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我々はそろそろ、真剣に嘘松について考えるべきではないか


文体とは、「作者の流儀、彼独特の抑揚、彼の語彙、ある文章に直面したとき、これはオースティンのものであって、ディケンズのものではないと、読者に叫ばせるような何ものか」のことであるーーウラジーミル・ナボコフ



はいどうもー。前任者解任とか色々あって間が空いちゃいましたが、今回も忍殺文体の構造や技巧なんかの面について解説です。忍殺や逆噴射文体の表面的な言葉遣いはマネできても、なんか本家のようなグルーヴにならないな、とお悩みのあなたにご参考になればと思います。

なんか最近書くのもめんどくさくなってきてるので、紹介とかはすっ飛ばして本題に入ります。



フィクションとは何か


「いや別に、自分が文学に詳しいと思いこんで偉そうにしてるやつのエセ専門語りなんか聞きたくないんだけど・・・」と言いたくなるのはわかりますけど、ぜったいに俺の話を聞いたほうが得です。その証拠に、いきなりまず一つ、誰もまともに指摘してない明白かつ重要な事実を指摘しましょう。

みんな忘れがちだけど、忍殺の作者はボンド&モーゼス(以下「ボンモー」)です。ボンモーはアメリカ在住で多分アメリカ育ちなので、そうであれば、学生時代に国語とか古文とかのカリキュラムで読まされた作品といったら、英米文学のクラシックとかあるいは古代ギリシャ・ローマ時代の古典だったりします。日本の俺らが漱石とか鴎外とか枕草子を授業で読まされたり、それがきっかけで自分で図書室で中島敦とかを読むようになった感覚で、ボンモーはディケンズやヘミングウェイとかフォークナーなんかを読んでるし、アリストテレスだとかキケローとかガリア戦記とかも読まされてるんです(ガリア戦記も食わず嫌いせずに読んだらそのへんの架空戦記なんかよりすげえエキサイトして面白いよ)。

それで当たり前ですけど、要するにアメリカで小説書いてる奴は大体ボンモーみたいな読書をしてて、ボンモーも他のやつらも、そういったクラシックを読みなさいみたいな感じの指導を受けたわけですよ。それに対し俺らみたいな日本に住んでる奴が小説講座みたいなのを受けると、谷崎潤一郎みたいな繊細な文章を的な指導を受けるわけです。

つまり、ボンモーは英米文学とかの作法に基づく、俺らとは全然ちがう発想で執筆してるんだから、そういう俺らとは全然ちがう発想がどんなものなのかを知らずに言葉遣いだけ似せても、テキスト全体は忍殺っぽくなりません。ボンモーは谷崎潤一郎をお手本にしてないんだから、忍殺みたいなグルーヴがあるパルプを書きたいんだったら、俺らも谷崎潤一郎をお手本にするのは忘れて、めんどくさがらずに海の向こうのやつらの間ではどういう書き方を重視するのかを知っておくしかないです。

「えっそんな今更勉強?」大丈夫。これから俺が話すのは、基本、忍殺の文章のスタイルがどんなふうに海外文学の作法を使ってるかみたいな話のエッセンスなんで、そんなに堅苦しいもんじゃないです(堅苦しくならないようになるべく注意していきます)。それで、このテキストは忍殺文体の分析を通じ、「我々はそろそろ、真剣に嘘松について考えるべきではないか」というところまでいく予定です。

そのために、一番の基本の基として絶対に抑えとかないといけないのがアリストテレスの「詩学」です。

そこのあなた!「アリストテレス」と聞いてウンザリしなくてもいいんですって! なんか古代ギリシアとか哲学とかクソめんどくさいように思うかもしれませんけど、実際は全然とっつきやすくて分かりやすくてためになる内容なんです。短いし。そもそも、古典すぎてボンモーみたいな海の向こうのやつらにとっては常識すぎる話なのに、日本の俺らのほとんどが全然聞いたことがない話が書いてあるんですよ? すごく興味ないですか?

ボンモーみたいな奴らと俺らとでは、たとえば「詩学」を知ってるかどうかってことひとつだけでも執筆手法の「常識」の内容に差異が生じてるんです。だから「フィクションとは何か」みたいな問いに対して、ボンモーみたいなやつらと俺らとではその答えが全然違ってくる。あなたならどう答えますか? 「フィクションとは・・・クジラとは・・・」みたいな自問自答状態になっちゃうのでは?

ところが「詩学」が常識になってるやつらはあっさり答えてきます。大抵のやつの答えは「フィクションとは、メタフィクショナルな存在としての語り手により語られるもの」です。この答えが正しいかどうかは問題じゃありません。なんでそいつらはそんな答えをするのか。それは「だって、『詩学』はそういう話だから」なんです。んで、フィクションとはそういうもんだって発想で執筆するんです。あなたはそういう発想で書いてます?



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注意してほしいのは、俺は別にアリストテレス大先生の教えに従って執筆しなきゃいけないなんてことを言いたいのではないということです。こんな大昔の話なんだから、今の時代には通用しない部分もあるだろうし異論がある部分もあります。でも大事なのは、書いてある内容の部分部分が正しいのか間違いなのかではなく、間違いがあろうとなかろうと、この本に出てくる指摘が、フィクションの構造や機能、そして創作のテクニックについて海外の奴らが考察してきた長い歴史のその出発点なんだってことです。

んで、アリストテレス大先生が古代ギリシア時代の後も何千年にもわたって、プトレマイオス朝エジプトでもイスラム世界でも西欧キリスト教文化圏でも変わらず大先生としてその著作が保存されたのは、大先生が、みんなが普段もやっと考えている輪郭の掴めない概念とかに対して、平易で明確な言葉でずばっと指摘して明確な輪郭を与えて、議論の基礎ってやつを作りあげたからなんですよ。

アリストテレス大先生はこういうふうに議論を出発させます(以下、説明の分かりやすさのために「詩学」に書いてあることそのまんまではなく多少アレンジも入れて紹介します)。

たとえばトロイア戦争の伝承についてヘロドトスが書いたら「歴史」扱いされるのに、おんなじ内容を吟遊詩人が叙事詩にして歌ったり、あるいは悲劇として上演したらこれがフィクション扱いになるのはなんで? あなたならどう答えます?

