見出し画像

わたしたちの生きているサインはいつも誰かにdetectされている

雪の残る山へ、出かけた。一晩泊まって明けた朝、道の脇にポツポツと雪の凹みがあることに気づいた。夜は雲もなく月がきれいで、前日は晴れて木の枝にはりついた雪や氷が溶けて水滴を垂らしていたから、そうかなどうかなと思いながら近づくとどうやらそれはやはり動物の足跡だった。

夏頃、森の中に落ちていたオニグルミの実が齧られていて、リスが食べたのかなと想像したのだけれど犯人はわからずじまいで、もしかしたらネズミかも、同じリスでもシマリスかも、といろいろ想像していたときに、齧りあとがきっと動物によって違うはずだと思い立った。

森の中にはいろいろな動物の痕跡がある。折れた枝、皮を剥がれた木の幹、落ちているフン、吐いたあとなのか毛の塊、それから、足跡や食べ残し。そういうものから動物を同定するのはどうしたらいいのか?ネイチャーガイドみたいに?そう思って本を探して辿り着いたのが『哺乳類のフィールドサイン観察ガイド』だった。

フィールドサインという言葉を知らなかったのだけれど、本の中には日本の野山で見られる動物たちの痕跡をどう見つけるか、見つけたらどう追うかのコツが書かれていて、例えば足跡を見つけたらその足跡が進む方向に向かってしゃがむことで彼らのトレイルがよくわかることや、似ている足跡でも歩隔の違いで種類がわかることとか、そして雪の降った後には足跡が見つけやすいことなど、気軽でわかりやすいインストラクションがあふれていた。

フィールドサイン。なんだか素敵な言葉だ。隠れた動物を見つける暗号のような、オリエンテーリングのクイズを解くような、最終的にその目で痕跡の落とし主を見られることを期待しているようないないような、興奮を伴う言葉だ。

命あるものは生きているので、生きているからには身体の内外のやりとりが必要であって、普段気にはしていないがいつもなんらかの「あしあと」を残している。それが雪の道に残る足跡や地面に残るフンのようにしばらく形を残すものである場合もあるけれど、例えば枝に実るものが食べられて「なくなった」という形跡だったり、「見つからないように」掘られた巣穴だったりしたら、ずっとずっと見つけることが大変になる。

人間は、どうだろうか。

足跡は、コンクリートでわからなくなってしまったなあと思う。わかったとしても靴の種類くらいだろうか(そういえばマスター・キートンにはトレイサーという特殊技能を持った人間が出てきて、足音からどんな人間か割り出していたな・・・)。逆に、巣穴は快適さを求めて隠れるどころか大仰な街が生み出され続けている。天敵がいないというのはこういうことかと思う。食べるものは「作る」のが基本なのでこれもまたサインどころの話ではない。あ、家庭ゴミとかはわかりやすいサインかもしれない。どう生きているのかすぐにわかる。うむ、そりゃストーカーがゴミ袋を開けるわけだ。。うむうむ。。

人間のサイン・・・とモヤモヤ考えていたら、そうだ、と思い当たった。今や、心拍をウェアラブルで24時間計測している時代だ。心拍は生きるための身体活動のサインの最たるものだ。血圧や血糖値や呼吸数や体温なんかも含めたバイタルサインはもちろん、パーキンソン病治療薬の継続的投与まで、ウェアラブルで管理できる時代がやってきている。ああわたしたちはビッグデータの中に、こうやって生きたサインを残している。GPSで自分たちの足跡をトラッキングしながら、個体としての生き様を刻々とクラウドに記録している。

どう生きるか、は、サインを残すことに帰結するのだろうか。


そういえば昔、家族で行ったスキー場のリフトの下にはいつも野生の動物の足跡があって、母が「あれはなんの足跡だろう?」とよく呟いていた。ノウサギの足跡が、前後の脚が近く重なるように不思議な形を取ることも、母に教えてもらったと思う。

春になったら海へ足を伸ばして、砂浜に残る生きものたちのサインを見つけよう。そのために歩く自分のバイタルサインをApple Watchで計測しながら。