キャプチャ206

グラフィックを詰めずにゲームのプロトタイプを量産する方法は現代でも通用するのか


ゲーム制作の先輩方によく言われること

こんにちは、避雷です。インディーでゲーム開発者をしている大学生です。僕の通っている大学はゲームを作る勉強をするタイプの大学ではなく一般的な総合大学なので大学ではあまりゲーム開発について学ぶ機会はないのですが、最近は可能な限り色々な開発者に会って話を聞くようにしています。彼らの多くは僕よりも年上で(もちろん年下で僕より強い人間もたくさんいます。例のカカシ先生の画像を頭の中で想起しておいてください)若いころにやっておいた方が良かったことを色々と教えてくれたりするので大変勉強になっています。

彼らは当然個々で経てきた人生が違うので、僕にくれるアドバイスもまたバリエーション豊かなものなのですが、その中で割と頻発するアドバイスがあります。

「短い期間でプロトタイプを沢山作れ、グラフィックは雑で良いから中身だけできたらまず公開しろ」

「グラフィックとか細部がいくら良くても核となる部分がつまらなければ無意味だからね」

なるほど。本格的に制作に取り掛かる前にゲームの核となる部分が面白いかどうか確認するのは非常に有意義ですね。彼らの言い分は的を射ているように思えます。しかし、本当にそうでしょうか?

現代においてグラフィックの伴わないプロトタイプに意味はあるのか?

ゲームプレイヤーの立場になって考えてみてください。あなたはゲームマニア、Twitterなんかでコンシューマ、インディー問わず面白いゲームがたくさん流れてくる中に、プリミティブなキューブで出来たゲームが一つあったとします。どうやら最もらしいゲームシステムについて書かれているけど、エフェクトもショボいしUIもゲームエンジンのデフォルト。あなたはそれを目に留めるでしょうか?ツイートをクリックして添付された画像や動画を見て、更にリンクを踏んでゲームをダウンロードするでしょうか?

恐らくしないでしょう。世の中には一生かかっても遊び尽くせないほどのゲームがあって、美麗な3Dモデルが画面いっぱいに広がり、コントローラに触れればド派手なエフェクトが飛び散るようなゲームが毎日のようにあなたのタイムラインに現れる。そんな作りかけのゲームを遊ぶぐらいならそっちを遊ぶわ。サマーセールで更に積みゲーが増えたんだからそれも遊ばなきゃ。

こうしてゲームの核だけを煮詰めたプロトタイプは誰にも見向きされないまま電子の海に沈んでいきます。これではプロトタイピングの意味がありません。

多分僕は別に大発見をしたわけでも、だれも考え付かなかった新しい理論について話しているわけでもありません。多分同世代のゲームクリエイター達の多くがこのことに気づいています。ではどうして我々と先輩たちの意見は食い違うのでしょうか。

もはやグラフィック無しではゲームは評価の舞台にすら登れない

この質問に対する端的な解答は、「コンピュータグラフィックの発達」という一言に尽きます。まだ日が浅い電子ゲームの歴史の中で、そのグラフィックは驚くべきスピードで進化をしてきました。その歴史について詳しく述べることはしませんが、読者の皆様も「ポケモンの今と昔」、「FFの今と昔」みたいな比較画像を見てその差異にビックリした経験が一度ぐらいあるのではないでしょうか。

かつて、まだ計算資源が非常に乏しかった時代、ゲームはグラフィックに割く計算コストを可能な限り削減し、低解像度のドット絵で世界を表現していました。その粗いグラフィックでも我々がゲームに熱中出来たのは、ゲームが我々の想像という最高の生体部品を用いていたからです。ゲームに求められていたのは世界を想像させる能力で、世界を描画する能力ではありませんでした。ゲームに求められていたものの中で「ゲームそのものの面白さ」は大きな割合を占めていました。

一方現代、電子機器の進歩によって以前に比べて計算資源を大量に用いることができるようになった今、ゲームには世界を描画する役割も負うことになり、プレイヤーもどんどん美麗なグラフィックを期待するようになっていきました。さらに民間向けゲームエンジンの台頭により、ゲームの数が爆発的に増え、沢山のゲームの中から自分に合うゲームを探さなくてはならないため、プレイヤーはまず人間の認知力の多くを占め、判断に時間がかからない「視覚」を用いて注目すべきゲームを決めるようになりました。見極めに時間がかかる「ゲームそのものの面白さ」は「視覚」によって選別された後に評価されるものとなったのです。