アリストテレス大先生のすごいところは、歴史とフィクションの違いを説明する上で、内容がフィクションかノンフィクションかみたいな観点ではなしに、構造・形式といったところに着目したところです。アリストテレス大先生の見解は大雑把に言うとこんな感じです。

歴史: 過去に起こったこととして語られる

フィクション: これから起こる出来事として、俳優や吟遊詩人が出来事を再現(模倣)することを通じて語られる

こうズバリと指摘されるとなんか目鱗落ちてスッキリみたいないい気分になりませんか? たとえ同じ内容を語るにしても、過去の事実として言及されるとフィクションにならず、再現(模倣)を通じて語られるとフィクションになる。いやーなるほど。

大先生は他にも歴史とフィクションの違いをこう指摘します。

歴史: 明確な区切りや始まり・終わりがない

フィクション: 始まりと中間と終わりがある

なに当たり前のこと言ってんだと思う人がほとんどでしょうが、大先生は、この当たり前すぎることを言葉で明確に指摘して、これを出発点にして平易に、明確に説明してくれるわけです。フィクションには始まりと中間と終わりがある→結末は観客や聴衆にカタルシスを与える目的に沿ってないといけない→登場人物の配置や筋書きも、カタルシスを与えるという目的に沿っているかどうかという合理性の観点から検討すべき→では、フィクションが観客や聴衆にカタルシスを与える仕組みとはどういうものか、どういう筋書きや登場人物がフィクションの仕組みに合致しているか、フィクションの「外」に置かれるべき(筋に取り込むべきでない)要素とはどういったものか……という感じで、情緒や道徳みたいな観点を排除し、合理性の観点から技術論として説明していくわけです。

アリストテレス大先生はこんなかんじで、フィクションの構成要素を分析・整理して、さらには、上手い表現とは、上手いストーリーの構築とはというところまでどんどん踏み込んで明確にビシバシ決めていきます。だから実際に「詩学」を読んでみると、「こんな大昔にこんな鋭い指摘を連発するやつがいたのか!」って新鮮な驚きとビシバシ決まる快感を味わえるんですよ。いくつか紹介しましょう。ちなみに、書かれた時代を反映して大先生は「悲劇」とか「詩」、「詩作」っていう言葉を使ってますが、「悲劇」や「詩」は普遍的な「フィクション」、「詩作」は「創作」に置き換えて読んでも全然問題ないというか、逆にそのほうが勉強になります。


悲劇は行為の再現であり、行為は行為する人々によってなされるが、これらの者は性格と思想においてなんらかの性質をもっていなければならない。というのは、性格と思想によって行為もまたなんらかの性質をもつとわたしたちはいうのであり(中略)そしてすべての人々は、このような行為に応じて、成功したり失敗したりするからである。


性格とは(中略)その人物がどのような選択をするかを明らかにするものである。それゆえ、語り手が何を選び、何を避けるかということをまったく含まない科白は性格を持たない。


詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る


普遍的とは、どのような人物にとっては、どのようなことがらを語ったりおこなったりするのが、ありそうであるか、あるいは必然的なことであるか、ということである。詩作は、人物に名前をつけることによって、この普遍的なことを目指すのである。

名付けといえば、ボンモーも以前のインタビューで言及していましたね。


(筋書きを構成する)出来事の部分部分は、その一つの部分でも置きかえられたり引き抜かれたりすると全体が支離滅裂になるように、組み立てられなければならない。あってもなくても何の目立った差異も示さないものは、全体の部分ではないからである。

アリストテレス大先生は例のエピソード8を観てなんかすごく怒るかも・・・ルークが映画史上最もエモーショナルでチョーカッコいいブリッジ回避を繰り出してくれて俺は完全にあがったので大満足ですけど・・・フィンやブライエニー姐さんが完全に何をしに出てきたのかさっぱり分かんないキャラになったのは・・・すいません。話を戻します。


単一な筋と単一な行為のうちで、場面を偏重するものがもっとも劣る。ここにいう場面偏重の筋とは、そのなかの場面の並べ方が、ありそうでもなく、必然的でもない筋のことである。

でも、ルークがチョーカッコよかったし、カミカゼワープは絵面と静寂の合わせ技演出ですげえ迫力だったし、レイちゃんがJEDI島に宿った謎パワーのえいきょうでふっくらしたりシュッとしたりを繰り返すのがかわいかったし、よかったじゃん!


筋を組み立てて、それを措辞・語法によって仕上げるさいには、その出来事をできるかぎり目に浮かべてみなければならない。じじつ、このようにして、実際の出来事に立ち会っているかのようにすべてをできるだけはっきりと見るなら、適切なことを発見できるであろうし、また矛盾したことの見落としもきわめて少なくなるであろう。

そりゃ大先生の言いたいことは良く分かりますけど、監督だって一人で煮詰まりながら脚本執筆したりしてて大変だったんだから、そういうのも大目に見てあげてください!


また作者は、できるかぎり、さまざまな所作によって筋を仕上げなければならない。なぜなら(中略)感情を経験する者がもっとも人を説得することができるからである。(中略)それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。

アッハイ・・・


悲劇はその少なからぬ要素として音楽(歌曲)と視覚的装飾をも持っているのであり、それによって、悲劇がもたらすよろこびはきわめて生き生きとしたものになる。また、その生き生きとした効果は、悲劇作品が読まれるときにも上演されるときにも、同じように生じる。

あれ? 大先生さらりと凄いこと言ってません? 俳優や吟遊詩人が行為を再現・模倣して語るのがフィクションだってのは分かるし、劇の台本や叙事詩が写本スクロールに書かれたやつをテキストとして読んでも面白いっていうのは分かるんですけど、写本スクロールのテキストには俳優も吟遊詩人もいませんよ? それに視覚的効果も、舞台の劇伴を歌ったり演奏したりするコーラス隊も皆無です。だったら、テキスト化されたフィクションを俺らが読むときは、一体誰が再現したり模倣したりしてるの? 作者? でもホメロスの叙事詩なんかは作者がとっくに死んだ後でも吟遊詩人が口伝してリサイタルしてた内容を誰かが文字起こししたやつだから、テキスト化されたイリアスやオデュッセイアは作者が書いたものじゃないよ?

