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法廷傍聴控え 拳銃密造事件2

 親子3人と、ただ1人の従業員も加担して、鉄工所は拳銃密造工場に変容した。正一が密売先との交渉役と拳銃の組み立てなど、伸二はマシニングを使っての拳銃本体の製作、雄三は実弾づくりなどと役割を分担した。細かい部品まで手が回らない。
 組員は、「それでは約束の納期に間に合わない。モデルガンの部品があるだろう。それでやれ」と指示したので、モデルガンショップに行き、モデルガンを数丁買って、そこから部品を調達した。
 弾のほうは、銃砲店で買うと1発40数円で買える散弾を、摘発のきっかけになった“拳銃見せびらかし男”から1発200円で買い、火薬を取り出した。火薬の配合などは暴力団側が教えた。薬莢は「モデルガンの薬莢をつくるから」とだまして外注に出した。薬莢に火薬を詰める作業などは、組員も手伝ったそうだ。
 約束の3カ月の“納期”ぎりぎりの91年1月、ようやく10丁のリボルバーが完成した。榛名山のほうに行って試射をしたが、弾倉が回転しない。正一は密造したものの、まったく自信がなかった。モデルガンの部品を使ったので遠からずだめになるとも思った。
 しかし、拳銃を引き取りに来た幹部が、「暴力団は試し撃ちを2、3回やればしまっておくから、大丈夫」といったので安心して、拳銃10丁と弾百発を渡した。しばらくして、幹部から、「さばけた。売り先はあるから、じゃんじゃんつくってくれ」といわれ、200万円を受け取る。1丁20万円の商売だ。
 ところが、正一が心配していたとおり、10丁全部返品で戻ってきたのである。やはり、撃った後、弾倉が回転しない。知らずにそのまま引き金を引いたら、暴発しかねないといった欠陥のある代物だった。
 売り先も暴力団らしく、「こんな変なものを渡して、てめえらどんなものをつくっているんだ。このケジメはどうしてくれる」と組幹部は怒鳴り込まれたようだ。怒った組幹部は、「お前らの指や命をもらったって、穴埋めにはならない。拳銃をつくって穴埋めしろ」と指示し、おとしまえ用として別に数丁渡すから余分につくることも命じた。
 91年3月ごろまでに15丁完成したが、これも不良品でほとんど返ってきたそうだ。
 親子3人は、こんなことをいつまでやっていてもしようがないと思った。会社の借金は8000万円ぐらいあったが、工場を売って返済し、息子2人は勤めに出ようと相談した。暴力団のほうも拳銃づくりの腕がないのがわかったはずだ。
 そこで、「やめたい」と、5月ごろ、組事務所に行って話をしたが、幹部が小指のない手を見せて、「こういうふうにするか。そうしたら機械もいじれない。世間では行方不明の人がいるだろ、そういうのを山に埋めてる。おれも2人埋めてる。さんざん恥かかせておいて、金も儲けないうちにふざけんじゃねえ。やめるなら、それ相当の金を出せ」などと脅されて、密造を続けることになった。

 その後、密造工場では本格的な拳銃製作にとりかかった。拳銃本体などに使う鉄も特殊鋼を取り寄せた。6月に1丁、試作品ができた。「やっといいのができた。これでいいから、どんどんつくれ」と幹部は上機嫌である。以後、大量生産体制に入り、6月20日に10丁、7月20日に10丁、8月20日に20丁と完成して“納品”した。
 この幹部には合計40丁渡したが、そのうちに連絡がなくなったので取引を中止した。しかし、その後、親子は別の売り先を探し出したのである。このころから、暴力団に脅迫されて密造するという消極的な“経営姿勢”が変わり、積極的に製造するような方針になっていったようだ。
 例の“見せびらかし男”の紹介で、2人の男に10丁ずつ売り、91年12月ごろ、最後の客として別の暴力団組長を獲得した。
 かれも細かく注文をつけた。一番最初の幹部は、銃身を長くしろといったが、今度は逆で、「見本にしたモデルガンのように銃身を短くしろ」といったり、「見た目をよくしなければいけない。銃把のところがおもちゃみたいだから、黒檀でつくれ」などと指示した。
 サイレンサー(消音器)をつくれと見本を持ってきたこともあった。しかし、サイレンサーをつくったものの、銃声はまったく消えない失敗作だった。
「拳銃づくりなんていうものは、短い間にさっと100丁ぐらいつくって、すぐに切り上げるものだ」と組長は生産ペースをあげるようにやかましくいっていたが、その矢先、警察に摘発されたのである。結局、それまでに組幹部ら4人に合わせて67丁を約800万円で売った。
 しかし、その中には、借金250万円との棒引きの分もある上、材料代や外注費などに約200万円の経費がかかり、手間ひまかけた割には利益は少なかったようだ。
 92年7月27日、前橋地裁は、「計画的で、長期にわたる悪質な犯行だ」として、小島雄三に懲役4年、小島正一に懲役7年、小島伸二に懲役5年の判決を言い渡した。