問いかけ

確かに先輩方の時代は、グラフィックにこだわる前の段階のプロトタイプでも有意義な評価が得られたのかもしれません。しかし我々はもはやグラフィック抜きで何かを評価することは出来なくなってしまったのです。過去と今、どちらかの感性が優れているとか、ではなく、単に位相が変わっただけなのでしょう。情報量が爆発的に増加したため、人類がそれに適応しただけのこと。しかしそれはゲーム制作において大きな変化です。白いボックスが動くだけのゲームには誰も見向きしなくなった以上、そういったタイプのプロトタイピングに意味はあるのでしょうか?僕にはわかりません。

もう一つの問い

ゲームエンジンによって誰もがゲームを作れるようになった今、グラフィックが良くないゲームは遊ばれることすらできなくなった今。生涯の半分をゲーム制作に捧げてきた僕にとって、とある疑念が脳裏を過ぎるのです。

『(同じ量の努力をするならば)絵を描ける人間が後からゲーム制作を始めた方が、ゲームだけを作り続けてきた人間よりも面白く、多くの人間に遊ばれるゲームを作れるのではないか?』

ゲーム制作において、結局のところどこに重点を置くべきなのか。皆さんの意見を聞かせてください。


追記:頂いた意見に対する返答、自己分析とか

有難いことに予想以上の反響をいただき、ビックリしております。皆様がいかに本気でゲーム制作に取り組んでいるか、また今まで同じような議論がされてきたことなどについて気づかされました。何より、こんな拙い意見に対し真剣に考えてくださった皆様には感謝の念で頭が上がりません。さて、今回引用RT、リプライなどで様々な意見をいただきました。本当は一つ一つにお返事したいのですが、Twitterでやると恐らくFFの人に迷惑が掛かってしまうと思ったのでこちらである程度まとめてお返事させていただきます。ご理解ください。

1.プロトタイプの定義について

本記事での「プロトタイプ」という言葉の定義について、不十分あるいは取り違えが起こっているといったご意見を多くいただきました。プロトタイプはゲームシステム・グラフィック共に詰めるモノではない、そもそもプロトタイプは一般向けに公開するものではないといったご意見を多くいただき、なるほどと思いました。

定義について述べてくださった方々は、ゲーム会社でお仕事をされているプロの方が多かったように思えます。方々と僕の置かれている状況には大きな違いが2つほどあるように感じます。おそらくプロトタイプは公開するものではないと主張する方々は

・グラフィックが無くてもゲームの面白さを見極められる人が周囲に多くいる

・自分の感性が正しいという自信がある

という2点を前提として持っているのではないでしょうか。おそらくこの点が僕と先輩方の環境として異なっている点だったのだと思います。全体としてはゲームとは関係ない環境(僕の場合は大学)に所属しながらで個人でゲーム制作をしているとプロトタイプをプロトタイプとして正しく評価できる人と日常で会うことはあまりなく、月一程の頻度ののゲーム開発者ミーティングなどを待つしかなくなってしまいますし、また、ゲームを完成させた経験が乏しく自分が面白いと思ったものが他人も面白いと思ってくれるのかについて自信を持てないという経験の浅さも相まって、結果的にプロトタイプの段階で既に善し悪しを判断するのにはどこかに公開して他人の意見を求めるほかなくなってしまうという現状がありました。言い換えれば「『プロトタイプ』は作れない、最低でも『デモ』まで作らなきゃいけない」となるかと思います。

そういう風になってしまうと、公開した際に注目されるようにグラフィックを作りこむ、ゲームシステムを作りこむ必要が出てくるな、と僕は思ったのですが、この思考に至った時点で僕の想定するものは先輩方の想定していたプロトタイプの定義からは外れてしまっていたのでしょう。きっとこれらの違いが今回のプロトタイプという言葉の定義の食い違いとして現れたのだと思います。

2.誰に評価されたいのかという点がブレている

この件についても言われてハッとしました。なるほど、アドバイスをするにあたって先輩方が意識していた対象と、アドバイスを受けるにあたって僕が意識していた対象は全く違うものだったのでしょう。彼らはそのゲームの開発を一緒に行う同僚、友人、あるいは上司を想起していて、僕はプレイヤーそのものを想起していたのだと思います。

