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「The Favourite」(邦題:女王陛下のお気に入り)だらだら感想


久々に作ってる側が観客の理解を積極的に拒んでくる作品に出くわして困惑。困惑してるんだけど困ったことに面白かったんで、困惑したまま思いついた順に書く。予告編に無駄に盛られたナレーションやテロップや邦題がクソとかそういうのはもう言い飽きたのでそのへんはすっ飛ばす。

スクリーンに展開する表面的な要素だけ見てこの映画を「政治を風刺したコメディ映画」だとか言ってるような映画評論家がいたら、そいつのことは今後一切無視して良い。唐突なフレッシュトマト投げつけられおじさん(あれトマトだよね? 違ったらごめん)とか街で最速のアヒルとかのどこが政治風刺なんだ? 王室とか議員とかがバカとして描写されてて笑えるから「あっ政治風刺!」って飛びついてそれだけって奴は評論家を名乗るに値しない。まずは、そういう評論家の何がダメかっていう理由を説明する。

そもそも「政治を風刺したコメディ映画」だなんて言ってる奴の何が問題かっていうと、びっくりするくらい映画の表面的要素しか見てなくてサブテキスト(いわゆる行間に書かれてることみたいなもん)が本当に評論家なのかよってびっくりするくらい読めてない。だからこの映画のメインストーリーラインが何なのがが、本当に一切理解していない。理解してないから「政治を風刺したコメディ映画」とかいうトンチンカンなことを平気で言う。

映画の脚本とかストーリー構築とかについての本なり何なりを少しでも読んだことがあるなら常識のはずなんだけど、メインストーリーラインとは、主人公の内面の変化を通じて最終的に主人公の真の姿が示されるものだ、っていうのが基本。無論例外もあるけど、この基本を踏まえて映画とかのフィクションを読み解くのは普通なら当たり前のはず。

この基本を踏まえると、本作の主人公はアン女王だし、本作のメインストーリーラインは、幼い頃から迫害とディスリスペクトを浴びせられ続けた結果、ただ女王の地位にあるってだけで人間性を剥奪された状態の女王が、ストーリーの進展と共に人間性を回復して、ラストではその真の姿を観客に示すっていうストーリーになってるのは明白。本作を「政治を風刺したコメディ映画」だなんて説明は出てきっこない。

要するに、びっくりするくらい映画の表面的要素しか見てなくてサブテキストが一切読めてない映画評論家は、このメインストーリーラインの存在すら全く読み取れてない。だから本作を「政治を風刺したコメディ映画」だなんて平気で書く。しまいにはエマ・ストーンとレイチェル・ワイズのマウント合戦とか王女の取り合いみたいなレイヤーでしか映画を紹介できない始末だ。つまり、そういう評論家は、映画を作る側がどういう意識で作ってるのかみたいなことを知ろうともしないし考えようともせずに映画の評論が出来ると思ってるせいで脚本術についての有名な本とかすら読んだことがない。その結果、サブテキストを読むってことが一切出来てない。まじで評論家やめてしまえと思う。

本作観れば明白だけど、レイチェル・ワイズはハト射殺クソビッチだし、エマ・ストーンはエマ・ストーンで最後にはウサちゃん虐待クソビッチなのが判明するだけで、ストーリーの進展に伴う内面の変化を通じて真の姿が明らかになるみたいな部分ないでしょ? 表面的なプロットのメイン部分を担うのはハト射殺クソビッチとウサちゃん虐待クソビッチの抗争だけど、サブテキストを通じて語られるメインストーリーラインは王女の物語なの。サブテキストによりストーリーを語るっていうのはハリウッド映画脚本の指南書みたいなの読んだらどの本にもワンパターンで繰り返されてる(こういうサブテキストを欠いてるとストーリーに厚みや奥深さが出ないから要注意! みたいなことがどの本読んでも書かれてる)。なのに一切サブテキストを読まずに本作のメインストーリーが何かって程度のことすら読み取れない評論家はプロを名乗る資格ない。

