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ヤクザヘヴン 【1/10】



プロローグ


 篝火が焚かれた城壁の上に、逃亡者じみたクロークをまとった男が追い詰められた。城壁の向こうは黒々とした海である。はるか下から、城壁に打ち寄せる波の音が微かに聞こえた。

 やがて、がちゃりがちゃりと鎧を鳴らす、城壁の上へと階段を登る足音が聞こえて来た。胸壁を背に男は無念の表情を浮かべつつも、階段の出口を睨んだ。そこから余裕の足取りで鎧の主が姿を現した。

 篝火の灯りを受けて、白銀の鎧がきらめいた。そして篝火が明らかにしたのは、金髪をツンツンに逆立てて、やたらにでかい宝玉がはめ込まれたサークレットを被った、まだ少年といっていいほどの、甘さが抜けぬ顔立ち。緋色で十字の紋章が染め抜かれた純白のマントを翻し、若者は男に向き直って大音声で呼ばわった。

「クリストフォロス! 不遜にも聖堂騎士団長を名乗って王を誑かす、君側の奸め! おまえの悪だくみもここまでだ!」

 さらに階段を駆け上がって来る複数の足音があった。その顔ぶれを予想して、男は軽く顔をしかめた。やがて、あたかもセパレート型の水着のごとき理不尽な形状の金属鎧をまとって腹筋を晒す女と、光沢過剰な白い布地で出来た、その裾に左右の腰の上まで無駄に長くスリットが入ったローブを着た女が現れた。どちらの顔も若く美しい。息を切らせながら、鎧の女が叫んだ。

「勇者様! 危険です! わたしたちにもお手伝いさせてください!」

 若者が男をほったらかしにして振り返り、叫び返した。

「下がっていろジャンヌ! この男とは、ぼくが自らの手で決着をつけないといけないんだ!」

 ローブの女が、ねじくれた木で出来た長い杖を両手で抱えて、身悶えしながら懇願した。

「そんなの嫌です勇者様! 勇者様の身に何かあったらと思うだけで、わたしは心配で心配で……!」

 若者がキレ気味に怒鳴った。

「何かあったらとはなんだカタリナ! ぼくがケガをしたら治すのがおまえの役目だろ! 働く気がないのか!? そんなこと言うなら、ぼくのパーティーから外すぞ!」

 その様子を見ていた男は、こめかみに指先を当て、小さく呻いた。思い出したかのように、若者が再び男に向き直った。
「クリストフォロス! 堕落したとはいえおまえも戦士の端くれならば、堂々と剣を取れ! そして、この」

 そこで若者は言葉を切って、右肩の後ろから突き出た剣の柄を握った。そして、身の丈ほどもある、鉄塊のごとき巨大な大剣を背中から引き抜いた。うまく抜くのに失敗し、マントの肩のあたりが少し引き裂かれた。若者は、その大剣を男に向けて苦もなく構え、決め顔になった。

「滅龍の聖剣アスカロンの前に、倒れるがいい! 我こそは神の勇者、ゲオルギウスだ!」

 とうとう勇者を自称した若者に、男は一つため息をついてから訊ねた。

「貴様には私が帯剣しているように見えるのか?」

 言われて勇者は目線を落した。そして怒り狂って剣先で男の衣服を指し示し、叫んだ。

「何で剣を持ってないんだよ! まさか逃げる気か卑怯者! だいたいその堕落した服はなんだ!」

 男がクロークの下に着ているのは、真っ赤なカープのレプリカユニフォームと、ダメージジーンズだった。勇者は男を呪わんばかりに睨みつけながら言った。

「逃げようとしたって無駄だ! おまえには見えないだろうが、バルバラのクロスボウがお前を狙ってるからな! ぼくはおまえと違って卑怯じゃないから、ちゃんと教えてやったんだぞ!」

 男は耳をすませた。勇者の言葉に嘘はないようだ。勇者は再び決め顔になった。

「戦う気がないなら、おとなしく降参しろ!」

 歯を食いしばる男の目線が、打開策を探すかのように左右に動いた。業腹だが、逃げ場がないことは否定できない。

 その時、頼んでもいない打開策が男に飛来した。闇の中から飛び来ったのは、大型のクロスボウのボルトだ。右肩に極太の矢を喰らった男は、被弾の衝撃にもんどりうった。そして城壁の縁の、凹凸形状の胸壁の隙間から、城壁の向こうに広がるの闇の中へと転落した。しばしの間を置いて、ささやかな水音が聞こえた。

 呆気にとられて男の転落を見守っていた勇者が、我に返って背後頭上にヒステリックに喚いた。

「バルバラ! なんで撃った!?」

 ほとんど尻を露出せんばかりに丈が短くぴちぴちの、緑のフード付きチュニックを身に着けた女が、尖塔の屋根の上から勇者の目の前に飛び降りた。女はすぐさま勇者の前で片膝をつき、やはり若く美しいその顔で、勇者を振り仰いだ。

