たとえばぼくが死んだら

思春期を過ぎて20代の頃まで、お通夜の席で酔った赤ら顔で大きな声でげらげら笑い、ビール瓶片手にお酌相手を求めてうろろと歩きまわるおじさんたちを苦々しく思っていました。ご遺族の方たちはほんとうは「そっとしておいてほしい、静かに個人との時間を偲びたい」と思っているはずなのに、なんと無神経な人たちなのだろう、おれは絶対ああいう下品な中年男にはならないぞ、と。

数年前、親しくお付き合いしていた先輩が若くして亡くなりました。ご自身で会社を起こし人望も厚い方でしたので同業の気の置けない友人知人が多勢お通夜に参列しました。

その精進落としの席で、ぼくは、というかその場にいたほとんどの方々が、大声でしゃべり、げらげら笑い、しんみりしそうになったら「ま、ま、ま」とかいいながら立ち歩いてビールを注ぎ合い、赤ちゃんがいたらかわるがわる抱っこさせてもらい、「あのときオマエはあんな恥ずかしいことをしたー!」といってはまた全員でげらげら笑いあいました。ぼくたちは、赤ら顔の、ビール瓶片手の、下品なおじさんおばさんたちでした。

斎場を出たあと、大阪から駆けつけた友人(と呼ぶのは僭越なのですが、ぼくが大好きな年上の気の置けない先輩です)が別れ際の駅のホームで

「こういう言い方は不謹慎かもしれないが、楽しかったね」

といいました。

「ハットリちゃん(と彼はぼくを呼びます)は、おれの通夜にはあんな感じで来てくれや。順番が逆かもしれんけど、おれがハットリちゃんのお通夜に行くことになったらはおれはあんな感じで行くわ」と。

友人は喪服の背中を丸め、ひらひらと手を降りながら駅の階段をのぼっていきました。遠い昔のことのようでもあり、つい先月のことのようにも思えます。


死に方が、生き方。

先日、敬愛する知人が手がけた文章を読みそこに取り上げられている写真家の方の言葉からこの段落のタイトルのようなことを思いました。

で、「これ、なんかのコピーみたいだな、誰が書いたやつだっけ」と思ってしらべてみたらすっかり忘れていたのですが若い頃に自分が書いたものでした。(ちなみにいまこのnoteを書いているこの瞬間のぼくは、こういうコピーを書く若者があんまり好きではありません。あと、広告のコピーとしては全体の設計にアラが多くてそのレベルの低さに我がことながら愕然とします。だから記憶から消してたのかもしれません)

ところが最近、このコピーに書かれているようなことを毎日考えています。(もちろん自死を考えているということではありません)書くと月並みなことになるのでわざわざ書き起こしたりはしませんが、「あぁ、自分が書いた言葉が追いかけてきていまこのタイミングで自分に会いに来たのだなぁ」という感じには少し戸惑っています。


「たとえば僕が死んだら」

私の同郷のパンクバンドEastern Youthに「たとえば僕が死んだら」https://www.youtube.com/watch?v=SbVySpRZIAAという曲があります。(原曲は「ぼくたちの失敗」の森田童子)

で、一般的には「たとえば僕が死んだら」の受けの歌詞は「そっと忘れてほしい」のほうで知っている方が多いと思うのですが、ぼくは二回目のフレーズ、

ぼくの名前を風にのせて そっと呼んでくれ

のほうが好きです。

人生にはシリアスなことがとても多いので、楽しいことのほうをおぼえるようにぼくの頭ができていたらいいのになぁと思います。ほんとうにそうだったらいいのになぁと。

そうだったらいいのに、と思ったことは書いたほうがいいなと言ったのは先週のわたしですので書きました。「書くことのモチベーション!」とか「中年のがんばり!」とかを求めて読まれた方には、しんみりした話ですみませんでした。







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