織田信長に学ぶビジネスモデル

●経営資源が少ない中小企業こそ織田信長に学ぶべき

織田信長というとどんなイメージをもたれますか。中世を切り開いた革命家というイメージもあれば、比叡山焼き討ちなどから残虐というイメージもあります。

本能寺の変がなければ、天下統一を成し遂げましたので、織田信長は強かったというイメージもあります。ところが信長の生涯にわたる戦の勝率は8割をきっています。ただし要所要所での勝ち方がうまく、金ヶ崎の退き口など負け戦の見極め判断と退却が見事でした。また戦の内容を反省し、それを常に次の戦いにいかしました。まぐれで勝てた桶狭間の合戦のような奇襲戦法を二度ととっていません。信長自身、自軍の中心となる尾張兵が弱いことを自覚していたからです。そのため競争優位にたてるようにいろいろな工夫をしています。織田信長のビジネスモデルを考えていきましょう。

※金ヶ崎の退き口-越前の朝倉義景攻めで敦賀の金ヶ崎城まで攻め込んだところで同盟関係にあった浅井長政の離反により、窮地に陥った織田信長は少人数で朽木を越えて京都まで逃げ帰ります。

1.お金がまわる仕組みを作り、市場ルールを変える

1-1.信長、勝幡城に生まれる

 織田信長は天文3年(1534年)に勝幡城(しょばたじょう)で生まれたとされています。名古屋城から西に15kmほどのところで、最寄駅は名鉄・勝幡駅になります。

 二重の堀で囲まれていた館城で、三宅川が外堀の役目をしていました。織田家は信長の祖父の時代から水運の要(かなめ)であった津島の土地をおさえ、その経済力と共に成長します。名鉄・勝幡駅の二駅先が津島駅で勝幡城は津島をおさえるために造られました。

1-2.永楽通宝を旗印にする

この当時、明から輸入した永楽通宝が標準貨幣で、市場では永楽通宝が使われました。信長には支配した市場から矢銭(軍資金)が入ります。市場でやり取りされる永楽通宝が増えれば増えるほど信長の経済力は高まります。楽市楽座が行われた当時の岐阜城や安土城の城下町は今でいえば六本木ヒルズやあべのハルカスの商業施設のようなものでした。

また、足利義昭を奉じて上洛し、将軍からほうびに知行(領地)はいらぬかと言われた時、信長は知行よりも堺・大津・草津に代官をおきました。収益の上がる市場に管理人を派遣し、市場をおさえたことになります。

戦国大名の多くは鎌倉時代からの「一所懸命」で土地を中心に考え、そこから収穫される米を中心に考えていました。ところが信長は土地から生み出される収益、つまり付加価値に重きをおきました。つまり土地が有効活用されればされるほど付加価値が上がるということです。信長は自らの旗印を「永楽通宝」としたように市場の力をいつも考えていました。

1-3.関所が流通をさまたげる

美濃を平定後、岐阜と改名した信長は現在の柳ヶ瀬商店街近くにある円徳寺前に楽市・楽座の高札を立てました。

室町時代は生産が飛躍的に伸びた時代でもありました。潅漑・排水の技術が改良され、二毛作が各地に広まりました。また商業の発達により、手工業の同業組合である「座」が組織化され、対外交渉力の強化等、経営基盤が強化されました。これにともない遠隔地との取引が活発となり、交通の要地では馬借と呼ばれる運送業者が登場しました。今でいう宅配事業者です。

ところが商工業が発達すると、それに目をつけた幕府・公家・寺社は収入を増やすために数多く関所を設置するようになりました。関所といっても箱根の関所のような身元調査ではなく高速道路の料金所のようなものです。大阪の淀川では一時期、関所数が380を超えたことがあります。また伊勢街道の桑名・日永(ひなが:四日市市)の間、わずか15キロの間に60余の関所がありました。それぞれの関所で多種多様な関銭が課されることになりますので、商品単価はあがります。輸送業者、商人に深刻な影響を与えていました。

1-4.信長 既得権益を打破する

室町末期には既得権の弊害が目立ち始めます。市(マーケット)はその地域を統括する寺院が運営しましたが、商人が出店する場合は営業権を取得し、納入金を払う必要がありました。また座は生産、販売の独占権を持ち、加入する場合は株(会員権)が必要でした。

この参入障壁を撤廃したのが信長です。楽市・楽座として誰でも商売ができるようにし、自由競争としました。ただ領土全体でやったわけではなく、都市育成政策の一部でした。最初は岐阜で行い、基本的には規制緩和で、今で言う特区のようなものでした。これで既得権のある商人ではなく才覚があるもの、工夫するものが伸びることとなり、近江商人等が登場していく土台になっていきます。

信長は関所廃止政策を推進、また領内の主要道路を三間幅にし、河川には橋をかけ、必要があれば峠を掘削してバイパスを整備しました。これにより輸送コストと輸送時間を下がります。流通ルート(チャネル)が整備され、都市へ商品が円滑に流れ、商品取引の拡大を促しました。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、岐阜のにぎわいを“バビロンの如し”と書簡にしたためています。彼の記述によれば、当時の岐阜の人口は、約1万人で活気あふれた街だったそうです。