「お許しください勇者様! ついうっかりして……」

「うっかりするな!」

 女は俯いて涙をこらえた。鎧の女とローブの女は、勇者から見えないその背後で、そろって冷酷な笑みを浮かべた。勇者はさりげなく、片膝をついた女のチュニックの裾から伸びる素足の両太ももと、裾の中の闇を凝視した。勇者は宣言した。

「けど今回だけは許す!」

 再び上を見上げたチュニックの女の顔が輝いた。

「勇者様……!」

「今回だけだからな! 今度また何かうっかりしてみろ、絶対パーティーから外すぞ!」

「はい! 二度とうっかりしません!」

 鎧の女とローブの女はあからさまに肩を落とした。勇者は胸壁の向こうを見た。女たちも勇者の背後からそれに倣った。

 勇者は、怒りのまなざしを眼下の海に向けた。闇に沈む壇ノ浦へと。




第一章 平和とヤクザの街


 7月も半ばを過ぎたが、広島市中区大手町にあるビジネス街の裏通りでは、アスファルトに降り注ぐ苛烈な日差しをものともせず、昼食の汁なし担々麺を求める地元のサラリーマンやOLらが汁なし担々麺専門店の店先の路上に行列を成している。

 茹でた中華麺に、各店が工夫をこらす少量のタレ、肉そぼろ、刻んだ青ネギと唐辛子やラー油に加え、花椒と呼ばれる、ほとんど日本人には馴染みがない四川料理のスパイスを振りかけたこの激辛の混ぜ麺は、何が地元民の琴線に触れたのかは全く謎のまま、この数年来、広島市で局所的な大流行を続けている。最近では、広島の新たなB級グルメとして、徐々に広島以外でもその知名度を増しているところだ。

 地味な引き戸を開けて店内に入ったところには券売機、その奥の壁際に沿って伸びるカウンターにも二つだけの四人掛けテーブルにも、客が鈴なりとなって黙々と丼の中の麺と具材をかき混ぜつつ、平然と激辛麺を啜っている。カウンター席の客の一人、三十前後の年恰好のクールビズ姿の男は店内の客で唯一、食べかけの丼を前にして大汗をかきつつ箸を止めたままである。出張か何かで広島を訪れて、興味本位で迂闊に汁なし担々麺に手を出してしまった余所者だろう。

 余所者の若造の左隣に席をとっていた中年の男は、広島市民らしく粛々と締めのライスを食べ終えて席を立ち、ハンカチで額の汗を押さえつつ店を出た。その方向にふと目をやった若造は、入れ替わりに新たに店内に入ってきた客を見て、凍り付いた。その客は、黒髪を奇妙なロングボブにした、真っ赤なカープのレプリカユニフォームを着てサングラスをかけた若い女だった。しかも、レザーパンツの左右の腰にヒップホルスターを装着し、当然のように拳銃を挿している。黒いつや消し塗装が施されたスライド後部と木製グリップをホルスターから覗かせる二挺の拳銃は、到底、日本の警察か何かが使う銃器には見えない。

 その女は、メニューを選ぶ素振りを全く見せずに、素早く券売機のボタンを押した。フロア係のバイトらしき娘が微笑みとともに女に声をかけた。

「あらセッちゃん、いらっしゃい。いつもので良いんね?」

「うん、お願い」セッちゃんと呼ばれた女は答えて、券売機から出てきた二枚の食券を店員に渡した。店員は奥の厨房に向かって注文を伝えた。

「オーダー入ります! 『デス』大盛り温玉抜き、ライス大盛り!」

 若造が唖然として女に目を釘付けにされる中、女は若造の隣が空席になったいるの見つけ、その席に近づいてくる。店員はおろか、店内の客の誰一人として女の二丁拳銃を見咎めようとしない。店員が若造の左の席の食器を片付けカウンターを拭いた。女は冷水器からコップに水を汲み、若造のすぐ左隣で低い木製のスツールに腰掛けた。若造の視線があちこち泳いだ。うっかり女の胸部を注視してしまう。だが、鮮やかな赤のレプリカユニフォームの下から盛り上がる女の胸部からは暴力性しか感じられない。女はサングラスを外してユニフォームの首元にひっかけると、若造の表情を面白がるかのようにニヤリと笑みを浮かべ、若造に話しかけた。

「なんね。ヤクザが珍しいん?」

「ええ? ええ、まあ……」

 それだけを何とか答えたきり絶句して目を見開いたまま、若造の喉仏が大きく上下した。隣の女は間違いなく、インターネットで何度かその姿を見たことがある、有名なヤクザだ。だが、ネットで見るのと現実に二丁拳銃を身に帯びたヤクザの隣に座るのとでは訳が違う。若造はパニックに陥りかけた。そして、盛んに目線を左右に往復させながら言葉を探した挙句、ようやく、女の腰のものを指さして、精一杯の愛想笑いとともに震える声を絞り出した。