んで、海外のやつらがこの問題に気付いて色々考えた結果、こんな解釈が主流になったわけです。

つまり、小説とかのテキストによるフィクションの中にも、見えないし、物語の構成要素にもなってないように見えるけど、語り手ってやつが存在すると考えるしかない。メタフィクショナルな領域に存在する幽霊みたいなやつ。そういう領域に、作者から独立した語り手が存在して、そいつが登場人物の声やしぐさを模倣したり出来事を再現したりすることでフィクションはフィクションとして成立する。

なんだか妙ちきりんな発想ですし、そんなのすぐに納得できる話じゃないでしょう。だけど重要なのは、こういう考え方が正しいかどうかじゃなくて、こういう考え方を前提に考えると、フィクション作る上でのいろんな技術に関してすっきり明快な説明ができるってことなんです。

たとえ登場人物の誰かが一人称で語り手を務めるケースじゃない、三人称の物語であっても、そこには作者から独立した、メタフィクショナルな存在としての語り手がいる。強調しますけど、一人称だろうと三人称だろうと関係なく語り手と作者は別の存在っていうのが最重要ポイントです。

じゃあ、そういう発想で考えるとどんな説明ができるのか。



描写だとOK で「説明」だとダメな理由、そしてその逆用


あれですよ。よく小説の書き方講座で、講師がえらそうに「説明じゃなくって描写するように書きなさい」みたいな決まり文句を言うけど、生徒が「説明と描写は何が違うんですか」とか「なんで説明したらだめなんですか」って質問すると講師がなんかモゴモゴ言って全然答えにならないから、生徒のほうもよくわかんないみたいになって、生徒が書いた小説が谷崎潤一郎みたいだから良いとか悪いとかあやふやな評価しかしないから生徒のスキルが全然上がらないままになるじゃないですか。

ところが、作者から独立したメタフィクショナルな存在としての語り手ってやつを想定すると一発で理解できます。もう俺がはっきり言わなくても大体の人は予測できるんじゃないかなとは思うのですが、念のため明確にしときます。

語り手によって作者とは違う声を用いた再現や模倣として語られるのが描写で、語り手を押しのけて作者が前面に出てきて語っちゃうのが説明です。もっと言うと、もし、とあるシーンを構成する小説のテキストと、そのシーンでどういうストーリーが展開しているのかの説明が一致するなら、そのテキストは描写ではなくストーリーに直接言及する説明にすぎないということになります。

作者の姿が読者に見えないようにして語り手が再現・模倣するからフィクション空間が生まれて読者がフィクションに引き込まれるのに、フィクション構成要素を再現したり模倣したりせずに説明しちゃうと、作者の姿がちらついちゃってフィクションがぶち壊しになっちゃうので、読者はしらけちゃうし、「なんか作者が自己陶酔して言葉を飾り立ててるテキストなのがダセエ」みたいな感想言われちゃうんですよ。

ちなみに、アリストテレス大先生も実は、メタフィクショナルな存在としての語り手っていう概念を用いていないだけで、このあたりのことは結構明確に指摘してるんです。


ホメーロスは、ほかの多くの点でも称賛に値するが、とくにたたえられるべき点は、詩人たちのうちで彼だけが、詩人みずからがなすべきことをよく心得ていることである。すなわち詩人は、みずから語ることをできるかぎり避けなければならない。そういう仕方で詩人は再現する者となるのではないからである。ところが、ほかの詩人たちは、詩の全体を通じて自分を表面に出すのであり、再現をするのは、ごくわずかのことがらについて、しかもごくわずかの機会においてである。


ね? 大先生さすがですよ。作者の自分語りじゃ再現したり模倣したりにならないからフィクションとして失敗する。これはいつの時代でも通用する原則でしょう。

こういう説明のされかたを聞いたことがなくっても、世の中の結構な割合の読者は、この作者が前面に出てきて語っちゃうとフィクションがつまんなくなっちゃうっていうのは、なんか無意識とか本能のレベルで感じ取ります。けど、こういう感じで作者の存在を語り手の背後に隠す書き方ってのが意識的に実践されるようになったのは、かなり現代になってからのことなんですよ。

だから、なろう系やラノベに対して、「作者が前面に出てきて説明するからダメで小説として劣ってる」みたいな非難をするやつらは全然ナラティブの構造みたいなのが分かってなくて、それが世の中のそういうやつらと俺との違いです。

描写と説明がどう違うのかってのを俺が説明したみたいにナラティブの構造の観点から理解できてるんなら、ちょっと工夫することでいくらでも説明によるフィクションを成り立たせることも可能なんです。

たとえばなろう系やラノベ。普通の小説に慣れてる読者が読むと、当然のように作者が前面に出てきて説明する文体に拒絶反応しか湧かないってのが大体の読者の感想でしょう。でも逆に、なろう系やラノベの読者は作者が前面に出てきてストーリーやら設定やら何やらを説明するとこれをありがたがってほめそやす。こんなふうに普通の小説となろう系やラノベとの間で、読者の間にでかくて深い溝があって、ツイッターやらなんやらで読者間の不毛なディスりあいばっかやってるんですけど、ナラティブの構造に着目すれば簡単な話です。なろう系やラノベの暗黙の了解として作者は作品世界を創造した全能の神扱いなので、作品の中で作者が前面に出てきて説明するときの作者は実は「中の人」と区別された一種の神としてキャラクター化された存在なんですよ。見方を変えると、なろう系やラノベにおける作者と読者の関係は、言い方悪いかもしれませんけど、紙芝居のおじさんと紙芝居見に来たちびっこたちの関係に近いとも言えるし、そこで説明的に紙芝居を語るおじさん、「作者」として語る作者は、吟遊詩人が自らを演じて聴衆に語るスタイルへの回帰とも言える。つまりなろう系やラノベが説明的に語ってるのは「作品世界の創造」を再現・模倣してるといえるわけです。

それに、こういうスタイルは別になろう系やラノベで発明されたもんじゃなくって、日本の大ベストセラー作家もやっていて、俺個人としてはこっちのほうが罪深いんじゃねえかと思うくらいです。一例をあげると、司馬遼太郎。

ほら、司馬遼太郎の歴史小説って、すげえ頻繁に作者にして歴史の大家であらせられる司馬遼太郎先生様がいかにも史実を説明してやりますよみたいな顔して背景事情とかについて講釈を垂れてそれがストーリー部分とシームレスに繋がってるように思わせるスタイルで、読者も司馬遼太郎先生様が登場するとありがたがって説明を聞くみたいな構図で、結果として「司馬史観」という言葉まで大手マスコミが平然と使って司馬遼太郎先生様を持ち上げて、司馬遼太郎先生様が小説にされた内容は何でもかんでも史実だと思い込む読者が続出するっていうもうクソどうしようもない状況で、クソみたいな上司が「お前も司馬遼太郎を読んで勉強しろ」みたいなことを言ってくるから完全にムカつくじゃないですか。

