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バタフライ効果をもやっと考えて運動の制御になんとなく行き着いた

バタフライ効果、という言葉にはなんだか魅惑的なSFチックな響きを感じる。わたしの記憶にあった北京とニューヨークは、この効果について提唱したローレンツのもともとの表現ではブラジルとテキサスだったらしい。他にも中国とカリブ、にも変換されたりしているらしいけれど場所はどこでも良くて、兎に角、一羽の蝶の羽ばたきが遠く離れた場所の嵐を引き起こすか?という「はじめのわずかな変化」が「最終的な大きな影響」になり得るのだ(あるいは、得るのか?)というテーマを、こんなに詩的に語る科学者の存在は、犯罪に近いほどに官能的だとわたしは思う。

いやそもそもどうしてバタフライ効果なんて懐かしい言葉を思い出したのかというと、神経細胞と筋細胞の脱分極について考えていて、ひとつの細胞が電位を伝えることで運動を引き起こすなんて、なんと水紋の広がるが如き影響力よと思ったからなのだけれど(大袈裟)、ひとつの細胞が電位を〜という件で心筋細胞を思い出して、あれをバタフライ効果的なイメージで捉えたらその先どんな想像が膨らむか試したくなったから、なのであった。

その過程で調べものをしていていくつかたどり着いた事実として、どうやら洞結節で何故如何にリズミカルなサイナスリズムが刻まれるかは、はっきりとは解明されていないらしい。洞結節にシナプスしている中枢からの交感神経・副交感神経の支配を物理的に断ち切っても、洞結節は独自のリズムを持っている。さらに、心房細動のように洞結節によるペースメイキングを無視した拍動や、各種不整脈のことなど考えると、細胞自体の構造がとにかく電位を動かすことが容易な仕組みになっているようだ。生き物が生きるために持っている中核とも言える仕組みが、ある意味不安定な生理機能の上に成り立っているのかと思うとドキドキしてきた。

簡単に電位を発生する、ということは、簡単にイオンの交換ができる、ということで、でも心筋の細胞が全体的にそうであるということは洞結節だけに頼らない機能のバッファとして必要不可欠なんだろうなと想像する。しかし、ひとつの場所に役割を任せながらも、他の場所でもそこそこ働けるように組み立てる、というのは、人間の作る組織を考えてもとても難しいことなのではないだろうか。一極集中のこの国に住んでいると、洞結節の機能不全を東京の直下型地震に結びつけたくなってくる。

脱線しすぎた。

選択肢をたくさん持つというのは、一見非効率なようでいて、実はそうでもない。複数の選択肢の準備のためにエネルギーを要したとしても、第一選択肢を常に選び続けることができるということを保証することのほうが、実は相当な犠牲を必要とする。それに、怖い。さらに言えば、波及効果や、予測しなかった『棚ぼた』を期待するにはそもそもひとつの実行に対して複数の選択肢を用意しなければならないのは必然で、その選択肢は右から左、上から下、北から南、赤から紫まで、思いつく限りの極から極までを網羅しているべきなのだと思う。

これって、ベルンシュタイン的な運動制御の思考と、似ていると思いませんか。