「それ、ブローニングハイパワーですか?」

 女が軽い驚きの表情を浮かべた。

「端っこ見ただけで分かるん? お兄さん詳しいねぇ! オタク?」

 若造の声が僅かにリラックスした。

「いや別にオタクってわけじゃないですけど……ベレッタとかグロックじゃなくてブローニングハイパワーなんですね」

「あっちじゃ結構前からこれ使うんをやめて、スイスのシグなんたらいう洒落たんを使いよるけどね、ウチはこれが昔から手に馴染んどるけえ、別なガンにはよう変えれんのよ」

 銃でもチャカでもなく「ガン」ときた。若造は「あっち」とはどこを指すのかについて強いて考えないようにしながら、当たり障りのない会話に努めた。

「渋いですよね。僕も好きで、一挺持ってるんです」

 突如として女の顔から笑みが消えた。次の瞬間、女の左手が若造の頭をつかんで引き寄せ、目の前のカウンターに若造の顔を押し付けた。続けて女は右の拳銃を抜き、銃口を若造の延髄に突き付けた。その物音に気付いた客が一斉に若造に目を向けたが、皆すぐに関心を無くして各々の食事を続行した。女が冷酷な声で訊いた。

「あんた、一体誰なんね」

 女が拳銃を突き付ける中、若造は五秒ほど経ってようやく自分の失言に気付いた。若造は必死で喚いた。

「違います誤解です僕は敵じゃないです! ただのリーマンです! 持ってるって言ったのは、サバゲーに使うやつだし、それに今持ってるんじゃなくて、家に置いてるんです!」
「サバゲー?」

「サバイバルゲームです! あの、モデルガンとかでやる、遊びです!」

 女は小さく息を吐いて口をへの字にした。

「何ねぇもう、びっくりさせんでよ」そしてようやく銃をホルスターに戻し、若造を解放した。「それにお兄さん、やっぱりオタクじゃろ。サバケー言うんをするんは」

 若造はゆっくり姿勢を戻し、真っ赤に充血した目で恐る恐る女を見て、答えた。

「僕はオタクじゃ……いえ、オタクです」

 女は笑って、若造の左肩をポンポン叩いた。

「別にオタクじゃけえって、恥ずかしがることないんよ?」

 そこに先ほどの店員が注文の品を乗せた盆を持って現れ、女の前に担々麺の丼と、白飯が山盛りになった丼を並べた。注文を受けてからの提供が早いことが、汁なし担々麺専門店の回転率の良さを生み出している。

「お待たせしましたー。『デス』大盛りとライス大盛りです。ごゆっくりお召し上がりくださーい」

 若造は、今度は隣の「デス」を目の当たりにして絶句した。真っ赤なラー油の中に中華麺が浮かび、その上にふんだんに乗せられた刻み青ネギをほとんど覆い隠す勢いで、正気とは思えぬ量の香辛料が黒々と振りかけられている。だが女は割り箸を手にして、その全てを丹念に混ぜ始めた。そして、若造の表情に気付いて言った。

「これが一番美味しいんじゃけぇ、お兄さんも今度食べてみんさいや」

 若造が再び引き攣った表情で言葉を探し始めたその時、テーブル席のOLの一人が斜め上方向を指さして声を上げた。

「見て、岡田君じゃ。可愛いー」

 途端に店内が静まり返り、すべての客がOLの指さす方向に注目した。先のOLの向かいに座る、同僚らしき別のOLが身をひねって振り返り、言った。

「ほんまじゃ。まじ可愛いよね」

 皆が見つめる先にあるのは、壁掛けの液晶テレビだ。昼のニュース番組のローカルニュース枠で、この日市民球場で行われるカープのナイトゲームに先発登板予定の、前年のドラフト一位で入団した期待の即戦力ルーキーのミニインタビューを流し始めたところだった。客たちは誰もが箸を止めてインタビューを見守る。若造の隣の女も例外ではなく、固唾をのんでインタビューに聞き入っていた。ちなみに、ここ広島の地では、カープの選手は全員可愛いか、そうでなければイケメンということになっている。

 開幕以来新人ながら力投を続けるも勝ち星に恵まれず、6月も末になってようやくプロ初勝利を挙げたそのルーキーは、この日、三勝目を目指して市民球場の大舞台に立つ。余所者の若造にとってはどこがどう可愛いのか今一つ理解できない朴訥とした印象の顔にぎこちない笑みを浮かべ、ルーキーはインタビュアーとのやりとりを必死でこなしていた。そして開幕以後これまでの振り返り映像や練習風景を交えた二分弱のインタビュー映像が終わると、客の誰もが安堵の笑顔を浮かべて食事を再開した。

 若造の隣の女も改めて丼に向き直り、数回さらに丼の中をかき混ぜた。そして、汚物すれすれの見た目と化した狂気の激辛麺を食べ始めた。五段階の辛さのうちの「二辛」の麺を、若造が完全に後悔しながらちびちびと口に運ぶ横で、女は「デス」と山盛りの白飯に交互に箸を伸ばしてぱくぱくと頬張る。

