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【ペケロッパ・カルト】 破 # 10、急


(承前)


# 10


「Wasshoi!」 

 何やらアルケミーと会話していたニンジャスレイヤーが突如として咆哮し、一瞬姿を消した。再び姿を現したニンジャスレイヤーは右手でアルケミーの顔面をわしづかみにし、その頭部をコンクリート柱に叩きつけていた。そしてニンジャスレイヤーの背に何本もの結晶の槍が突き刺さった。ヒロコの視界が露光過多になった。

 何もかもが白くなったヒロコの視界の中で、ニンジャスレイヤーに掴まれたアルケミーの頭部が燃え上がり始めた。ニンジャスレイヤーはアルケミーの頭から手を離した次の瞬間、無造作に左手の逆袈裟チョップを振り抜いた。アルケミーの左肩から先と首が一撃で刎ね飛ばされた。アルケミーの燃える生首が空中で絶叫した。

「サヨナラ!」

 アルケミーは爆発四散した。

 ニンジャスレイヤーに突き刺さっていた結晶の槍が輝きを残して雲散霧消した。その痕にいくつも傷口が残った。煙を上げて焼け焦げる傷口から沸騰する液体がどくどくと流れた。ニンジャスレイヤーはたたらを踏みつつ、アルケミーがいた場所に向かって再び構えをとろうとしてくずれ落ち、両膝立ちの状態で前方に倒れた。コンクリート柱に預けた頭がずるずると力なく下がり、途中で止まった。

 その時、ニンジャスレイヤーの最後の一撃の軌跡に沿って、コンクリート柱にぴしりと切れ目が生じた。斜めに走った切れ目から上の部分が徐々にスライドし、やがて床面に脱落した。そして横方向に轟音を立てて倒壊した。

 コトブキがニンジャスレイヤーの名を叫んで駆け出した。コルヴェットが無言でその後を追った。ヒロコは取り残された自分を見出した。無意識のうちに自らもよろめく足取りでコトブキを追った。

 ニンジャスレイヤーのもとに駆け寄ったコトブキは、ニンジャスレイヤーを仰向けに横たえながら腰を下ろし、彼の頭を膝枕に乗せた。コルヴェットがアルケミーの爆発四散痕からリモコンを拾い上げてボタンを押した。ガコンプシュー。ヒロコの後方でシャッターフスマが開いた。コルヴェットは床に膝をつき、ニンジャスレイヤーの傷をあらためた。

 ヒロコはその光景を眺めながら近づいた。ニンジャスレイヤーまでタタミ5枚ほどの距離に接近したところで視界に色彩が戻った。ニンジャスレイヤーの下に広がり続ける血の海が目に入り、ヒロコの膝が落ちた。ニンジャスレイヤーの顔からメンポが剥がれ落ち、床に転がってガランと音を立てた。その目は閉じられていた。

 コトブキが目と口元を震わせながらニンジャスレイヤーの頬を撫でた。コルヴェットは険しい表情で見守る。本能がヒロコを絶叫させようとしたところで、ニンジャスレイヤーが薄く目を開き、コトブキたちを認め、かすれた声を発した。

「……何だその顔は」

 コトブキの顔を一瞬安堵が満たしたが、すぐさま不安の表情に戻った。コルヴェットが再び傷をあらためる。煙を立てる傷口は早くも塞がりかけている。だが今なお出血は止まぬ。ニンジャスレイヤーも自らの傷口に目を向けて、言った。

「……この程度、今までのに比べれば……」

 言いながら身を起こそうとし果たせず、再び力なく横たわった。コトブキは彼を優しく押しとどめるように膝枕の上の彼の頭を両手で包んだ。

 その時、ヒロコの傍らに背後から歩み寄る者があった。ヒロコは見上げた。ソネだった。コトブキたちも気付いた。皆が見守る中で、ソネは手首を縛られた両手を頭部にあてがった。プシュッと音を立ててサイバーサングラスから何本かのケーブルが外れた。ソネはサイバーサングラスを外し、床に無造作に放り投げた。サイバーサングラスは僅かに転がってニンジャスレイヤーのメンポに当たり、止まった。