信長は領内の安全の確保を行い、様々な特典を商人に与えることによって都市を発展させ、これを商業の発展につなげました。最終的には信長の財力がアップし、「天下布武」を実行していく上での原資となりました。

1-5.市場ルールを変える信長

この経済力を何に使ったかといえば兵農分離です。この時代の兵士は、普段は農耕を行い、戦があれば武装して城に駆けつけるというスタイルでした。必然的に農閑期にしか戦ができないことになります。

そこで、信長は、農地を開拓する長男をはずし、農家の三男などを集め、これを常備軍としていきました。これは戦国時代では画期的なことで、信長軍は365日戦える手段を手にすることができました。維持するには人件費などがかかりますので経済力が必要となります。

戦国大名といっても多くは地方豪族の盟主のような立場です。地方豪族は地方の農民を組織して戦いに参加します。農閑期が終われば農作業をしなければなりませんので双方とも戦をおさめて帰ります。これが戦国時代の戦のルールでした。これを根底からくつがえしていつでも戦えるようにしたのが信長です。つまり兼業禁止でフルタイム勤務です。信長が給与を出して雇用していますので、全国転勤あり社宅住まいが条件でした。

企業が市場のルールに従って、シェア争いをしていたところに、全く違う市場ルールを持ち出してシェアを奪っていくようなものです。

また信長は専門集団を作り上げていきました。当時、地方豪族は鎧武者、槍持ち、鉄砲持ち、足軽などで構成された一団で、これが戦国大名の元に集まっていました。信長はこの構成をくずし、鉄砲隊や槍隊などの専門集団を作り上げていきます。そして鉄砲隊なら鉄砲隊の戦い方を編み出していきます。

2.経済封鎖で競争優位をつくる

2-1.日蓮宗ネットワーク

 戦国時代に登場し、戦い方を大きく変えたのが鉄砲です。種子島にまず伝わりましたので鉄砲のことを種子島とも呼んでいます。種子島で鉄砲の国産化に成功し、島津氏を経由して幕府の執政細川晴元に献上されました。この時に仲介したのが堺にいた日蓮宗の僧侶でした。これがのちに堺・国友系の鉄砲として発達していきます。

 さて織田信長の宗派はなんでしょう?

 勘のいい人は分かったかもしれませんが、日蓮宗です。最後を迎えた本能寺も日蓮宗です。信長自身がどれほど宗教を信じていたか分かりませんが、基本的に宗教には寛容でキリスト教も含めて信教の自由を認めていました。一向宗や本願寺など宗教というよりも武力闘争するような連中は徹底弾圧をしていました。日蓮宗ネットワークがあり、信長はこのネットワークを通じて鉄砲の有用性を知っていたようです。

2-2.堺で経済封鎖

 武田勝頼は長篠の戦で信長・家康連合軍に敗れます。馬防冊や土塁の工夫もありましたが、影響が大きかったのが鉄砲です。なぜ武田勝頼は鉄砲を有効活用できなかったのでしょうか。武田勝頼は武田信玄時代よりも領地を拡げた武将ですので非凡ではありません。もちろん鉄砲の有効性は知っていて鉄砲を揃えていますが、活用できませんでした。

 鉄砲の弾を飛ばすには火薬が必要ですが、火薬の原料は、硫黄・木炭・硝石となります。このうち硝石だけは国内では取れず、海外からの輸入に頼るしかありませんでした。貿易船が来航する港で一番東側にあるのが堺。

 堺をおさえたのが信長でした。つまり輸入された硝石をコントロールすることができます。甲斐の国など敵対勢力に流通しないよう経済封鎖をしたわけです。今でいえば、相手国に石油が流れないように封鎖するようなものです。航空機があっても飛ばすことができなくなります。

■終りに “自社は弱みだらけ”は単なる言いわけ

信長が桶狭間の戦に勝った時はまだまだ零細企業でした。自軍の兵が弱い、つまり自社の経営資源が他社に比べ劣るのならば、それをカバーするのに何か手はないか?今戦っている市場のルールをもしかしたら変える手はないのか?皆が価値をおいているものと実は違うものに価値があるのではないか?考え続けたのが信長です。

尾張兵が弱いという「弱み」をしっかり把握し、織田家という零細企業を斎藤家や今川家などの巨大な「競合」から守りぬき、少ない経営資源を駆使しながら大企業へ伸ばしたのが信長でした。自社は弱みだらけ、周りは強いライバル会社だらけ、だから業績が悪いんだは単なる言いわけ。信長のように考え続けましょう。

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水谷 哲也(みずたに てつや) 合同会社エムアイティエス代表

三重県津市生まれ。2002年に水谷IT支援事務所を設立し所長に就任。三重県産業支援センター、大阪府よろず支援拠点、商工会議所などで経営、IT、創業を中心に累計5,000件以上の経営相談を行う。2017年に合同会社エムアイティエスを設立。中小企業診断士、ITコーディネータ、アプリケーション・エンジニア、販売士1級&登録講師。

著書に「バグは本当に虫だった-なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話」(ペンコム)、「インターネット情報収集術」(秀和システム)、電子書籍「誰も教えてくれなかった中小企業のメール活用術」(インプレス)。

現在、All About「企業のIT活用」担当ガイドとして、IT活用にまつわる様々なガイド記事を発信中。

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