 インタビュー映像を放映していたニュース番組は、中国地方の天気予報の後、続けて、下関側に設置された定点カメラの映像とともに、関門海峡では今日も目立った衝突はないことを簡潔に伝えた。客たちはその映像にちらりと目を向けただけである。液晶画面に映る、かつては九州北部と呼ばれた地の北端、花崗岩で築かれた巨大な門司の城壁は、普段通りの不気味な沈黙を保っている。

 短いニュース番組が終わるころには、女は早くも山盛りの白飯の半分と「デス」の麺をの全てを食べ終わっていた。だが「デス」の丼にはまだかなりの量のネギや肉そぼろが残っている。女はその丼に残った白飯を投入し、さらにカウンター上に並ぶ各種調味料の中からカレー粉と刻んだ鷹の爪、さらには粉チーズを白飯の上にかけて、丼を混ぜた。そうして出来上がった得体の知れない混ぜ飯らしきものを女は再び食べ始めた。

 今や若造は恐怖交じりの、ほとんど畏敬の念と言ってもよい感情に呑まれていた。広島の代名詞といえばカープにヤクザと昔から相場が決まっているが、実際に広島を訪れてみれば、ヤクザでも何でもない地元民からして、こんなハードコア極まる料理を皆でこぞって貪り食っているのだ。夏の平日の昼飯に行列まで作って食べることなど全く理解の埒外というほかない食べ物を。

 またもや箸がいつの間にか止まったまま自らの現実感覚すら疑い始めた若造をよそに、女は「締めのライス」、要するにあの混ぜ飯様のものをもさっさと平らげた。女はコップの水を飲み干して立ち上がり、ふたたび若造の肩を軽く叩いた。若造は身震いして我に返った。女は陽気に笑った。

「広島は、こまいけどええ街じゃけえ、楽しんでってね」

 若造は口を半開きにしたまま、がくがくと頷いた。女は若造に「じゃあね」と最後に声をかけると、若造に背を向けた。女は店員にも「ごちそうさまー」と明るく声をかけた。広島弁でもごちそうさまはごちそうさまなのかと、若造は奇妙な安心感を覚えた。そして、店を出てゆく赤いユニフォームの背に刺繍された「ARAI」の文字と背番号28を、ただ見送った。


――――――――――


 店を出た女は、この後の予定に思いをはせて口元をほころばせながら、歩道に路上駐輪された自転車に混じって駐車してある愛車の金田バイクに跨った。ヤクザの流儀に則り著作権者等々にきちんとライセンス料を支払った上で東洋重工が限定生産した逸品である。赤ヘルと同色のソウルレッドにリペイントしてカープ関連のステッカーをべたべた貼ったバイクのエンジンをかけたところで、スマホ型の携帯端末が振動した。レザーパンツのポケットから端末を取り出しディスプレイを見る。「ヒッポちゃん」からの着信だ。女が応答ボタンを押すと、通話相手がだみ声で切り出した。

「儂じゃ。セツコ、悪いんじゃがいっぺん事務所に戻ってくれえや」

 セツコと呼ばれた女ヤクザは怒声寸前の返事をした。

「何でね? 知っとるじゃろ、ウチはこれから市民球場に行くんよ?」

「本部の用事じゃ。今連絡があった。20分後に本部と事務所を繋いで詳しい説明をするんじゃと」

 セツコはしかめっ面で宙を睨んだ。

「そんなことしよったら、球場の開門前に並べんのんじゃけど」

「それがどしたんなら」

「今日のチケット、自由席しか取れんかったんよ!」

「指定席取らんかったお前がいけんのじゃろ」

「何てこと言いよるんね! シーズンに入ってから指定席取ろう思うたら、ネットで転売屋から買うことになるんよ! ウチらカープファンがそんなことして転売屋儲けさすなんて……」

 市民球場のチケットを買い占めネットで転売する転売屋の跳梁跋扈は、全カープファンの怨嗟の的である。「ヒッポちゃん」は声に苛立ちを滲ませて、持論をまくし立てるセツコの声を遮った。

「分かったけえ、とにかく戻ってこいや。儂らの稼業なんじゃ。仕方なかろうが」

「……すぐ戻る」

「今どこな?」

「大手町」

 セツコは返答を待たずに通話を切って端末をレザーパンツのポケットにしまい、サングラスをかけた。そして金田バイクを発進させた。

 セツコは裏通りから鯉城通りに出ると、北に向かって金田バイクを法定速度で走らせた。セツコが何度聞いても仕組みを理解できないし名前も覚えられないヤクザのテクノロジーで、前後両輪に動力が伝わる仕組みだ。こんな凝ったメカニズムを採用する意味は原作再現へのこだわり以外に何もない、このハイテクマシンを全開にすれば、途轍もない加速が可能だ。だが広島のヤクザたるもの、非常時でもないのに交通法規を破るわけにはいかない。ちなみにセツコがノーヘルなのは、仮にヤクザが事故ったところで、その程度では重傷を負う可能性が極めて低いからだ。