「……フーッ」

 ソネは茫洋とした目線を漂わせながら長く息を吐き、一同を見渡した。その目は意外にもつぶらだった。そして虚無の暗黒をたたえていた。

 ソネが喋った。

「……そろそろ、マクガフィンはお役御免でいいか?」

 コトブキが硬直するのが見えた。再びヒロコはソネを見上げた。ソネは侮蔑の目でヒロコを見下ろした。

「……こういう結末くらい予想できただろ」

 ソネは唖然とする一同を再び見渡し、笑みを見せつけて、言った。

「ありがとよ。俺から全てを奪ってくれてな」

 誰も一言も答えられなかった。ソネは満足げな表情で嘲った。

「……愚か者どもが」

 そして身を翻し、後方の柱の一つに向かって突進し頭から衝突した。ソネは割れる音と潰れる音と折れる音を立てて倒れ、動かなくなった。 

 ヒロコは呆然としたまま、再びコトブキたちに目を向けた。コトブキは拒否するように首を振り、頭を垂れた。コルヴェットが口を引き結んで目を伏せた。ソネに向けられていたニンジャスレイヤーの目線が動き、ヒロコを捉えた。ヒロコは、ただ見返した。ニンジャスレイヤーがヒロコを見つめた。

「ヒロコ=サン」

 ヒロコは二度、まばたきした。あの人が自分の名前を呼んだのだと気づいた。ニンジャスレイヤーが再び言った。

「ヒロコ=サン」

 ヒロコは答えた。

「何、ですか……」

 ニンジャスレイヤーの目が無言でヒロコを呼んだ。ヒロコは立ち上がった。ニンジャスレイヤーにあと数歩のところまで近づいたところでよろめき、床に手をついた。ヒロコはそのままニンジャスレイヤーの傍らへとにじり寄った。手と膝が血だまりに触れた。

 ヒロコは這いつくばって震え、顔を上げてニンジャスレイヤーを見た。青年が訊ねた。

「どのくらいまで戻れるんだ?」

 ヒロコは思わずコトブキたちを見回してから、また青年を見た。ようやく、自分の力について質問されているのだと理解した。ヒロコは過去の経験を振り返って、答えた。

「一年、くらいは……」

 その答えを聞いて、青年は真上を向いて目を閉じ、長く息を吐きながら微笑んだ。青年は目を閉じたまま言った。

「頼まれてくれるか?」

 なぜか返事ができなかった。青年は再び目を開いてヒロコを見つめ、告げた。

「今から言う日時場所に、マスラダという男がいる。そいつに伝えてくれ。その日の夜の予定はキャンセルしろ、と。そうしないと」一呼吸置いて、青年が続けた。「そいつと、アユミが死ぬ」

 マスラダが誰なのか、言われずともヒロコには判った。だから黙っていた。ニンジャスレイヤーが再度目線でヒロコを呼び寄せた。ヒロコは更に近づき、耳を青年の口元に近づけた。青年はヒロコだけに聞こえるように、その日時場所を囁いた。

 ヒロコは青年から顔を離した。青年は変わらずヒロコを見つめたまま言った。

「行ってくれ」

 嫌だ。

 動かぬヒロコを見て、青年はさも気まずそうに顔をしかめて、笑った。

「すまない。言い方が悪くて。これでも、あんたに会えて良かったと思ってるんだ。本当だ」

 そう言って、青年は微笑んだまま、ヒロコを納得させるかのように一つ、頷いて見せた。その笑みの半分は自分自身を笑っているのだとヒロコには判った。青年の……ニンジャスレイヤーのまなざしは優しかった。それは、他人に希望を託した者の期待と安堵の目だった。嫌だ。そんな目で見るな。

 ニンジャスレイヤーから目を背けた。コトブキが視界に入った。コトブキもまた、強いてヒロコに微笑んだ。

「約束します。わたしはかならず、またヒロコ=サンに会いに行きます」

 そして、涙をこらえる表情でコトブキも頷いた。

「ユウジョウです」

 だが、コトブキの瞳は乾いていた。ヒロコは悟った。あれほど笑い、怒り、幸福そうにヤキイモを味わっていたコトブキ。なのに、涙を流す機能がないのだ。ヒロコを見つめるコトブキの目。涙を流さぬそれは、いびつな人形の目だった。嫌だ。そんな目で見るな。