これに関しても恐らく上述した前提の違いが原因となっていて、あくまでゲームはプレイヤーが遊び、プレイヤーが意見するものであるという固定観念が僕の中に存在していたのだと思います。結果的にプロトタイプなのにプレイヤーの評価のみを求めるという、先輩方から見ると矛盾した価値観が根付いていたのかな、と思います。

3.スプラトゥーンの例について

これに関しても複数の方々から「スプラトゥーンのプロトタイプは豆腐だったじゃん」という意見を頂いていました。これをこの記事執筆した当初にいわれていたら、「じゃあこの豆腐がTwitterのTLに流れてきたとしてお前はそれを遊ぶのかよ」と言っていたでしょう。これに関しても「プロトタイプ」という言葉の定義がずれていたことによってズレが発生していたのだと思います。豆腐がTLに流れてきても誰も遊ばないでしょ、という点に関しては今でも同じことを思っていますが、「そもそもプロトタイプは開発陣営の内側で遊んで、徐々に仕様を固めていくための物なので、豆腐で十分だった」というのが正解なのだと思います。この豆腐を遊んでスプラトゥーンの開発陣はコレで行けるという確信を得た上で本格的な開発を始めて、結果スプラトゥーンは大ヒットしました。豆腐はプロトタイプとしての役割を十分に果たしたといえるでしょう。

4.グラフィックデザイナー側の視点が足りない件について

これに関しては全く持ってこちらの書き方の問題といった感じがありました。普段から関わる人はエンジニア・プログラマの方々が多かったので、グラフィックデザイナーの方々がプロトタイプを作る際どのようにしているのかという点についての認識が欠落していました。「グラフィック側もプロトタイプを作っている」みたいな話は全くもってその通りだと思いましたし、今回の件で色々な業種の方のご意見を伺うことができて大変良い勉強になりました。重ね重ねありがとうございます。

ただ、何人かの方から、「絵を描く努力を無視している」といったご意見を頂いたのですが、そのような主張をするつもりは全くなく(むしろその点に関してはそういった捉え方をされないように細心の注意を払ったつもりでした)、あくまで「同じ量のリソースを割くなら」、という前提で話しているつもりでした。

5.結局のところ僕は何を言いたかったのだろうか

今回、色々な方々からご意見を頂いているうちに、僕が言いたかったのは本当に「プロトタイプ」についての話だったのだろうか、といった思いが湧いてきました。今日一日「『プロトタイプ』の定義間違ってるぞ、と一刺しで終わるものがどうしてここまでの議論になったのか」についてずっと考えていました。具体例の皮を被せて僕が本当に投げかけたかった疑問は何なのだろうか。頂いた意見へのお礼と、返答としてこの文を書いている今、ようやくその答えらしきものが見えてきた気がしています。

「ゲーム制作において、自分の決めた方針に、これまで作ってきたものに、自信が持てないときはどうすればいいのでしょうか?」

文字に書き起こしてしまうと何とも無様な泣き言です。情けなさ過ぎてちょっと泣きそうです。本当にひどい。

でも結局のところゲーム開発の方針が誤っているのではないかという不安を正しいプロトタイプの在り方という疑問でコーティングし、いざゲームが完成しても誰にも見向きされなかったらどうしようという不安を人目を惹くグラフィックの問題で塗装して、それっぽい問いかけと批判の形にして投げかけていたのかもな、という気持ちが非常に強くなってきたのです。

ゲームが面白いものになるか、ゲームをちゃんと沢山のプレイヤーに届けられるか、といった不安は恐らく誰もが抱いているもので、ゲームエンジンの発達などによってリリースされるゲームの質・量、ともに増加傾向にある現代において、その不安感は今までにない大きさになっているものだと考えられます。

皆様が僕の拙い問題提起を一蹴せず、真剣に考えてくれたのは言葉の節々からこんな危機感を汲み取って、共感してくれたからではないか、という御都合主義で身勝手な妄想を僕は拭えずにいます。流石に気持ち悪くなってきたのでポエムはこの辺でやめておきましょう。

最後に、今回の件に意見をくださったあらゆる方々に、重ね重ね深い感謝を述べさせていただきます。本当にありがとうございました。これからも僕は手を動かし続けようと思います。以上、追記でした。

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