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全ては細胞の脱分極から始まる、と考えると、また世界が変わる、かも

先日餅つきをしていて、出来上がった大福餅を並べながら、どうしてこれ綺麗に並べたくなるんだろう?と考えていました。
実際的な目的としては数を数えやすくするため、なんですが、そうなると数のための整列ということになるなと。けれどもわたしたちには感覚的に整列していると美しいとか気持ちがいいとかそういう動機も備わっている気がしますし、自然界にあるフィボナッチ的な整列に至ってはそれがロジックと対照的なアートであるようにさえ感じられる、その『整列』の不思議とでもいうべきことをモヤっと考えていたんです。

そしてそもそもわたしたちを形作っている細胞も、整列しているなあと思いました。まあ整列というには柔らかい組織なので集合とでも呼ぶべきなのでしょうが、兎も角、並ぶことで様々な生理的機能が果たされているなと。特に細胞の膜の分子構造に至っては、分子の配列ですから、脂質二重膜が整然とそこに『並んで』いるわけで、わたしたちは整列から出来上がっている、と想像して、整列を美しいと感じることへの違和感が消えました。

さて本題なんですが。
じゃあなぜ整列しているのか?と考えたときに、それはやっぱり規則正しく化学反応を起こすためだろうなと思いました。細胞は、細胞自体が生きていくためにも、常にチャネルと呼ばれる細胞膜に存在する『扉』でイオンのやり取りをしています。ナトリウムイオンとカリウムイオンです。プラスとマイナスをコントロールすることで、細胞の中の世界と外の世界の電位が一定の差を保つように調整しているのです。(外の世界と中の世界の『壁』や『扉』を機能させるために整列している、なんて、なんだか煉瓦でできた城壁のような構造物が想像されるけれど、そこはまた身体なのでとても柔軟で、城壁の扉をコントロールするシステムが整備されていて『生き物ってすごいな』のポイントでもありますよね。。)

さてこの電位が一定に保たれていることで生まれているのが静止膜電位ってやつで、これを維持することが生命機能を支える大事な全ての細胞の能力でもあるわけなのですが、その強弱を振り幅大きくコントロールしてダイナミックな活動をする細胞をわたしたちは身体の中に抱えています。

神経細胞と筋細胞です。

つまり、動く、という機能を担保するための仕組みは、膜電位の激しい変化によって起きるもので、それこそが運動なのだとしたら整列によって生み出される細胞の秩序は、わたしたち動物にとっては、『動く』ためにあると言っても過言ではない、のかもしれません。そして、『動く』ということは、『壊す』とは違う、という意味にも繋がってくる気がします。なぜならその前提には、生きるための整列、があるのだから。

神経細胞と筋細胞は、それぞれが受ける刺激に対して、前述のイオンチャネルを使って急激なイオン濃度の変化を起こすことで、細胞膜に『脱分極』という状況を作ります。すると細胞が『興奮』します。『活動電位が生まれる』とも言います。(この言葉も面白くて、『興奮』とか『活動』とか、あたかも細胞自身に意思があるかのような表現なんですよね。)この活動電位が、神経細胞では『伝導』して先へ先へ送られて神経線維としての役割を果たしますし、筋細胞では筋収縮を起こします(骨格筋に関しては神経筋接合部での終盤電位も含めると2回の電位の変化によって収縮につながります)。

しかしこれらの急激な膜電位の変化による『興奮』は一時的なものです。
脱分極が終わると、速やかにその細胞は再分極し、静止膜電位に落ち着きます。そのことを可能にしているのもまた、整然とした細胞の分子の整列によるものです。元の状態があって、初めて活動がおこり、活動の後には元の状態に戻るからこそ、次の活動があるわけです。

この、元の状態に戻る、ことが大事だ、というわかりやすい例には、サリンの話があります。過去に犯罪に使われたので記憶にある方も多いと思います。
神経筋接合部では電位の伝達の間接的手段として(神経で伝わってきた電位を筋の電位として働かせるためのシナプスには隙間があるので)アセチルコリンとアセチルコリン受容体が働いていますが、このアセチルコリンが一度働いたあとで速やかにアセチルコリンエステラーゼによって分解されることが細胞を元の状態に戻すための作用です。サリンはこの、元の状態に戻すための、アセチルコリンエステラーゼを働かなくさせる化学物質なのです。
サリンは、ご存知の通り、ごく少量で人の命を奪います。興奮を元に戻さない、ということが身体にとってどれだけのことか、考えさせられます。(サリンの致死量は0.5ミリグラム程度のようです。怖い。)

話が膨らみすぎましたが、神経と筋、このふたつを構成している細胞が、分子の整列に基づいた電位の変化で機能している、その機能は興奮しその後速やかに元に戻ることが大切、つまり身体は常に、変化と、その変化の後の『定常』への落ち着きで運動している、ということになるのではないでしょうか。
運動という言葉の対義語は安静かな、と思うのですが、その運動を司っている最小単位である細胞も、考えてみれば『活動』と『定常』の間を行き来することで機能している、というのは、なんというか隠れた真実というか、ハッとする事実なのではないかなあと思ったりしたのです。誰も隠してるわけではないんですが。

細胞の集合体としての運動、にはもっともっと楽しい考察がありそうです。たぶん、身体の中にも『バタフライ効果』的なものがあるんじゃないかな、なんて。というか心臓なんてまさに、バタフライ効果みたいな機能ですね。わあ。