 平和大通りとの交差点に差し掛かったところで、赤信号に変わった直後に交差点に進入し突っ切ろうとしたレクサスのクーペを見つけた。どうせ次の信号ですぐ止まることになるのに、なぜわざわざ目の前のたった一つの信号を無視するのか。セツコは次の信号待ちで追いついてから、停車しているレクサスの助手席側にバイクを停め、バイクに跨ったまま、助手席ドア目掛け十分手加減した蹴りを見舞った。レクサスのドアは一撃で大きくへこみ、停車した車体が数センチ横滑りした。広島といえども日本政府及び地方自治体の法令が一般市民に適用されるが、それとは別に、ヤクザはヤクザの法の執行者である。ヤクザの目が光る中で軽率に違法行為に及ぶ市民はほとんど存在しない。結果、広島市の交通事故発生率は日本の他の地域に比較しても断トツの低さである。セツコは、レクサスの運転席で震えあがっているちょび髭に振り向きもせずに、再びバイクを発進させた。

 更に北に進んで、デパートや商業ビルに囲まれた紙屋町交差点を左折して相生通りを西に進むとすぐに、改修を重ねに重ねた結果、今では観客六万人を収容する大スタジアムとなった広島市民球場の威容が右手に、広島とヤクザの精神を体現するかのように佇む広島県産業奨励館の廃墟が左手に見える。そこを通り過ぎて相生橋を渡ればもう、居住用マンションに並んで、「事務所」が入居するオフィスビルが橋のたもとに建っている。広島市で最も賑わう商業地域から川を渡っただけでオフィスビル交じりの住宅街になるという市街地の謎のコンパクトさは、広島市の際立った特徴の一つである。

 セツコは歩道の街路樹の脇にバイクを駐車して10階建てのビルの最上階に上がった。窓から平和公園を一望できる南東角のオフィスがセツコたちの事務所である。セツコは「ひろしま動物タレントエージェンシー」と書かれたガラスがはめ込まれたオフィス入り口のドアを開けた。南側の窓を背にしたオフィスチェアに、サバ白模様の馬鹿でかい猫がだらしなく腰掛けて、デスクの上の液晶タブレット端末を操作している。猫がセツコに気付き、だみ声で呼びかけた。

「おうセツコ、よう戻ってきてくれたのう」

 セツコはわざとらしい溜息で猫に応えた。

「……何ね、ヒッポちゃん。ただいまのチューでもしてほしいんね」

 言いながらセツコは東側の窓を背にした自分の席に向かい、オフィスチェアにどっかりと腰を下ろしてから、ライダーブーツを履いたままの両足をデスクの上に投げ出した。猫――ヒッポは右前足の爪を出して可愛らしいピンク色の鼻の横をぽりぽり掻いた。

「儂に当たんなや。本部が連絡してきたんじゃけえ、しょうがなかろうが」

「ウチの気持ちがヒッポちゃんに分かるんね? こうやって開門に間に合わんどころか、ウチの球場入りが遅れれば遅れるほど、ウチと新井さんとの距離がどんどん離れてくんよ」

 新井さんとは、日本プロ野球界全体を見ても稀有な、球団やファンの垣根を越えて全プロ野球ファンに愛されるカープの内野手である。年齢をいとわぬハッスルプレーは敵味方に関係なく観客を笑顔にし、その背中は若いチームメイトたちに無言でプロ野球選手としてのあるべき姿を説く、押しも押されぬ名選手である。この四月には、2000本安打の大記録を達成したばかりだ。当然のことながら、新井さんがイケメンであることに異を唱える広島市民は存在しない。セツコはデスクから足を下ろすと、ヒッポに向かって哀れな表情で思いの丈を吐き出した。

「ウチだってねぇ、ヤクザになりとうてなったんじゃないんよ。それでもウチはカープを愛しとるけえ、カープの選手や関係者にかかわったらいけんていう、ヤクザの鉄の掟を守っとるんじゃけえね。練習中の新井さんや試合中の新井さんをなるべく近くで見守るしかない、新井さんになんも話しかけれんウチの気持ちが、ヒッポちゃん、あんたに、ほんまに分かるんね!」

 セツコはサングラスを外し、こぶしで目を拭って嗚咽し始めた。ウンザリした表情で聞いていたヒッポは、デスクの引き出しからポケットティッシュを取り出すと、オフィスチェアを降りてセツコに二足歩行で歩み寄り、ティッシュを差し出した。

「分かったけえ、もうええ加減に泣き止めえや、の? もうすぐ本部から通信が来る時間で。そがいに泣いて、お前の鼻まで儂みたいなピンク色になっても知らんで?」

 ヒッポは、オフィスチェアに座って前かがみですすり泣くセツコの肩を抱いた。セツコは頷いてティッシュを受け取り、二枚抜き出して鼻をかんだ。そうして三分ほど経ったところで、ヒッポのデスクの上に置いてある液晶タブレットがチャイム音を発した。