 それからコルヴェットの視線に気付いて目を向けた。コルヴェットはもはや何も言わず、立ち上がり、ただヒロコを見て頷いた。まるで、全てを分かった上で兵士を死地に送り込む指揮官の目。嫌だ。そんな目で見るな。

 ヒロコは見渡した。誰もがヒロコを見ていた。ニンジャスレイヤーが励ますように言った。

「さあ、行け」

 ヒロコはこの世界から拒絶されていた。それを理解してヒロコは立ち上がり、無言で皆に背を向けた。そして歩き始めた。

 しばらく歩いたところで足が止まった。ヒロコの背にニンジャスレイヤーの声が届いた。

「行け」

 振り返らなかった。ただ再び足を動かした。ニンジャスレイヤーの声が再び歩き始めたヒロコの背を打った。

「走れ!」

 溢れ出る涙をこぶしでぬぐいながら、ヒロコは走った。

 ヒロコは開かれたシャッターフスマをくぐり、無人の空間を過ぎ、長い長い階段を一人登った。機械的に足を動かすうちに先ほどのバーに辿り着いた。足元だけを見て出口に向かった。カウンターのタキがヒロコを見て何かを察した。タキは椅子を降り、ヒロコと無言ですれ違い、足早に店の奥に向かった。バーテンがヒロコの背を見送った。

 地上への階段を登ると、外は雨になっていた。サイバーLED傘や耐汚染PVCコートがひしめく夜の路上で、しばし立ち尽くした。適当に駅がありそうな方角に当たりをつけて駆け出した。黒服たちがその背を無言で見送った。

 群衆を掻き分けようとして、あっという間に足を滑らせてうつ伏せに転んだ。顔が水たまりに浸かった。群衆は皆ヒロコを無視した。立ち上がれないまま、ヒロコは無力感に耐えようとした。ソネの目にあったあの闇が近くにあるのを感じた。

 その時、ヒロコの頭のすぐそばで足音が止まった。ヒロコは無視した。だが足音の主は動こうとしない。ヒロコは顔だけを起こし前を見た。使い込まれた無骨なブーツがあった。上から声が聞こえた。

「立て。娘よ」

 ヒロコは水たまりに両腕をついて身を起こそうとした。ブーツの男が片膝をついてヒロコの肩に手を添えて助けた。ヒロコは路上にへたり込んだ格好で目の前の男を見た。編笠を被り迷彩ポンチョをまとった見知らぬ男がいた。男の落ちくぼんだ目から放たれる鋭い眼光がヒロコを見据えた。

 男がヒロコに向かって静かに口を開いた。

「ここがナムなら、お前はとうに死んでいた」

「……ナム?」

 訝しむヒロコに構わず、男はポンチョの中から乾いた清潔なテヌギー(訳註: 手ぬぐいか?)を取り出し、ヒロコの顔を拭い始めた。

 男はヒロコの顔面と頭髪から汚れを拭きとりながら、ヒロコに語りかけた。

「常に周囲を警戒し、注意深くサヴァイヴせよ。そのためにも……」

 男は拭き終わったテヌギーを仕舞い、こけた頬に笑みらしき表情を浮かべた。

「……笑顔を忘れるな」

 男はヒロコの目を見た。その目をそらさぬままヒロコの手を取り、立ち上がらせた。そして笑みを消し、ヒロコの右肩に右手を置いて、言った。

「カラテだ」

 そう言い残し、男はヒロコの背後に歩み去った。振り返ると、もう男の姿はどこにもなかった。

 ヒロコはまたしばらく立ちすくんだ。今の言葉が否応なくヒロコの思考を捉えた。カラテ。知っている言葉なのに、なぜか、まるで初めて聞いた言葉のような違和感。

 それから口に出した。

「……カラテ」

 自分で口にしたなんの変哲もない単語が、ひどくヘンテコに聞こえた。その響きがヒロコのニューロンを妙な具合に刺激し、ヒロコは小さく噴き出した。こんな時でさえ人間は笑うのかと思った。