 前橋の“拳銃密造工場”は、ほんとうに素人の親子3人とそれに暴力団も手伝って、見よう見まねで作った。しかし、その2カ月後に摘発された密造事件は、プロの仕業といわれた。
 92年3月24日、警視庁は栃木県内の自宅に散弾141発、拳銃の弾8発、拳銃の銃身部分1個を隠していた中村貞夫(44歳)を逮捕した。中村は拳銃密造者としてかねてからマークされていた。その後の調べから、福島県内の鉄工所から、中村が預けていた拳銃1丁と部品を押収した。
 この事件は、「これまで、約50丁の拳銃を製造し、暴力団に売っていた。中村のつくった拳銃は人気があったらしい」「国内でも数本の指に入るといわれる拳銃密造の技術者」などと報道された。
 この報道どおりだとすると、中村はかなり前から密造を手がけていたと思われる。どんな男で、どのような方法で密造していたのだろうか。

 92年6月1日、東京地裁で、中村の初公判が開かれた。罪名は、武器等製造法違反、火薬類取締等違反である。中村は気の弱そうな顔をしていて、背が高く痩せている。「間違いありません」と罪状認否をする口調も弱々しい。
 全面的に認めたため、その後の公判は、6月23日、中村の妻が情状証人として出廷し、7月16日、被告人質問が行われるとともに、検察官の論告・求刑、弁護人の最終弁論と続き、8月4日には判決という早さで進んだ。
 冒頭陳述、妻の証言、被告人質問など、法廷で明らかになった事実から、中村の拳銃密造の足取りを追ってみよう。
 法廷にあらわれた中村の妻は小柄でふくよかな体型だ。はたから想像すれば、いい夫婦のように見える。事実、中村には、中学3年、中学1年の男の子、小学5年の女の子の3人のこどもがいて、子煩悩な父親であり、仕事も真面目にしていたそうだ。
 しかし、趣味が問題なのである。中村は少年時代からモデルガンの収集だけではなく、その分解や組立などもやるマニアだった。いまでも、モデルガンに興味を持つ少年は多い。モデルガンショップに行くと、見知らぬ同士でも、モデルガンやエアーガンの品定めをしたり、改造方法を教え合っているシーンを見かける。大人でも、モデルガンマニアという人は多い。
 かつて、旧ソ連製拳銃トカレフの金属性モデルガンが、有名なモデルガンメーカーである中田商店から発売されたことがあった。いまは“幻のトカレフ”になっているそうだが、92年秋、あるモデルガンメーカーが、やはり、旧ソ連製トカレフのプラスチック製モデルガンを発売した。色は黒で、1丁1万2800円だ。売れ行きは上々で、半年間で数万丁売り上げたそうだ。
 メーカーの話によると、1万丁売れればヒット作だというから、このトカレフは“ビッグヒット”商品になったというわけだ。しかし、都内のあるモデルガンショップの話では、「発売当初は話題性から売れたが、それ以後はあまり売れない。数万丁なんて、中国製じゃないの」と冗談話が出た。
 ともあれ、市販の拳銃雑誌を読むだけでは物足りなく、新発売のモデルガンはほとんど買うといったモデルガンマニアは、せいぜい数千人といわれる。
 多分、これもマニアだったと思うが、自分の改造拳銃で怪我をした会社員がいた。数年前に入手したオートマチックのモデルガンを改造し、いつも持ち歩いていた。
 ある日の夜、酒を飲んだので、代行運転手に頼んで帰宅する途中、ベルトにはさんでいた拳銃に手を触れたところ暴発し、やはり自分の手づくりの弾が腰にあたった。そのまま病院に行ったら、まずいことになる。その会社員は大急ぎで会社に引き返して拳銃を隠し、それから病院に向かった。

 医師に怪我の原因を聞かれたとき、それなりにいいつくろったが、医師に銃による怪我だと見抜かれ、逮捕されたという。自業自得の事件だった。
 93年3月には、広島市内のモデルガンショップの経営者(38歳)が、改造拳銃事件で逮捕された。この経営者は、90年夏から92年末にかけて、店舗奥の作業場で旋盤を使ってモデルガンを70丁以上も改造し、全国のガンマニアに通信販売をしていた。定価1万5000円ほどのものを、1丁5万円から15万円で売りさばいていた。
 改造モデルガンのうち少なくとも44丁は殺傷能力があり、買い手には、広島市内の医師や京都市内の大学助教授なども含まれ、東京都内の鉄工所と雑貨販売会社の経営者の2人が逮捕された。
 中村もモデルガンについては、思い出したくない事件があった。高校生のときである。改造したモデルガンで仲間と一緒にタクシー強盗事件を起こしたのである。以来、拳銃の恐ろしさは身にしみてわかっていた。しかし、モデルガンの収集などはやめられなかったが、人を殺傷できるような改造はやっていなかったという。もちろん、本物の拳銃には触ったこともなかった。

(2021年11月26日まとめ・人名は仮名)



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