さっき「作者の存在を語り手の背後に隠す書き方ってのが意識的に実践されるようになったのは、かなり現代になってから」って言いましたけど、近代小説の文豪みたいなやつら、デュマ・ペールとかユーゴーとかも作者が最初に背景とかについて一席ぶってからお話のはじまりはじまりーってやったり解説入れたりするスタイル使ってますけど、そういう文豪の奴らはちゃんとこれはフィクションですって断ってるから良いんであって、司馬遼太郎が歴史の大家ですみたいな顔したままで「司馬遼太郎先生様が小説にされた内容は何でもかんでも史実」みたいな風潮や誤解を正そうとしないのは端的に言って不誠実極まると思います。誠実な作者なら、自分で「いや司馬史観なんて言葉をマスコミが使うけど、俺が書いたのはあくまでフィクションだからね」ってちゃんと断るんじゃないですか? 異世界を舞台に司馬遼太郎スタイルで語るなろう系やラノベのほうがまだましです。

こういうふうに、なろう系やラノベも司馬遼太郎も、こういうナラティブの構造を成り立たせているのは、要するに作者と読者の馴れ合い関係なんですよ。だから正直言うと、なろう系やラノベが好きか好きじゃないかで言えば、俺個人としてはそういうナラティブの構造で成り立つフィクションは俺の趣味に照らして全然スタイリッシュじゃないので司馬遼太郎と同じくらい全然好まないんですが、俺が言いたいのは、俺は他のやつらみたいに好まないからって理由で軽率になろう系やラノベをディスることはしないし、なろう系やラノベをディスるんならちゃんと司馬遼太郎もディスれってことです。

何の話だったっけ。

そうでした。説明をフィクションで行うテクニックでした。俺はまあ今まで言った通り作者をキャラクター化してフィクションに登場させるのはスタイリッシュじゃないので好まないんですが、じゃあ他にどういう方法があるか。

作者と、作者とは別の存在である語り手がいて、作者のキャラクター化がだめなら、残る手は語り手に施す意識的な一種のキャラクター化です。つまり「地の文=サン」がここに誕生するわけです。

このツイートは、「アイサツを返した」に続く残りの文章は全部、記述は表面上は説明なんですが、まず注目すべきは、「 」の発言やダークニンジャの動作に言及する描写のレイヤーに加え、挨拶を「アイサツ」と表現することによるある種のメタフィクショナルなレイヤーへの言及、そして説明のレイヤー、さらには説明のはずなのに「イクサ」「古事記」という、本来は普通の日本語である単語を謎ワードに変化させて「アイサツ」にさらに重ねて言及するレイヤーっていうふうに、シームレスかつ自由自在に言及対象のレイヤーが変化しているってことです。

その上で、総体としては、文章の構造も言葉遣いも装飾が削ぎ落されてシンプルなのに、「ニンジャ」が「イクサ」をするのに「古事記」に書かれている「絶対の礼儀」に従って「アイサツ」をするというトンチキ極まりない説明、宿敵同士の対決というストーリーの文脈から乖離しまくった単語の用法から生まれるギャップにより読者がどうしても笑ってしまうという記述を地の文で平然と行うということで、メタフィクショナルな語り手の姿は依然見えないまま、こんどは地の文がキャラクター化され、説明的であっても同時に「説明になってねえ!」と読者が突っ込まざるを得ない、地の文の声で語る再現・模倣が成立する。ニンジャスレイヤーはこういう手法を通じ、読者との馴れ合い抜きで巧妙に説明を行いつつ、馴れ合いどころか逆に読者を問答無用で殴りつけてフィクションに引き込むわけです。

地の文のキャラクター化の話が出てきたのでついでに。

「どの駅で降りる、ニンジャスレイヤー!」みたいに、あるいは「ゴウランガ!」という合いの手を入れたりして語るのは、「聴衆からいったん離れたふりを装い、ある人なり物なり、想像上の対象に向かって、直接に呼びかけること」を意味する「アポストロフィック」な語りという方法で、ディケンズやトマス・カーライルって人とかが使っているそうです。ほんとかどうかは知りません。ナボコフの受け売りなんで。俺は責任持てないですが、多分そうなのでしょう。まあそれはそれとして、この「どの駅で降りる、ニンジャスレイヤー!」は、地の文が読者のことをほったらかしにしてニンジャスレイヤーを心配し応援する呼びかけであると同時に、地の文とは反対にニンジャスレイヤーを狙って監視するミニットマンの心の声でもあるっていうふうに、同時に二つのレイヤーに言及してる上に、「『どの駅で降りる』ってそんなに叫ぶ必要ある?w」という読者のツッコミどころを作ってるってのも巧妙です。「走れ! ニンジャスレイヤー! 走れ!」と地の文が叫んだりするのが同時に焦燥するニンジャスレイヤーの心理への間接的な言及になっている、という定番演出はボンモーお気に入りの手法です。その上で、ニンジャスレイヤーがどの駅で降りるのかが焦点となるサスペンスシークエンスであるというストーリーに直接言及して説明をするみたいなことが回避されているわけです。

この語りをもうちょい応用すると、地の文でそのまま、登場人物の意識をモノローグとはちょっと違った形で語れるわけです。


ついでに、「これはダメな説明」の例も挙げましょうか。次に引用するツイートは、それ自体は何の問題もないですが、そこにどういう文章を付け加えてしまうと、それが説明になってしまって駄目になるのかという一例です。

このツイートもストーリーの文脈と描写が見事に乖離することで読者をぶん回して笑わせる名文です。ニンジャスレイヤーと、よりによってあのヤクザ天狗が初めて本格的に対面し言葉を交わすシークエンス。しかも温泉に浸かって。入浴しながらニンジャスレイヤーと天狗面の狂人が面と向かって睨み合っているという絵面としてはシュール極まりないシーンが展開しているのに、地の文はまじめくさって「復讐者の目」「底なしの狂気の暗黒」「バイオマムシが鎌首をもたげてシュッと鳴いた後、怯えたように闇に消えていった」と、これみよがしに緊迫感を演出しようとして見せるから読者はそのシュールさに笑っちゃうわけです。

