスを、少しでも改善するなんかのきっかけになればと思っていた。

たびに出る理由なんて、そんなぐらいでしかなかった。

だから、行きたかったアムリトサルの黄金宮殿をあきらめて、どこに行こうか?と考えていたとき、『水曜どうでしょう』が好きな自分が出した旅は、「サイコロの旅」だった。
みんなから行き先の候補もらって、サイコロ振って行き先を決めて、そこに行って、またサイコロ振って…を繰り返すバカバカしい旅でもしようかと思っていた。
「サイコロでずっと運転しているだけなんて、つまんないんじゃん。それなら、お遍路したら?」とアドバイスしてくれる水曜どうでしょう好きな友人がいて、「お、それもあったね!そっちにしようかな。」そんなぐらいの理由で、四国霊場八十八ヶ所巡礼のお遍路をすることにした。笑
本音を言えば、どっちでも良かったんだけど、お遍路のほうが「八十八箇所まわる」というゴールがあるだけまだいいかなぁぐらいで決めた。
だけど、どっぷりお遍路さんになりたくないしなぁと、ギリギリまで悩んでいたぐらい。修行僧になりたいわけでもなかったから。

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ただなんとなく。でもいい。

人にWhy?を突きつけめてほしいなんて言いながら、自分が旅に出るWhy? (理由)なんていつもそんな感じだった。
だけど、そんなWhy?は旅をしながら、少しづつ変化する。

Why?は「ただなんとなく」からでもよく、あとから理由をつけてもいい。
ただ、「ずっとなんとなく」は進歩がない。と最近思う。
今回の最初のWhy?も「ただなんとなく」。
だから、仕事も同じでもいいと思う。「ただなんとなく、ツレに誘われたから。」でもいい。「給料ががいいから。」でもいい。
最初から立派な大義名分はいらないのかもしれない。だけど、それは少しづつでもいいから変化していかないと。
今回の最初のWhy?は、「ただなんとなく」だったけど、いろいろ考え、変化していった。「今の自分には『Unlearn』が必要で、そのために旅に出るのかもしれない。」と、前泊の京都で話をしていて、「あ、そういうことか。」と気づいた。
このまま、次のステップに行く前に一度、再起動が必要だと思った。自分の思考を完全に真っ白なリセットではなく、再起動が必要だと思った。

イメージは階段箪笥のようなもの。小さくとも一段上がる。
そうすると、引き出しも増える。
その引き出しの中身(経験や実績)はあけっぴろげで自慢するものではなく、一度中身を引き出しの中に収めて状況に応じ、必要に応じて、引き出して使う。
まず登ること。どんなことでもいいから、まだ自分が未経験のことを経験してみること。「挑戦」というと大げさなもののように感じてしまうので、あえて「経験」としてみた。
そのためにお遍路をするんだ、そう思うようになった。

次のステップでも遭遇するであろう似たような場面からくる「経験」は、これまでと全く同じ経験の続きじゃなく、それはまた別のものなんだ。と思って、もう一度作り上げないと…その準備のための旅なんだ、そう思うようになった。

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四国霊場八十八箇所という繋がり。

今回、2週間で八十八箇所を駆け抜けた中で、学んだことはたくさんあった。

お遍路には細かく、厳しいルールがあると思っていたけど、決してそれは厳しいものでもなく、強要されるものでもないと感じた。
コロナ禍で人が少ない(コロナ禍で例年の1割ぐらいだそう。)こともあったと思うけど、先輩風を吹かせるような人に出会うこともなかった。
巡礼するコースは、ガイドブックやネットに上がっていても、実際にはお寺には何にも書かれてない。ただ、一番札所の霊山寺では詳しく教えてくれる。
そこで、「正装はこれですよ。」と言われ、ついつい色々買い揃えると1万円は超えてしまった。笑

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巡っていて、正直、八十八箇所もあれば何箇所かのお寺は、「うちの寺、巡礼コース入りたくねぇよ。」という所があるんじゃいかな、と思った。
だって、365日、毎日、朝の7時から午後5時まで、来るかわからない巡礼者のために納経を書ける人、待機させておかなきゃいけない。
リアルな話、1回の納経がせいぜい30秒ぐらいで、300円、しかも非課税なんて、めっちゃぼったくりやん!と思っていた。
だって機械のように書き続けることができたら、時間36,000円の売上だよ?!笑。坊主丸儲け、とはよく言ったもの。。。。と思った。
だけど、さっき書いたとおり、人をずっと待たせておかないといけない。
みんなが必ず八十八箇所まわるのなら、それなりにお金も入ってくるだろうけど、高知の山の中のお寺なんて移動だけで1時間半かかるんだし、途中、行くことを諦める人もいるともう。
NFLみたいに収入が公平になるよう、一括管理して均等に分配しているわけでもないから、儲かってるお寺もあれば、貧乏なお寺もあるだろうなと。
だから、巡礼コースから抜けて自由にやりたい。。。。っていうお寺もあるのでは?と思った。
それでも、お寺がそれぞれ独自の特色を出していてとても良かった。
実際に色があるわけじゃないけど、カラフルな感じがあった。四国霊場八十八箇所という強固に見えるけど、実際はふわっとしたお寺同士のつながりがあって、それぞれ独自の色を出している感じが、巡っていて心地よかった。