 ヒロコは前を見て、もう一度「カラテ」と呟いた。その言葉の響きが、ヒロコの身体に今なお残る活力を思い出させた。ヒロコは歩き始めた。

「カラテだ」

 そして再び駆け出した。

 ヒロコはもう決意していた。通学鞄を置き忘れてきたことに気付いた。ニンジャスレイヤーに託された日付がどんな日だったかはすぐには思い出せない。だが、鞄にしまった手帳のカワイイカレンダーを見なくても、その日の数日前が、タマヨたちと組んだバンドで演奏した文化祭だったことははっきりと覚えている。

 本番の前夜、ヒロコは緊張してなかなか寝付けず、結局、文化祭当日の朝なのに寝坊した。慌てたヒロコは、ギターを背負っているのを忘れてうっかりいつものように階段を大ジャンプし、危うくギターを壊すところだった。

 ヒロコはその朝の大跳躍の光景を脳裏に思い描き、念じた。あとは、跳ぶだけだ。

 ヒロコは駆けながら周囲を見た。通りを挟んだ向こうに、今いる路上よりも低い場所に降りる階段があった。その先に続く脇道は退廃ホテル街(原註: 専ら性的行為を行う際に利用する、ほとんど日本独自の集合モーテル・システムの密集地)。構わずそこを目指す。

 横断歩道を渡り、群衆の切れ目を見つけ、さらに加速する。退廃ホテル街が間近に迫る。下り階段の手前まで迷うことなく駆ける。階段の先は、色とりどりの猥雑なネオンの輝きが浮かぶ夜の闇。その闇のただ中に向かって、ヒロコは肚の底からカラテシャウトの雄たけびを上げた。

「Wasshoi!」

 雄たけびとともに闇の中へ全力で踏み切る。飛翔。





 5度目のその日の早朝。

 晴れ間を覗かせるネオサイタマ東部のサクラガハイツ・ダンチ。立ち並ぶ相似形の建物のひとつ、3号棟の8階に並ぶ玄関スチールドアの一つを開き、「イッテキマス」のアイサツとともにヒロコは自宅を出発した。この朝を迎え、ヒロコは過去を思った。

 二度目の文化祭の数日後、ヒロコは頼まれたとおりに伝言を届けた。そこで待っていたのはヒロコの予想通りの青年だった。だがその青年は、丁寧な物腰の裏にアーティスト気取りのような傲慢さが見え隠れするやつだった。ヒロコは伝言を伝えるだけ伝えて、妙な顔をする青年の前からさっさと立ち去った。あれで青年の何かが変わったのだろうか。多分、何も変わらなかったのだろう。多分。それから数か月。

 ヒロコはいつもの通学路を歩む。朝の跳躍も疾走もとうに止めていた。朝になると自然に目が覚めるようになっていた。急におとなしくなったヒロコのことを、タマヨたちは最初ずいぶんと心配した。だが一週間ほどで元通り普通に接してくれるようになった。どうやらタマヨたちは「好きな人ができた」と推理して納得しているらしい。ヒロコは自覚していた。本当は、朝が怖いだけだ。

 やがて、あの交差点が近づく。足がすくむ。だが、あの瞬間の数分前には、もう交差点に辿り着いてしまう。全身がすくむ。怯える表情を消せないのが自分でも分かる。見渡す。

 大通りを挟んだ向こう側、オールド・カメ・ストリートの入り口近くでカンフーか何かの修行をするコトブキがいる。しばらく前から見かけるようになっていた。だが、自分からは会いには行かなかった。コトブキもヒロコのことなど気にかけていないだろう。

 コンビニの角に立って東を見る。やがてソネが視界に現れる。自分を待ち受ける運命のことなど知らず、必死に背後に迫る運命から逃走している。

 ヒロコはソネを見つめる。ヒロコはずっと前から決意していた。せめて、最後まで目をそらさずに見届ける。それも言い訳だと分かっていた。結局、見捨てるのだ。でもだからこそ、見届けなければならないと決意していた。

 ソネがヒロコの視線に気付くが、構わず全力で逃走を続けてヒロコの前を通りすぎる。そして背後から追ってくるテクノギャングを振り返りながら横断歩道を渡り始め、ドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折するトラックに撥ね飛ばされた。ソネは宙を舞いながら絶叫した。

「ペケロッパ!」

 そしてコンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。

 大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ。すぐさま、テクノギャングがソネの遺体を路地裏に運び去った。

