見出し画像

〖魚河岸鰻遊〗①築地の神様

『ソトコト』2005年7月号№73生原稿

 2005年5月某日、僕は築地魚河岸横にある波除稲荷神社のご本殿の前に立ち、ポケットにあった10円を賽銭箱に投げ入れる。「パンッ、パンッ!」。そして目を瞑ってこう想う。
「お久しぶりです、波除さん。あれから長い年月が経ちました。本当いろいろあったけど、気がつけば僕はまたここにいます。ところで、波除さん、魚河岸が引っ越すって話を聞いたんですけど、それってホンマなんですか?」

 すると背後から聞いたことのある声が飛んできた。
「お~い、ケンちゃん!何やってんだよぅっ。とっととメシ行くぞぉ~はやくしろって!」

 波除さんの権化かと思えば、そこには身長175センチほどの一人の男が立っていた。マコちゃんこと田中誠さん(42歳)である。今から15年前、ちょうどこの場所で待ち合わせたときはもっとキリリと引き締まった好青年であった(たぶん僕も)のに、今ではよれ気味のズボンとネクタイをした中年太りの単なるオッサンだ。

 あれは1990年に開催された水神さんの祭りの時だった。「無事に担ぎ終えたら波除さんの前で集合だかんな」。水神祭が行われたのは35年ぶり。魚河岸を誇りに思う江戸っ子たちの念願の祭りであったわけで、その盛り上がり方は半端じゃないと予測されていた。そして案の定、初日から因果にも雨台風が上陸し、人々も晴海通りまで溢れかえるほどに。

 当時の僕は場内の「太誠」という鮮魚全般を扱う店で働いていた。通称「ナニワのケン坊」(大阪人の僕がなぜ築地で働いていたかは長くなるのでまたの機会に)。額には手拭、上半身には「太誠」を経営する本社「酒盛物産」の名が入った半纏、そして下半身はモッコリが少々目障りな半股引、足はもちろん地下足袋の体。江戸っ子でなくとも22歳、「太誠」で一番若い僕は最前線に出るように上司から命令が下されていた。

 神輿は河岸から出発して海幸橋、波除さんの前を通って一度晴海通りを横切る。そのまま入船方面に進み今度は築地本願寺を廻って新大橋通りへ。最後はもう一度晴海通りを横切って河岸の正門へ帰っていくわけだ。この間、僕はどこからか沸いて出てきたスキンヘッド野郎とか刺青男などと前担ぎの取り合いを繰り返す。おかげで肩のみならず、額や頬にも殴られてできたコブが。半纏もビリビリに破れてしまい2度も着替える羽目になる。

 「太誠」店長の山本さんはさすがの気の強さでかなり前の方をがっちりと固めている。直属の上司である河豚似の斉藤さんは僕の横で相変らず「こらぁ、しっかり担げ、バカヤロウ!」などと口ばかりで絶対に担ぐことはない。社長は清々しい表情でたまにやってきては記念写真をパチリ。マコちゃんはもう一つの神輿の方で奮闘していたようである。

 だが、ここで何が一番トピックかというと、後で聞いた話だが、神輿からは沸騰したお湯のように延々と白い蒸気が湧き上っていたというではないか。それほど皆が皆、盛り上がっていたということだ。東京人はみんなクールでドライなどと聞いていたが、それは少なくとも築地には当てはまらないということを、このとき僕ははじめて体感した。

 河岸には口の悪い人間は山ほど、不器用でケンカ腰な連中も多い。もちろん、中には狡いことばっかり考えてるケチなヤツもいる。でも、そんなアホもバカもすべて受け取って一つの熱気にしてしまう力が神輿にはある。

 理屈じゃない、河岸の誇りと築地への愛着が生むこの熱気を、この町であと何回見ることができるのだろう。近所のメシ屋へ向かう際、オッサンになったマコちゃんがこう言う。

 「おぅ、今年の6月に波除さんの祭があんだけど、ちゃんと神輿担ぎに来んだぞぉ~!」。

 マコちゃん、いや波除さんが呼んでいる。

【築地辞典】

●水神祭

築地魚河岸(市場内)の氏神様。本社殿は神田神社(神田明神)境内にあって、場内にあるのは遥拝所。水神祭で登場した大神輿と中神輿は神田明神で保管されている。


●波除稲荷神社

築地周辺(市場外)の氏神様。4代将軍の徳川家綱の時代(1659年)から河岸の平穏を守っている。今なお、波除さんの前でお辞儀、参拝する人が多くいる。意外にも(?)仲買など商人は信心深い。6/9~6/12つきじ獅子祭(今年は大祭)


●海幸橋

1995年まで存在した日本では希少なアムステルダム派デザインのちょっとした橋。波除神社の前にあった築地川に架かっていた。正門は観光客やトラックが、海幸橋は業者が出入りするところといった感覚。


●築地文化遺産に その1

築地魚河岸と共に歩むウロコ印のゴム長

創業明治43年のゴム長専門店「伊藤ウロコ」。「日本橋時代から市場で働く人々の足元をトータルコーディネイトしてきました」と現5代目の伊藤嘉奈子さん。中でも魚河岸からは、安全で長持ち、さらに高い機能力といった厳しいニーズが多く、その一つ一つに代々真摯に応えてきた。店では現在、メーカー品も含め約100種類の長靴を常時揃えているが、ウロコ印のゴム長は店主自身も把握できないほどの数があるという。大きくは王道の白ウロコ、仲買鮮魚系が愛用する艶付き大長、マグロ商好みの防寒タイプ、料理人などから高支持の白半長など。昔ほどではないが今なお根強い人気を誇るウロコ印。築地魚河岸を守る第一歩がここにある。(伊藤ウロコ 市場内魚がし横丁7号館南側)

●築地移転問題

「魚河岸が消える!?」
①魚河岸の意味と移転問題

魚河岸というのは築地市場の古称・愛称。江戸時代に徳川家康が大阪・佃(西淀川区)の漁民を呼び寄せ、日本橋で市を開かせたことがその発端であるが、大正12年には「中央卸売市場法」が制定され、それまで漁師や商人にあった主導権が東京市に変わる。紆余曲折して築地に移転したのが昭和10年のこと。高度経済成長期には国内はもとより、各国からあらゆる魚介が集中し、海外でも類のない多種多様の品揃えと取引量に。そんな世界の築地が今、消滅の危機に、正確には豊洲へ移転するという話がある。期日は2012年か、それ以降の近々。’04年7月付けの東京都が発表する新市場計画書には、事細かにその理由と新たな目的が記されているが、要は「古い、汚い、危ない」ということか。
 簡単に経緯を述べれば、’86年に老朽化を理由に築地再整備が決定。だが、一度作ったスロープを取り壊したり、建設中の駐車場がそのまま取り残されたり、なぜか工事は中断。’97年には豊洲移転の是非が問われ出すが最終的に話は不適としてお蔵入りするが、同年にまた一変して移転の話が急浮上。結局、’98年には移転論が本格化し、いつのまにか計画が決定したのである。都民の台所が、都民の知らない間に決まっているこの問題。
 現在、市場内外の商店から、ここに出入りする関係者、また単純にこの地域を愛する者たちへと、移転に対する認識と疑問が広がりつつある。ここでは、そんな幅広い層の人々の意見や考えをルポしていきたいと思って

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?