「おっと、来たようじゃの」

 ヒッポは自分の椅子に飛び乗って器用にタブレットを手に取ると、セツコの椅子の隣に立ち、タブレットを横向きにして裏側の内臓スタンドを引き出してから、セツコのデスクに立てた。そして右前足の肉球で画面の応答ボタンを押した。

 タブレットの画面が、本部ビル最上階の会議室の映像に切り替わった。会議室側の出席者は男と少女が一人ずつだけだ。画面から見て会議テーブルの一番奥の誕生日席には、一匹の錦鯉が泳ぐ巨大水槽がはめ込まれた壁を背にし、男が本部側のカメラに正対している。三十路と思しき年恰好で、上品なスーツを着ている。ボス然とした威厳に妙にそぐわない猿顔だ。セツコはタブレットに向かって手を振り、気さくに挨拶した。

「ベンちゃーん! 久しぶり。元気しとった?」

 「ベン」とおぼしき猿顔の男が軽く笑みを浮かべて答えた。

「セツコ、ヒッポ、急な呼び出しですまんかったな」それからベンは眉根を寄せて身を乗り出し、本部側でセツコたちの姿を映しているであろう画面に目をこらした。「セツコ、なんかあったんか?」

「あれよ、セツコがまた、いつもの新井さーん、新井さーんをやっただけじゃ」

 セツコが肘でヒッポを小突いた。

「そんな言い方せんでや。ウチのカープ愛は本物なんじゃけ」

「セッちゃん、そんなにいちいちカープのことで泣いとったら、カープが優勝したときに泣きすぎてミイラにならん?」と、ベンと呼ばれた男の右隣に座る少女がこちらに向かって笑った。清楚な顔立ちにあざといツインテールの髪。やけにテカテカした布地の学校制服らしき衣装は、セツコたちが知らないアニメか何かのコスプレだろう。セツコは腕組みして見せた。

「サヤカちゃん、ウチのこと舐めんなさんなよ。今年は絶対カープが優勝するけえ。ほいで、ウチはほんまにミイラになるまで泣くけえね」

 コスプレ少女は会議テーブルをバンバン叩いて爆笑した。

「セッちゃん、あたしそれ絶対見たい! それ配信したら絶対ぶちウケるよ!」

「ウチが出演するのはええけど、ちゃんとギャラ払いんさいよ? サヤカちゃんはユーチューバーとか言うんで、えっと稼いどるんじゃけえ」

「ほんま時代は変わるもんじゃの」ヒッポは鼻を鳴らした。「こないだまで、サヤカがしょっちゅうわやくちゃしよって、こいつどうすりゃええんか言うて皆で相談しとったくらいなのにの。それをネットで配信してみりゃ、どえらいゼニになるんじゃけえ、ほんまやれんわ。儂の人気なんかあっという間に無くなったのに、不公平じゃ」

「そりゃそうよ。おじちゃんは珍しいヤクザじゃけど、やっとること見たら猫の着ぐるみ着た人間とあんまし変わらんのんじゃもん」言いながら、サヤカと呼ばれた少女はヒッポに同情の目線を向けた。「立ったり話したりできるんは隠して、ちゃんと猫らしくしとったら、もっと人気が出とったと思うよ」

 ヒッポが心底傷付いた表情で目線を落した。ベンが二回手のひらを打ち鳴らした。

「お前らそのへんにせえ。一応緊急で集まってもらったんじゃけえの」

「その割には、理事で出席しとるのはベンちゃんとサヤカちゃんだけ?」

「俺らみたいな顔が売れすぎたヤクザ以外は、例の国連がらみで腐れ外道どもが内輪揉めしよったんの後始末の応援じゃ。あらかた出払っとって、まだ帰って来とらん。出れん理事の議決権は連絡とって俺に委任してもろうた。構わんの?」

「それはええけど、ミッキーはどしたん? 今回は広島に残っとったじゃろ」

「古賀野か。あいつ、『昼酒飲むのに忙しい』とか言うてから、俺に委任するて返事しよったわ」

「ほんま相変わらずじゃの」ヒッポは自分のオフィスチェアをセツコの隣に移動させて座った。「で、今回は何があったんかの。なんなら儂らもそっちに出向いても良かったんで」

「それは二度手間になりそうじゃけえ、やめといた。とりあえずこの画像見てくれんか」

 タブレットの画面に、上空から撮影したと思しき男の顔と全身画像が表示された。乱れた髪と無精髭はまるで逃亡者か何かだが、なぜかカープの赤いレプリカユニフォームを着て洒落たダメージジーンズを履いている。ヒッポが言った。