じゃあ自分がこの映画を理解してるかっていうと、恥ずかしいことにこれが全然自信ない。どうしてかっていうと、これも映画評論家の奴らが一切指摘してないんだけど、本作の表面的要素は、とにかく一切合切が狂ってる。ダイアローグのやりとりとかだけ見たら普通なのに、そういう会話とかプロットから常に乖離したビジュアルやらイベントやら劇伴が展開する。この狂気が理解できない。

これがどれだけ狂ってるか。まず基本、時代考証とか言う奴は殺す! って勢いで徹底的に破壊的なビジュアルになってる。王女の寝室ひとつをとってもアウトサイダーアートかよってくらいに支離滅裂な内装だし、家具の配置だとかの一切が奇妙にずれてゆがんでるので、観てる観客としては不気味さすら感じる。

んで、ロッキーホラーショーかよみたいな国会議員集団から始まって、王女もハト射殺クソビッチの衣装もウサちゃん虐待クソビッチもまとめて衣装がストーリーが進むにつれて更にめちゃくちゃになってって、なんかこう、ディック的な歪んだ平行世界を見せられてるような不安感がますます高まる。

そんなビジュアルの中で挿入されるシーンときたら、街で最速のアヒルレースだとかエマ・ストーンが繰り出す股間破壊ムーブだとかフレッシュトマト投げつけられおじさんだとかだし、ニコラス・ホルトも大蔵大臣みたいな奴も徹底的に分かりやすいバカとして登場してきてバカアピールしかしない上、ダンスホールではバカ丸出し以外の感想が出てこないダンスが執拗に描写されて完全に乖離してる劇伴が大仰にがなり立てられるっていう調子で映画が進む。

こういう調子で余りに狂ってるので、たしかに唐突な笑いの発作に襲われる場面は何度もある。だけど、これは絶対にコメディ映画じゃない。笑える絵面は何一つストーリーに言及してなくて、ダイアローグ等を通じて示されるプロットとビジュアルと劇伴等々が常にお互いを裏切り合っていて、直接言及されないドーナツの穴の部分に位置するのが女王っていう構図。そういう構図で、バカの連続が女王の視点から見るとどういう世界として目に映るかっていうのがサブテキストで語られてる。そこは分かる。分かるんだけど、なんでこんなに狂ったバカの連続が必要なのかが全く分からない。

何より狂ってるのが、いろんな狂った道具立てで展開される表面的なプロットがヤクザ映画のロジックで動いてること。親分の下にいるライバル関係の若いもんが親分を利用したりおだてたりしつつ争うけど最終的には若いもんよりも親分のほうが一枚上手だった……って、こういう共依存関係で構成される閉鎖社会で裏切り合いだまし合うって仁義なき戦いかよ。なぜそういう話にしたのか理解できない。

要するに、自分はなぜ本作がここまで徹底して乖離を貫くのかが全く分かんない。この映画の監督のことはよく知らないけど、間違いなく一番やばいタイプの狂人だ。自分がナチュラルに正常だと思い込んでるあれ。よく映画に出てきた犬とか猫が出演者の末尾にクレジットされたりされるあれは、普通なら遊び心って扱いだけど、本作では出演者の中に「街で最速のアヒル ホレイショー」が普通に紛れ込んでる。監督はそれを少しも変だと思ってない様子なので怖い。

こんなふうに、自分はストーリーが理解できても映画としては全く理解できない。それなのに、超狂ったビジュアルとかで英国王室バカ合戦みたいなのがどんどん展開するからそれだけで面白くてゲラゲラ笑った。笑ったけど、それがメインストーリーとどうも結びつかないから困惑してる。けど面白かった。「政治を風刺した映画で笑えてスッキリしたから、明日からも頑張って抑圧されるね!」みたいな感想は浮かばなかった。ただ政治を笑いものにするだけの映画は単なる底の浅いポルノだけど、本作はそうじゃないということだ。そのへんが分からない映画評論家は反省しろ。


終わり



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