 ヒロコは一人で耐えようとした。だが、その人の姿を探し求めるのを止めることができなかった。たとえ命のない人形だと分かっていても、無理だった。

 ヒロコは振り返り、通りの向かい側の大トリイにその人の姿を探し求める。コトブキと目が合う。


___________


 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように大トリイの向こうに広がる光景を眺め、通りの向かいのコンビニの角に立つ見知らぬ少女がコトブキを見ていることに気付いた。

 コトブキはいつものルーチンを中断し、その少女を見守った。やがて少女は東の方向をじっと見つめ始めた。少女が見つめる先から、テクノギャングに追われて必死に逃走する貧相な男が現れた。

 男は少女の前を通りすぎ横断歩道に差し掛かったところで、西から走ってきてドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折したトラックに撥ね飛ばされた。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

「ペケロッパ!」

 そして被害者は、コンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ。あの少女を除いては。

 その少女は、コンビニの近くで棒立ちになり、被害者が落下した方向を向いている。すぐさま、テクノギャングが被害者の遺体を路地裏に運び去る。そして、棒立ちのままの少女が……いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が……コトブキのトモダチの少女が……いや、トモダチになるのは明日だったはず……突如ニューロン内に矛盾した複数の想念がわきあがり、コトブキは戸惑った。振り向いたその少女と目が合った。

 コトブキは戸惑いを残したまま、傍らの師父を見た。師父はいつもの笑みを消して目を見開き、コトブキと同様に通りの向こうの光景を見つめていた。ややあって、師父はコトブキへと振り返り、しばしコトブキと無言で見つめ合った。そして師父はコトブキの目を見据えて、力強く頷いた。

 コトブキは理解した。そして自我の赴くままに、複数の想念の中から最も望ましいものを選び取った。コトブキは師父に向かって拱手包拳オジギをして師父の前から退き、カンパチの大通りを渡る横断歩道を目指した。

 コトブキは横断歩道の信号がグリーンになるのを待った。その前からずっと少女はコトブキを見つめていた。コトブキが横断歩道を渡ろうとしているのを知って、少女の顔がわなないた。少女は無言でコトブキに訴えていた。コトブキは少女に優しく頷き返した。

 信号がグリーンになった。コトブキは横断歩道を歩んだ。少女は一歩も動けず、ただコトブキを待ちわびていた。横断歩道を渡り終え、少女の前に辿り着いた。少女はコトブキに倒れこむように崩れ落ちた。コトブキは少女を受け止め、少女と一緒に歩道に跪いた。

 少女はコトブキの胸に顔を埋めた。そして、コトブキの胸で声をくぐもらせながら、不規則な痙攣とともにごうごうと獣が唸るような声を上げて嗚咽した。

 少女の嗚咽を受け止めるうちに、また別な想念がどこからか降りてきて、コトブキは悟る。少女は自ら罰を欲し、それが叶えられないことに泣いているのだ。そして気付いていないのだ。あの、誰からも顧みられない不幸な男のために涙を流すのは、地上にただ一人、この少女だけであること。それ故に既に赦されているのだということを。あとで、教えてあげよう。いつか泣き止んだら。その時を想像してコトブキは思わず微笑んだ。

 少女の頭部の器官が分泌し得るありとあらゆる液体が嗚咽とないまぜとなってアオザイの胸元を濡らした。コトブキは微笑みながら少女を抱きしめ、その心臓の鼓動を感じながら瞼を閉じた。いつの間にか溜まっていた涙が溢れ、頬を伝った。あの日、数多くの仲間が虐殺された日にも流れなかった涙。コトブキは何も不思議に思わなかった。涙を、トモダチの頬の上に落ちるがままにした。

 少女の嗚咽がやがて、いつ果てるともしれぬ啜り泣きに変わる。より強く、トモダチの少女を掻きいだく。自分に涙を流させるその心臓の鼓動が心底羨ましかった。

 ふと気付くと、視界の片隅に「流れる自分の涙」のアンロックを告げるシステム通知が点滅していた。それもやがて消えた。

 そしてなぜか、コトブキは、自分に涙を流す機能があることを、ほんの少しだけうしろめたく思った。




【ペケロッパ・カルト】 終わり