「何じゃあこのキアヌもどき。あれか、長崎の腐れ外道か」

 ベンは頷いた。

「90年代の関門海峡の映像アーカイブに記録されとる、腐れ外道の顔面画像と一致するいう結果が顔認識システムから出た。これはさっき鳩が撮った画像じゃ」

 秘密主義を嫌うヤクザたちが例外的に一般市民に隠す数少ないトップシークレットの一つが、超小型監視カメラを装備したヤクザ鳩による上空からの監視システムである。監視対象は長崎その他の潜在的脅威からの訪問者に限られるが、このような監視システムの存在自体が、市民のヤクザに対する信頼を損ないかねない。

「ベンおじちゃん、あたしこれ、かなり好みなんじゃけど。背番号1? かな? のレプリカユニ着とるし、いい人かもしれんよ?」

 ヒッポが遮った。

「お前の好みはええ。それよりも居場所はどうなっとる」

 サヤカはヒッポの言葉を気にすることなく、画像を見てニヤニヤしている。ベンが答えた。

「さっきの画像が出た後、ビーコンと監視撮影の二羽一組の編成に変えて、鳩に追わせとる。現在位置が確認でき次第、監視撮影鳩が戻ってくるはずじゃ。」

「ほいじゃ、とりあえず連絡待ちでええんね? どうも無駄に手間がかかっとるような感じがするんじゃけど」

「セツコ、コーヒー飲むじゃろ」

 ヒッポがオフィスチェアを降りて部屋の隅に行き、小テーブルに置かれた電気ポットに背を伸ばしてスイッチを入れた。すぐにセツコがヒッポを呼んだ。

「待って、来たみたい」

「早かったの。近いんか?」

 再びセツコとヒッポで並んで見つめる画面の右手、ガラス窓の窓枠にとまった一羽の鳩が嘴で窓ガラスをコツコツ突くと、ガラスの一部が小さくスライドし、その鳩がガラスの隙間をくぐって会議室に入ってきた。鳩は小さく羽ばたいてベンの手のひらに降り立った。ベンは会議テーブルの側面から細いケーブルを伸ばして鳩の首に装着されたデバイスに接続し、鳩の足輪を確認した。


「12番の組か。サヤカ、映像出して、ついでに12番のビーコン鳩の位置を確認してくれんか」

「りょうかーい」

 サヤカは手慣れた手つきで会議テーブルに有線接続したキーボードを叩いた。すぐにセツコらが見ているタブレットに画像が表示された。幟町教会の敷地を歩く件の男の画像がいくつか。ベンも会議室で画像を確認してから言った。

「間違いないの。サヤカ、場所はどうなっとる」

「今出すよ」

 タブレットに広島市内中心付近の地図と「ビーコン鳩」の位置を示す光点が映し出された。光点は幟町教会に留まっている。ヒッポが小さく噴き出した。

「宗教狂いの腐れ外道が。ほんま呑気なもんじゃの。何しに来よったんじゃ」

「それを調べるための今回の頼み事じゃ。セツコとヒッポでクルマ出して、こいつとっ捕まえて本部に連れてきてくれや」

「了解。すぐ行く。ヒッポちゃん、いつも通りウチが突入でいくよ」

「儂は念のためにMP5SD持ってくで。ええじゃろ、ベン?」

 ベンの猿顔がいつになく真剣な面持ちとなった。

「そのへんはお前らに任せるわ。それよりも、あれをなるべく丁重に扱っちゃるんを忘れんなや。ええか、長崎の腐れ外道がどんな悪さするつもりで広島に来たんじゃろうとの、そいつは熨斗つけて無傷で長崎に送り返してやるんじゃけえの。それが、俺らヤクザの流儀じゃ」


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 広島市の中心部、八丁堀交差点から東北方向に三百メートルほども歩くと、またもや突然あらわれる住宅街の中にある、カトリック幟町教会に辿り着く。敷地内に聳え立つ世界平和記念聖堂は、余り知られていないが重要文化財の指定を受けている。建設に尽力したドイツ出身のイエズス会の神父は、自身もまた、広島の核攻撃を生き延びた者の一人であった。

 静まり返った聖堂の中でただ独り、男はその身に背負った使命を思いながら、質素な木製の信徒席に跪いて祈っていた。広島のこの教会と長崎の信仰は、いずれもイエズス会をルーツに持つ。時を経た今、自らの信仰するところはもはや、自分が今ここにいる教会の教義にはそぐわぬ部分があるかもしれない。それでもなお、祈りを捧げる神が一つであることに変わりはない。

 そうして祈りを通じて心の平安を得た男が立ち上がろうとしたその時、男の鋭敏な聴覚が、教会の敷地内を聖堂に向かって歩く足音を捉えた。この場所にそぐわぬ、やけに威勢の良い長靴の足音だ。何故か犬か猫のような肉球が砂利を踏む足音がそれに続いている。男が足音の主に警戒すべきかどうかを決めかねるうちに、ブーツの主が聖堂の入り口に姿を現した。