では、この名文をどう改変したら、説明のために台無しになってしまうか。

両者の肩から下は幻想的な白い湯に包まれている。間合いを保ったまま、二者は睨み合った。それはとてもシュールな光景であった。

こういうのですね。もう全然ダメです。直接言及によるただ単にダメなだけの文章のせいで面白いはずの絵面すら台無し。太字にしてある説明的文章こそフィクションをダメにつまんなくするんです。けど、ウェブ小説なんてもう99パーセントこんな文章を平然と書いててそれを悪いとも思ってないどころか、「それはとてもシュールな光景であった」っていう文章にさらに言葉を色々盛って装飾すればいい文章になると思い込んでるやつばっかりで、俺は正直そういう文章に遭遇した時点で読むの止めます。

クソひどくて救いようがないことに、こういうのウェブ小説だけじゃなくって日本だと映画ですらあたりまえにこういう語り方して観客白けさせる駄作を連発してるんですよ。ド素人かよ。有名な逸話ーーとあるゴジラ映画がロシアで上映された際、登場人物が「どうして日本ばっかりゴジラに襲われるんだ!」と述べて苦悩するシーンで観客は爆笑したーー日本映画のダメっぷりが極まりすぎてロシア人が観たらナチュラルにアネクドート扱いされちまうんですよ。ここまで制作者のスキルを落としてるのは誰なんだ? ここまで来たら文字どおりそのまんまのタルサ・ドゥームが映画配給してても俺はもう驚かねえよ。ちなみに俺は、日本の映画評論家が、駄作を出し続ける日本の映画製作のシステムやナレーションとテロップでネタバレしまくる日本限定予告編に対してきちんと集団で抗議行動してないから、映画評論家のやつらはとっくに信用してません。映画業界のやつらは、要するに観客を見下してなめくさってるんですよ。それに対してちゃんと怒るのが映画評論家の職業上の義務じゃないですか?

※閲覧注意レベルのクソ予告編


どれもこれもひどくていたたまれない要素ばっかりで、出てくる奴出てくる奴全員が演技しているようにしか見えない時点で普通に考えたら客からカネ取るのが失礼なレベルの駄作だとはっきりわかりますが、特に主人公夫婦の夫が「妻のたましいは、黄泉の国に連れ去られてしまったんだぞ! どうしてくれるー!」って、わざわざ自分が怒ってる理由を説明する科白を叫んで怒るって、ほんとに極め付きに無能どころか低能すぎて日本映画のどこがどうダメなのかを的確に教えてくれるレベルに達していますが、だからといって俺が感謝するかって言ったらそんなわけないだろ! ふざけんな! こんな予告編を映画館で見せられるだけで超ストレスで苦痛なんだよ!


すいません。話を戻します。とにかく、こういうのがダメな説明だときちんと理解してください。それに、これが理解出来ているんなら、またこれも応用できるわけです。

どこがどうワビサビなのか微妙に理解できない描写に「全体的にたいへんワビサビを感じさせる夜だった。」という断言してるわりにぼんやりし過ぎのどう見ても不要な直接的説明を敢えて乗せることで、読者が地の文に突っ込まざるを得なくなるアトモスフィアに向かって急ハンドル切ってるわけです。

こういうふうに、作者から独立したメタフィクショナルな存在としての語り手ってやつを念頭に入れると、言及対象のレイヤーを意図的に変化させてコントロールするみたいな方法を使って、色んな要素を色んな声で再現・模倣して多声的に、ポリフォニックに語れるわけで、このへんを意識的にやってるのが「ニンジャスレイヤー」のいかにも英米文学っぽい文体を構成しているわけです。

「ニンジャスレイヤー」の文体はさらに驚くべき超絶技巧を用いてるんですけど、それはちょっと後回しにして、「作者から独立したメタフィクショナルな存在としての語り手」をフィクション以外にぶち込んだらどうなるかを見てみましょう。



逆噴射文体の本質


逆噴射聡一郎先生の無料公開記事はこちら


逆噴射先生が新たな記事を公開するたび、読者である逆噴射ヘッズは役に立つ情報が詰まった記事のはずなのに読んでは爆笑し、そして逆噴射先生にツッコミを入れるのがお馴染みの光景です。まるで、逆噴射ヘッズの誰一人として先生の実在を疑っていないかのごとく。

けど、読者は薄々分かってるはずです。「逆噴射聡一郎」というペンネームを使用して執筆する「中の人」は実在しても、逆噴射聡一郎を名乗ってメキシコ妄想ダダ洩れで語ってるあの逆噴射先生は実在しないわけです。にもかかわらず多くのヘッズが中の人ではなく逆噴射先生を対象にツッコミを入れてるんです。

これは何が起きているのでしょうか。

逆噴射先生が登場する作品は、一貫して、逆噴射先生が(必ずしも常に読者を指すとは限らない)「おまえ」に対して問いかけ、語り掛ける、しかし実際には逆噴射先生と「おまえ」との会話の中から逆噴射先生の発言だけを抜き出して構成する、一見すると独白劇なのですが実際には一種の会話劇(会話のはずなのに「おまえ」には発言の機会がほとんど与えられないし「おまえ」が逆噴射先生に何を言おうとムダという極端なシチュエーションにおける会話劇)という体裁をとっています。

これは明らかにフィクションの手法であり、読者は、メタフィクショナルな「語り手」が逆噴射先生の声で再現・模倣する逆噴射劇場を目撃することになり、そして「中の人」が読者の前に姿を現すことはありません。

しかし逆噴射先生はこれをフィクションだと認めることはなく、メキシコ妄想をダダ洩れさせる発言等を通じてメタフィクショナルなレイヤーへの言及を行い、逆噴射劇場はフィクションではなくレビューやコラムだと言い張るのです。

ちなみに、メタフィクショナルなレイヤーへの言及ってのは、よくある例だと、怪談話の最初に「これは友達から聞いた話なんですが・・・」とかから始めたり、ワトソン博士がまとめた事件簿をホームズが読んでコメントしたりとかのあれです。逆噴射先生の作品では、たとえば逆噴射先生の作品のしょっぱなで定番の「おれは毎日すごい量のテキストをかいているが、だれにも読ませるつもりはない」なんかが一種のメタフィクショナルなレイヤーへの言及を兼ねていたりするわけです。

“よくきたな、おれは逆噴射聡一郎だ。お前はコナンを知っているか? 知っているだと? どうせそれは江戸川や未来少年だろう。しかもおまえは、おれに聞かれてからスマッホンをONにし、Siriに聞いてトップに出てきたやつをざっと見わたして、さも知っているようなふりをしてるだけだろう。おまえの行動はみえみえで、ここがもしメキシコだったら即座にダニートレホにナイフでころされ、犬にも慰めてもらえない死をむかいていたはずだ。” 

