将棋

『将棋』

「ニ歩ですよ」
キタムラは少し躊躇いながら指摘した。ニ歩を受け入れてそのまま指し続けてもよかったが、彼女のためにならないと判断して口に出した。

先程までプロの棋士が王将金銀歩の動かし方を丁寧に説明していた。
あれほど丁寧にゆっくり説明されると、むしろ認知的な作用は弱まると思った。
それに、みんな駒の動かし方は知っているのではないだろうか。
この講義は、将棋の対局や詰将棋を通して学びを得ることを目的としている。40人ほどの希望者の中から作文によって25人が選ばれた。
全員が同じ東帝大学の1年生か2年生だ。
初心者のみを受け入れている講義だが、遊びで将棋に触れたことのある学生がほとんどだろうと思っていた。
駒の動かし方はもちろん、穴熊くらいは知っている人もいるだろう。
自分は「居飛車」や「振り飛車」など名前は知っていても、それが何のことなのか分からない。
それでも、30分以上続く駒の動かし方には辟易した。

だから、目の前の女性が5×6マスの簡易的な将棋盤の中で、ニ歩を行ったときに少し驚いた。
ニ歩が禁じ手であることは説明されていたが、初心者特有の不慣れさが注意不足へと繋がったのだ。
キタムラは驚きはしたが、相手を軽蔑したわけではなかった。
むしろ、美しいと思った。
ニ歩を指摘された彼女は、輝くような笑顔とともに頬を紅潮させた。
彼女はおぼつかない手つきで2三に置いた歩を取り除いて、理科一類1年のサトウです、と名乗った。
サトウはテニス部のマネージャーをしているそうだ。練習は週に6回あって、この講義の後すぐにテニスコートに向かう。
テニスは初心者だがスコアの付け方やルールは把握していて、審判を行うこともある。
サトウとキタムラは部活の話をしながら、駒を動かしている。数手進んだところで、キタムラは言った。

「その銀はぼくの銀ですね」

将棋盤に顔を向けていたサトウは上目遣いでキタムラを見て、不二家の店前に置かれたぺこちゃん人形のようにペロリと舌を出した。
キタムラは、この女性にケーキを買ってやりたいと思った。

イタリアとベルギーで修行した日本人のパティシエが駒場の近くでケーキ屋をやっているんだ。
海外の大会で何度も優勝した経験もあるすばらしい人で、うっとりするくらい上手いケーキを作るんだ。
雲のようにふわふわの部分とねっとりとした柔らかい部分としっかりとした歯応えがある部分が層を成して、口の中で混じりあったり弾けたりするのを感じたら、駒場にキャンパスがあることを明治の政治家に感謝すると思うぜ。

キタムラはそう言いたかったが、やめた。そんなことを言っても、サトウは自分に興味を示さないだろう。
むしろ不快に思うかもしれない。
サトウは初心者だが、一手一手を大切にしているようだ。
しばらく考え、用意された金や銀の動かし方を何度も見ている。
本当に初心者なのだ。

児戯で指した経験がある程度の自分とも棋力に差があって、何も考えずに攻め続けるだけで簡単に詰んでしまう。
キタムラは可能な限り守りに徹して、ときには金や銀より歩を優先して確保した。

そんなことに注力していたら、うっかり王手を取られてしまった。
そこで、こちらも王手をかけてみる。

サトウは速やかに自分の玉を守った。
キタムラはそのあとで自分の玉を守るように駒を動かし、さっき王手でしたよと伝えた。

サトウは自分が王手だったことに気づいて言った。

「あたし、馬鹿だあ…」

サトウは首をもたげて落ち込んでいる。
キタムラは思った。
ぼくが孔雀だったら羽根を千切れるくらい広げただろう、ぼくが蜂だったら無限を永遠に描いただろう、ぼくが一代で財を成した死にかけの老人だったらすべての遺産を彼女に残しただろう。

それくらいサトウは輝いていた。

君は全然馬鹿じゃないよ、ぼくと同じくらい賢いんだよ、ニ歩をしたっていいじゃない、王手に気づかなくたっていいじゃない、王将を「王様」って呼んだっていいじゃない、そんなことで君の天女のような美しさは翳らないよ。

キタムラはサトウが再び王手をかけるまで、駒を動かし続けた。

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