 男は振り返って、ブーツの主の逆光となったシルエットに目をこらした。サングラスをかけたカープ女子らしき女。拳銃を腰に帯びたその女は、銃を抜こうともせずに、男に向けて紙製の円筒を転がした。妙に男にそっぽを向いたその女は、そのまま迷わず歩みを進めた。そして、聖堂の入り口脇から、黒装束を着て短機関銃を構えた猫が肩から上だけをのぞかせた。男はあらためて床の紙製の円筒を見た。円筒に「チップスター」と印刷されているのを見て困惑した次の瞬間、閃光が男の視界を奪い、音が消え去った。

 反射的に身をかがめた男の股間に蹴りが入り、立て続けにみぞおちに下から強烈な拳が入った。倒れかかった男は乱暴に足を払われて床に這いつくばった。うつ伏せにされた男は手早く後ろ手に手首を縛られた。甲高い耳鳴りに支配されていた聴覚が徐々に回復し、だみ声が聞こえた。

「……丁重に扱えぇ言われとって、これかい」

 女の声が返事をした。

「長崎の腐れ外道なんかね、タマの一個か二個潰されたくらいでちょうどええんよ」

 聴覚に遅れて視覚を取り戻しつつあった男は、なおもうつ伏せになったまま、首をひねって声の方向を見た。猫が構える短機関銃の銃口が男の額を狙っていた。猫が喋った。

「つまらん事考えんな。儂はトリガ引きとうないんで、ほんまに」

 サングラスの女が喋った。

「手ぇ縛っとるんも、あんたらみたいなんでも壊せん特別製じゃけえね。カーボン……」言い淀んで、女が猫に訊いた。「カーボン何で出来とるんじゃったっけ」

「覚えとらんのをなんでわざわざ言おうとするんじゃ」

 男は女と猫を睨んだ。

「……貴様ら、礼儀というものを知らんのか。名を名乗れ」

 女が、猫と目配せを交わしてから二丁拳銃を抜いて構え、名乗った。

「ジョン・ウー・ラモーン」

「そがいなんが長崎のあほんだらにウケるわけなかろうが」

 猫が男の頭に黒い布袋をかぶせた。


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 セツコが運転する青いFD型RX-7は、中区新天地に割と小さめな威容を誇って聳える本部ビルの地下駐車場に入り、駐車した。一般市民には知られていないが、さらにその地下には割と凄い地下研究所や地下格納庫がある。セツコとヒッポは、RX-7の狭いトランクに詰め込まれて連行されてきた男を取り出し、ビル上層への直通エレベーターに乗せて引っ立ててゆき、マジックミラー付きの尋問室にぶち込んだ。男を椅子に拘束して頭部の布袋を取ってやってから尋問室を出ると、セツコとヒッポは並んで、隣室からマジックミラー越しに男を観察した。

「遠目からの写真と違うて、あんまキアヌに似とらんの」

「どっちかっていうと、あれよね。あれに似とらん? エージェント・オブ・シールドの、何て言うたかね」

 セツコは右の銃を抜いて、目の近くに両手で構えた。

「こがいにね、ガンを斜めにして構えてから、いちいちカッコつけるアホがおったじゃろ」

「エージェント・ウォードじゃ。ほんま人の名前覚えるんがヘタじゃの」

「ええじゃないの。ウチはまだ最初のほうだけしか観とらんのんじゃけ」

「あいつの、あとでシールド裏切るんで」

「なんねえもう! なんでネタバレするんね!」

「ウォードのあほんだらは悪役じゃあ言うて喜ぶと思ったんじゃがの」

「喜ぶわけないじゃろ!」

 最上階から降りてきたエレベーターが到着し、ベンとサヤカが姿を現した。ベンはしばらく無言で男を見た。サヤカが口を尖らせた。

「思ってたんよりも、なんかムカつく顔しとる。それに、何あれ」サヤカは額をマジックミラーにくっつけて、男が着ているユニフォームに注目した。その背番号は1ではなく「!」だった。「あれ前田じゃなくてスライリーのユニじゃん。男が着とるとかマジキモい」

 スライリーとは、カープファン以外には決してその魅力が理解できないと言われる、カープのマスコットとして活動するおぞましき外見の着ぐるみである。

「そのへんの女子の感覚が、いまいち俺にはよう分からんの。まあ、とりあえず始めるで」

 ベンが尋問室に入り、男の向かいの椅子に腰かけた。項垂れていた男が顔を上げて口を開いた。その声がスピーカーを通じてセツコたちにも聞こえた。

「私はそちらと争うつもりは一切ない。端的に言う。力を貸して欲しい」

 そして男は、並々ならぬ気迫をその目に湛え、手首を椅子に結びつけられた状態で可能な限り、身を乗り出した。

「姫の身に危険が迫っているのだ」

 ベンが困惑を露わにしてマジックミラーに振り返った。尋問室の外のセツコとヒッポは互いに顔を見合わせて、それから爆笑した。サヤカはそれを怪訝な表情で見守った。文字通り床の上で笑い転げた挙句、ほとんど呼吸困難になったヒッポがマジックミラーにもたれかかり、右前足でマジックミラーの向こうの男を指して叫んだ。

「姫とか言うたでこいつ!」



【続く】