この手法を通じて何が可能になるか。逆噴射先生の作品は、レビューであるにもかかわらずレビューの対象について直接的な言及を一切避けるというわけの分からないことを実現しつつ、フィクショナルな逆噴射劇場に訪れた読者を楽しませることに成功しているのです。

たとえば、「コナン・ザ・グレートのあらすじ」という項目のはずなのに

もしこれがおまえだったら、マンションを与えられ、ローンとかを払って、死ぬ。だがコナンは檻を抜け出したのだ。

という微妙に意味が分からないようで意外と良く分かるけどやっぱり意味が分からないテキストが綴られるわけですが、これは、あらすじに直接的に言及して説明するのではなくって、フィクション的にキャラが立てられた逆噴射先生の認識のフィルターを通過した、逆噴射先生の声で再現・模倣された、逆噴射先生の解釈や体験として語られているんです。そして、あらすじと言いながら、「もしこれがおまえだったら、マンションを与えられ、ローンとかを払って、死ぬ。」という極端かつなんでそんな言及が必要なのか今一つ分からない独自見解のレイヤーと「だがコナンは檻を抜け出したのだ。」の一種の劇中劇としてコナン・ザ・グレートに言及するレイヤーといった具合に、言及するレイヤーを自由自在に操っているわけです。

こういう手法をとっているので、逆噴射先生が作品のレビューをするのかと思ったら逆噴射先生がやたらとコロナやテキーラを飲みまくったりする体験談として語られる完全にフィクションのレイヤーに言及したとしても、一貫した逆噴射先生の声による再現・模倣であるため、読者は違和感を覚えずに楽しく読めるんです。

最近は逆噴射先生の文体を真似るのもちょくちょく流行ってますけど、その作品の大半は、逆噴射先生の作品とはテイストが全然違います。それは、本家逆噴射とは異なり、キャラが立てられたクローン逆噴射の声による再現・模倣が行われてなくて、逆噴射先生の口調を表面的に物まねする作者が説明的に語っちゃってるからです。

小説であろうと逆噴射先生の作品のようなフィクションの仕掛けを利用したレビュー等であろうと、読者に読ませるキモは、メタフィクショナルな語り手が再現・模倣し、意図的に言及するレイヤーをコントロールするっていう手法で、作者や中の人を読者から隠すことにあるんです。

そういう発想で書けばいいんだって分かっちゃえば、忍殺のテキストから、表面的な言葉遣いを超えた手法のエッセンスを抽出することも可能になるんですよ。


忍殺に見るポリフォニックな語り



先日この部分が連載されたときのヘッズの反応面白かったですね。悪役だったザルニーツァに対して一斉に手のひらを返してドゲザしながら感謝するヘッズが続出ですよ。でもこれって、普通に考えたら異常とも言える反応です。そもそも、これただの文字で書かれたテキストですよ。小説で女性キャラが入浴するだけで普通そんなにエキサイトします? それなのにヘッズの反応ときたら、まるでモニタにザルニーツァの入浴シークエンスが映像で流れてきたのを目撃したかのようです。

特に引用した3ツイート目。一つのツイートの中でシーンが回想に切り替わっているのに唐突さがなく読者はすんなり読める。これも他の小説ではおよそありえない記述の仕方です。

ここで何が起こっているのか。ここにこそ俺が忍殺のテキストにナチュラルに超絶技巧がつぎ込まれていると考える理由が詰まっています。もう一度見てみましょう。

(ニンジャスレイヤーだと?)っていう「 」じゃない表記のダイアローグに注目してください。何が起こっているかというと、スクリーンの映像は無言のザルニーツァを映したまま、画面は切り替わらないまま、次の回想シーンで行われる会話のほうが画面の切り替わりより先に聞こえてくるっている映画的な演出をわざわざテキストでやってるんです。

この映像的な演出をテキストに置きかえて描写するっていう手法が徹底されているのが忍殺の常識はずれな方法論の根本です。それに比べればトンチキワードの使用など些細な特徴とすら言えます。

先ほどアリストテレス大先生の「筋を組み立てて、それを措辞・語法によって仕上げるさいには、その出来事をできるかぎり目に浮かべてみなければならない。」って言葉を引用したけど、ボンモーには出来事が見えているどころか、出来事を撮影して編集済みになったやつが上映されてるのが見えてるんですよ。それで、そのスクリーンに映っている要素をテキストに置きかえてる。小説執筆してるのに、わざわざ、このシーンを映像で語るならどんな演出で何を撮影するかってことを考えて、脳内映画を作ってから脳内映像をテキスト起こししてる。前代未聞の技法だと思います。

言い方を変えれば、忍殺のテキストは、物語として語られるレイヤーとそのシーンに使用されている映像的演出の技法っていうメタフィクショナルなレイヤーの双方に同時に言及し続けることで構成されていて、しかも読者は混乱せずにすんなり読めるわけですから、これはもうとんでもない超絶技巧と言っていいと思います。

そして、この技法がもたらす効果は絶大です。

このツイートだけで読者であるヘッズに明瞭な脳内イメージを想起させてエキサイトさせるのもさることながら、あたかもカメラワークやモンタージュのような技法を使うかのようにつねに場面の中で展開する動きを追いながら、作者が隠れた状態で巧妙に説明が行われます。「邪悪な企業鎧は彼女の持ち物ではない。戦闘データ、機体データのすべてが採取される。過冬は複数の暗黒メガコーポと繋がりを持つ。」っていうのは抜き出すと説明そのものなんですが、「イーサライト・アーマーが展開し、ザルニーツァを牢獄じみた装甲から解放した。」から「裸のままに彼女は整備室を横切り、オンセン・サウナに向かう。」に至る動きの中で注釈的に記述されることにより、説明のテキストが、あたかも映像の中で流れるナレーションのように感じられるんです。つまりここでも作者による説明はなく、一貫して語り手が誰かの声で再生・模倣しているんです。これも忍殺で行わてる技法の卓抜した点ですね。

そして、映像で語るとすればどんなカットで構成してどんな演出で撮るかってことに徹底してこだわることで、光と影の演出を効果的に見せたり、交錯する視線と視線が科白や説明よりも雄弁に物語る緊迫感なんかを表現してるんです。

