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与える者と、与えられる者のハナシ

自分の欲しいものを自分の欲しい形に知らぬ間にmodifyしてもらってずっと提供される、ということは、結局選択肢を与えられていないのと同じで欲しいものを手に入れる過程を学ばない、のではないか。

欲しいものを「どのように手に入れるか」「何を諦めて何を得るのか」を、日々学ぶことがプロセスの学習なのではないか。

ありのままでいい、ということと、ありのままのあなたで学べる方法を提供される、ということは、似ているようだが全く違う。

ありのままでいる、ということは、ありのままの自分でいるために必要な方法を、個人が、社会の中で学ぶことだ。

勉強したいの?→塾選んできたよ、ここがいいんじゃない?
とか
運動したいの?→見学してきたよ、あそこのチームがいいんじゃない?
とか
なにか違う。と思う。

学生を見ていて、全てを肯定されてきた強さは感じるのだけれども、自分に合わない方法でものを提供された時の「受け容れられなさ」具合を強く感じる。

安住の地で生きていける時間は限られている。

そこから羽ばたくとき、手を離す瞬間に、繋がっていない場所でも一人で試行錯誤できる力をどう養うかが、大事なのだろうと思う。

親との意見のぶつかり合いは大事にされるべきだ。違う人間なのだということを徹底的に認識して、それでも根底に流れるものが親子の絆だと思う。圧倒的に一緒に過ごした時間だけが、その絆を支える、とも思う。

だから親として時には押し付けのように思う自分の意見も、子どもに主張して生きていくと思う。
子どもに、その主張に潰されないで生きられる力を、得て欲しいと思う。