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減らすことの大切さと難しさ。

今回は、ソロキャンプにハマりつつあったので、それも一緒にできたらええなぁと、車中泊の準備もして向かったのですが、感想としては、欲張ったらいかん。笑
あれもこれもは、うまくいかない、そう思った。
お遍路して、ソロキャンして、きれいな動画撮って、写真撮って、っていうのはやはり無理があった。
とりあえず、車だから荷物積んどこかー。と思って積んだけど、使わない、いや、使う余裕がないものがけっこうあった。笑。
ちょっと自分に問いかけて、「本当にやりたいことはどれ?」と問いかけることが必要かな。

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「今回の旅でどうしてもしたいことは何?」これは、TEDxのときにスピーカーに聞いていることと同じかも。
「あれこれ詰め込んでも、あなたの言いたいことが、わからなくなっちゃう、ぼやけちゃうので減らしましょう。どれが一番伝えたいことですか?」と。同じことかもしれない。笑
ちなみにですが、いきなり車中泊の旅は危険です。笑
寝れないです。ちゃんと寝るときに、水平保てるよう準備してください。
ナナメな状態で寝るの、ホント大変。
寒さ対策よりも大事かも。世の中、バランス、中庸が大事。笑

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地方のあるべき姿。

今回、お遍路しながら、八十八箇所のルートとは関係ないところに行く機会もあった。その中でも印象的だったのは、徳島県神山町と高知県梼原町。
ご存知、徳島県神山町は都会からの移住者が増えてる町。
高知県梼原(ゆすはら)町は、隈研吾さんが設計した、『雲の上の図書館』が有名。
どちらもそんなに長く滞在していたわけじゃないから、真意が汲み取れてるわけじゃないかもしれないけど、対象的で良かった。

神山町は、地デジ化に伴って町内に光ファイバー網が整備されたことによって、都会の人が面白がって移住して、その人たちを面白がって受け入れた地元の人たちがいて、地方にサテライトオフィスを持つ今の移住ブームの先駆けのような町。
問題がないわけじゃないと思うけど、うまく外と内がかみあってコミュニケーションできるシステムが携わる人達によってできている感じがした。

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一方、梼原町は建築物の大きさに圧倒された。街全体が隈研吾の作品のよう。観光客は多いかもしれないけど、移住者となると、ちょっと難しいのかな・・・?という印象。

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どちらが良い悪いではなく、対象的な感じがして興味深い。こういう経験が偶然でき、考えるきっかけをもらうことができるのも旅の醍醐味。

今回のお遍路を通じて困ったのは、ネット環境。今の移住や、ワーケーションブームも、めっちゃ早いネット環境が整っていて、もしそれが無料で接続できたなら。。。。それだけで、人が集まるような気がする。
神山町の事例は偶然の産物かもしれないけど、本当に良い例だと思った。

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きっと大丈夫。

これは個人的な感想でもあるけど、地元の人が良いと思うものと、都会の人が良いと思うものは違うことが多々ある。
その土地の魅力や価値は地元の人達だけでは気づかないこともあるように思う。だからこそ、お互いの話を聞く、認め合うことが大事かなと。
どちらかの一方通行はあかんなぁと。『郷に入れば郷に従え』とは、あながち間違いでもないな、と思うことがしばしば。

例えば、グーグルマップと地元ローカルの道案内看板。
最初はグーグルマップを信じて進んでいたけど、かなり驚きの道を案内された。
このまま進んだら、橋が狭すぎて脱輪する、崖が崩れてくる、対向車が来たら絶対すれ違えない、勾配きつすぎて車がひっくり返る。。。。と。
もうあかん、これでオサラバ。。。。。もう人生ここまでかな。。。と思ったことがリアルに数回あった。

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それでも、「きっと大丈夫。」ってなんで思えるのだろう?なんでみんな前に進むんだろう。
それは「きっと大丈夫。」みんながそう言って、その道を使ってる、その道を通ってるから。笑。
最後はやはり、作った人を、使ってる人を、関わってる人を信じれるか。っていう感情論。
そんな経験を何度もくり返し、途中からグーグルマップより、まずは地元の道案内を信じてみることもまた一つ、と思うようになった。
そうすると、ただナビに言われるがまま移動する旅でなくなり、また面白くなる。
それは、仕事でも同じかもしれない。いつも最先端の技術が正しく、その場に適合しているとは限らない。
常に複数の選択肢の中から選ぶ目を持つことが大事と気付かされた。