18番のツイートの中だけでも、ゾーイ視点の主観カメラで離れた崖上にいるザルニーツァとシルバーキーを逆光で撮ったカット、次に首を掴まれ苦悶するシルバーキーをあおりのクローズアップで映すカット、切り返しのザルニーツァのクローズアップのカットと科白、ザルニーツァの声が続く中で再びシルバーキーのクローズアップ、その光景に驚愕の表情を見せるやや高い位置から見下ろすカメラでのゾーイのクローズアップ、ゾーイを背後やや低い位置から撮影する画面の中でゾーイが口を押えながら振り向き気味に岩陰に引っ込むほぼ全身ショットのカット、そして別角度からのカメラでゾーイが岩陰から顔を覗かせるカットっていうふうにカットの繋がりがある映画的なシーンが繰り広げられてるじゃないですか。いやーすごい。

こういうふうにもう映像の文法を文字に置きかえるんだって方法論を意識的に採用することで、従前の小説作品ではあり得なかった先鋭的かつポリフォニックな語りまで平然とやりつつ、ヘッズを大喜びさせることを可能にしてるんですよ。ちょっと前のやつですが、「キリングフィールド・サップーケイ」の超すごい出だしを引用しましょう。

・・・って感じで、「レインコート男」にスポットが当たり、このエピソードの中心となる人物が登場したことが読者に分かるんですけど、重要なのは、1から4のツイートの積み重ねを通じて、「……くだらねえ」っていう何気ない一言がこの男の心象風景を雄弁に、説明ぬきで雄弁に語っているってことです。

1から4にかけてのツイートは、相変わらずどうしようもなさ過ぎて逆に魅力的ですらあるネオサイタマのディストピアっぷりを丁寧なのか雑なのか分からない手法で描写しています。空に浮かぶ飛行船からはもうスカムの極みとしか言いようがない映画の宣伝が流れる様が妙に具体的に描写され、同時並行で、下界では描写を削ぎ落し過ぎて雑ですらある弱肉強食が描写されます。この同時並行が4つのツイートにわたって続くのですが、映画の宣伝の内容と下界の様子の描写は相互に無関係というほかない上、映画の宣伝も下界の様子もどっちもストーリーらしきものには全然言及していないのです。

ところが5ツイート目で「……くだらねえ」の一言を見た時、読者は無意識のうちに、それまでの4ツイートの光景も劇中で目撃したであろうこの男のこの一言は、それまで描写されたネオサイタマの光景を男がどう受け止めているかを暗示していると理解して、男の心象風景を読み取るんです。無意識のうちに。

こうして、人物の行動も科白も、挿入される劇中劇「ジーザスIV」も、どれをとっても何一つ直接的にストーリーには言及しないバラバラの要素でありながら、これらを同居させることで、要素と要素の間の空間の部分に一つの語られざるストーリーが浮き彫りになるわけです。

こういうポリフォニックな語りは、意識すればある程度テクニックとして習得できるものだと思います。映像で物語るかのように、スクリーンに映し出される被写体と、スピーカーから流れる科白や劇伴や効果音を描写することに徹すれば、自ずとテキストは描写に徹したものになり、説明的な不出来なテキストは排除されるはずです。

「そうはいっても一々脳内映画を撮ってからテキスト書くなんてやってられねえよ」とお考えのそこのあなた! そういうあなたのために、俺はわざわざ長文書いて効果的な学習教材を紹介しようとしてるんです。それこそ・・・嘘松です。

俺は最初から予告していたでしょ?

我々はそろそろ、真剣に嘘松について考えるべきではないか




嘘松乙(真顔)



聞いてwwww私私服で赤パーカー持ってるから普通に仕事で着てきてるんだけど今買い出し出かけた帰りの交差点向こう側に青パーカーの男がいてね。バッチリ目があったけどまぁ気のせい気のせいて普通に通り過ぎたら聞こえるくらいの声で「……兄貴」てwwwwww言われwwwwんっふwwwwwww


読んだ記憶がある人も多いのでは?

俺が知ってる限りでは、このツイート(ただしオリジナルでこれをツイートした人はアカウント消しちゃったみたいでツイートを直接引用できませんでした)が、今現在「嘘松」って呼ばれるようになったやつのはしりの一つだと思います。例のパーカーがトレードマークの六つ子のアニメ第一期が腐女子コンテンツとして超うけてたころにバズったやつですね。もう2年前か。

さて、それじゃあ、何でその後「嘘松」みたいな呼称が生まれるほどに、こういったツイートが嘘だ嘘だとヒステリックに叩かれるようになったのでしょうか。仮にこのツイートがフィクションだとして、そんなに叩く必要あります? それに、そもそも何でこのツイートを嘘だと思っちゃうんでしょうか。内容が出来過ぎだから?

まあある意味、このツイートは出来過ぎというか、これをもしフィクションと捉えるなら、出来過ぎどころか書いた人は紛れもない天才ですよ。

このツイートで伝えるストーリーは、説明するならこんな感じです。

例の腐女子コンテンツの大ファンであるツイート主が例のやつを連想させる服装で外出中に、偶然、同種の服装の男性が通りの向こうでこちら側に渡ろうと信号待ちをしているのに気づいた。その男性もツイート主の服装に気付いたらしくツイート主と男性の目が合ったことから、ツイート主は、もしやあの男性も例のコンテンツのファンなのかと考えたが、まさか男性が例のコンテンツのファンということはないだろうと考えなおした。ところが、信号が青になり横断歩道でその男性とすれ違う際、男性がツイート主に「兄貴」と囁いたことからツイート主は驚くとともに大変に萌える思いがした。

さて、この説明読んで、面白いと思います? ぜんぜん面白くないですよね。ストーリーを直接説明するかそれとも構成要素を巧みに描写するかでさっきのツイートとはもう雲泥の差なんですよ。

んで、さっきのツイートだったら何で面白いのかというと、まさに、直接的説明を避けた巧みな描写に徹しているからなんです。

舞台の状況を明らかにするセンテンスは、「聞いてwwww私私服で赤パーカー持ってるから普通に仕事で着てきてるんだけど今買い出し出かけた帰りの交差点向こう側に青パーカーの男がいてね。」というもので、これだけで充分に舞台設定と登場人物を決め、その上ただツイート主が赤パーカーを着ていたという描写だけで「例の腐女子コンテンツの大ファンであるツイート主が例のやつを連想させる服装で外出」したことを明らかにするとともに、男性が青パーカーを着ていたという描写だけで、「もしやあの男性も例のコンテンツのファンなのか」とほのめかす。