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案ずるな。急いでもそんなに変わらない。

納経所が朝の7時から夕方の5時までと決まっているので、その時間にどうしてもお参りしたい。
お祈りしてるときに、ワイワイガヤガヤ。そうすると、周りの声が気になってくる。どうしても焦ってきたりもした。
もともと焦っている旅でもないし、自分の性格からして焦ると絶対ミスるし、事故の元と思って、一呼吸するように心がけた。
急いで仮に時速を10キロ上げたとしても、到着時間がそんなに恐ろしく変わるとも思えない。せいぜい数分。
それなら落ち着いて余裕持って動けばよいだけのこと。
『納経はスタンプラリーのスタンプのようなものではなく、あなたがお祈りしたこと、たしかに受け取りました。という確認印みたいなものです。』というのをどこかのお寺で見て、なるほどな。と思った。
自分もスタンプラリーのようになりたくないとは思っていたので、その一言は腑に落ちるものがあったし、心を落ち着かせてくれた。

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自分は敬虔な仏教徒でもないし、意味のわからない般若心経を唱えるつもりもなかったので、お寺でお参りするときには、自分の言葉で今、素直に思う願いを最初に決めて、同じことをずっとブツブツつぶやいていた。笑
八十八箇所✕2(各札所で本堂と太子堂の2箇所でお参りするので。)、合計176回手を合わせ、つぶやいていたことになる。
流石にそれだけ同じことを繰り返しブツブツ言ってると、それが本当のことのように思えてくるから不思議。継続は力なり、とはよく言ったものだと思う。
お参りの数を重ねるごとに、手と手がピタッと重なる感覚が研ぎ澄まされていくし、不思議と心が落ち着く。

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今の時代、八十八箇所まわることは、さほど難しいことじゃないと思う。
実際、車なら、2週間もあれば十分に回れる。歩きお遍路であったとしても
現代にはグーグルマップもある。途中でコンビニだって寄れるし、道の駅もあるから、昔ほど不安や負担はないと思う。

そもそも、なんでこんな山奥にお寺を立てたんだろう。
階段一つとっても、誰かが石を運んでくれて階段になっているから、登れる。
自分は旅に出るといつも思うけど、大自然は綺麗だけどさほど感動しない。人間が作ったものに心動かされることが多い。
自然が作り上げた景色に人間は太刀打ちできないけど、人が作ったものは、多くの人の思いがそれを作ったのだから。

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八十八箇所を巡って最後の大窪寺で納経してもらっていたときにも、達成感のようなものが湧き上がってくる感じはそんなになかった。
むしろ清々しい感じがした。

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愛ある無関心。

四国からの帰り道の高速、大阪の茨木あたりで落合陽一さんの1テイク15分の祝辞を聞いた。

今回のお遍路での一番の収穫ってなんだろう?そう思っていたけど、うまく答えが出なかった。
どちらかと言えば改めて気付かされることが多く、「新たな発見」ということがなかったようにも思えた。

この祝辞の中で、「みんな違って、みんなどうでもいい。」そんな一言があった。
自分は、「みんな違って」は理解できるけど、この「みんなどうでもいい」は頭ではなんとなくわかっていても、ココロのどこかで理解できてないところがあると常々思っていた。
自分に対しても、人に対しても、「どうでもいい」と思うことが難しかった。
以前、ちょっとこれに似た話をしていたときに「愛ある無関心」という話になったことがあった。落合さんの言うところの「どうでもいい」は「愛ある無関心」に近い感じがした。
みんながどんなことを思って、考えて、選択して、行動したとしても、その人に対して「愛ある無関心」(言い方を変えると、その行動をその人が選んだことだから尊重する、と言える。)でいる。そう有りたい。そんな話をした。

今回、一人の時間が多かったから、正直、他人のことはリアルにどうでも良かった(考える余裕もそんなになかった。)し、自分に対しては物理的に何かしてもらえる環境になかった。

やはり自分は自分に関わる全ての皆さんに対して『愛ある無関心』を持ち続けていたい。

八十八箇所で手を合わせて、ブツブツつぶやいて願っていた内容はここではナイショだけれど、置き換えてみると「『愛ある無関心』少しづつもちたい。」ということだったのかもしれない。

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静岡県浜松市でTEDxHamamatsuのfounder/organizerとして活動中。 https://tedxhamamatsu.com/