そして「バッチリ目があったけどまぁ気のせい気のせいて普通に通り過ぎたら」という描写だけで、「ツイート主と男性の目が合ったことから、ツイート主は、もしやあの男性も例のコンテンツのファンなのかと考えたが、まさか男性が例のコンテンツのファンということはないだろうと考えなおした。」ことを明らかにします。

さあ、クライマックスの瞬間、「聞こえるくらいの声で「……兄貴」てwwwwww言われwwww」だけで決定的瞬間、クライマックスの瞬間を描写し、同時にツイート主の驚きを伝え、「んっふwwwwwww」を追加するだけで驚きがエモーショナルな喜びに増幅されたことを示す。

どうですかこれ。このツイートの中には一つたりとも具体的にツイート主の思考や心情を具体的に説明するセンテンスはないのに、例のコンテンツに関する最小限の知識があるだけの人にもツイート主の心の動きが的確に伝わってきます。同時に、この一つのツイートの中で、信号待ちでの出会いから信号が青になり二人がすれ違うその決定的な瞬間が訪れるという動きと時間の流れがあります。

そしてこれが決定的ですが、クライマックスの瞬間に、アリストテレス大先生のいう逆転と認知が同時に起こってるんですよ。単に「兄貴」ではなく「……兄貴」っていう表現でクライマックスの瞬間のその直前に沈黙を入れるのもすごい。

こういう感じでたった1ツイートでカタルシスまでもってくんです。いやこれ、最初からフィクションとして書こうと思って書けますかね? 意識的にテクニックをつぎ込んで、ここまでの究極のショートショートみたいなフィクションとして書けるならもうさっさとプロデビューしろよって思います。

けど俺は、このツイート主は、おそらく実体験をツイートしたのだと考えています。あるいは、ツイート主が実体験したと錯覚するほどの強烈に鮮明な妄想が降りてきちゃったかしたのかもしれません。とにかく、このツイート主は、実体験にしろ妄想にしろクライマックスに訪れた鮮やかな逆転と認知、そしてそこからもたらされたカタルシスを体験しちゃったんです。

それでこのツイート主は、この強烈な体験をどうしても誰かに伝えたいと思って(「聞いてwwww」)、なんとか1ツイートだけで伝えるために苦心して、説明を削ってほのめかしを使って・・・その結果、図らずも、極めて優れたフィクションに類似したツイートが出来上がったんです。

そして、こういう、ストーリーについての直接的な言及や説明を完全に排除した優れたフィクションに備わるテキストの効果と同じように、このツイートを読んだ読者には、ツイート主の体験をまさに追体験する効果がもたらされたわけですよ。

で、こっからが不幸なんですが、読者は、まさに追体験しちゃったんで、最初はこのツイートを実話だと思っちゃう。んでそれからフィクションではないかと疑う。なぜか。直接的な言及や説明を避けることに徹して巧みに再現・模倣によって語られちゃった結果、予期せぬ効果として、ツイート主があたかも優れたフィクションの作者のように、メタフィクショナルな存在としての語り手の後ろに隠れちゃったように見えるんですよ。読者はこのフィクションの構造を無意識に感じちゃうから、嘘だと疑い始めるんです。

それで、中には「本当の話だと信じてたのにうそだったなんて! ゆるせない!」みたいな早合点にもとづくヒステリック反応をするやつがでてきちゃうんです。

なんだかすごい話ですよね。ツイッターの文字数制限がツイート主に可能な限りの修辞法の使用を強制するために、極まった実話はフィクションと区別できなくなっちゃう。

だけどだからこそ、優れた「嘘松」からはすげえ学ぶことが多いんです。最近は意図的に「#嘘松」のタグを付けて嘘松の出来を競ってるやつもいますけど、どれもこれも全然フィクションとして巧みじゃないから全然読者が体験するような出来にはなっていません。この事実からも、実体験のごとき優れた嘘松から学ぶものはでかいと言えるでしょう。



体験しようぜ


最後にもう一度、重要ポイントを押さえておきましょう。

さっきから話題にしてるバズった「嘘松」は、フィクションとしてのテクニックとして優れているというのもさることながら、何より作者がまさに「体験」を伝えたいって考えて、結果ああいうフィクションと捉えるならめちゃくちゃ優れたものといえる、ショートショート読書体験をもたらすものになったんです。

そして、書いている側、書こうとする側に立ってると見落としがちで忘れがちだけど、このことを忘れちゃだめです。読者はあなたの作品を読みたいんじゃないです。あなたの作品を通じて物語を体験したいんですよ。

だからそういった意味でも、なろう系やラノベじゃなくて忍殺みたいな強い体験をもたらすパルプを書くなら、少なくともアリストテレス大先生の言う

筋を組み立てて、それを措辞・語法によって仕上げるさいには、その出来事をできるかぎり目に浮かべてみなければならない。じじつ、このようにして、実際の出来事に立ち会っているかのようにすべてをできるだけはっきりと見るなら、適切なことを発見できるであろうし、また矛盾したことの見落としもきわめて少なくなるであろう。

は最低限必ず実践すべきです。この「適切なこと」とは、あなたが物語を体験したときに、その体験を読者に届けるために必要な、あなたが目の当たりにしたストーリー構成要素とかのことです。まず書こうとするあなたが物語を体験しないままで、読者に一体どういう体験をとどけるつもりですか? 

さっき指摘した通り、ボンモーは恐るべきことに脳内映画を作ってそれを鑑賞するっていう映画体験をして、その体験した映画をテキストに置きかえています。逆噴射聡一郎の「中の人」はフィクションの技法を巧みに使って姿を隠しつつ、読者をメキシコという名の逆噴射劇場に導きます。

だから、あなたも、ちゃんとあなたが体験した物語を俺にも体験させてくれるように書いてください。俺が自分で書くのは正直めんどくさくてめんどくさくて仕方ないので。俺は可能な限り読者の立場で楽して楽しみたいんです。

いや、ほんとうにお願いだから、優れた嘘松みたいに直接的な言及や説明を排除してあなたの物語の体験をつたえてくれるのを、俺は一読者として心待ちにしてます。

それじゃ、またねー


作者の存在が目ざわりに露出していない大小説は、いくつか現にある。しかし、作者が理想的に姿を見せていないそのような作品においてさえ、作者の影はその小説のくまぐままでも広くゆきわたっているのであり、彼の不在そのものが一種燦然とした存在となりおおせているのだ。--ウラジーミル・ナボコフ