【ペケロッパ・カルト】 破 # 7~9


(承前)


# 7


 生まれて初めて足を踏み入れるヤクザバーの店内は、想像していたよりもずっと清潔で、そして無機質だった。腹に響く重低音のビートに乗せたエンカの店内BGM。左手から奥にかけての壁際に並んだボックス席はすべて人数比1対2のヤクザとゲイシャで埋まっている。ミラーボールで照らされるフロアには金属ポール。

 店内に数歩足を踏み入れたところで、突然コトブキが立ち止まった。ヒロコはコトブキの脇から声をかけた。「どうしたの?」ニンジャスレイヤーも振り返った。コトブキは小刻みに震えて固まっている。ヒロコはコトブキの顔を見た。予想に反し、コトブキは感動に打ち震えながら、入口から見て右手のカウンターを見つめていた。

 ヒロコもコトブキの視線の先を見た。カウンター内では、青白いLED照明に照らされた透明な材質の棚と「乾杯っ!!」「晩酌気分一緒に」の小ネオン看板を背にして、逆U字髭をたくわえた凶相のメキシコ男がグラスを磨いていた。コトブキがつぶやいた。「……トレホ=サン……本当にいたんだ……!」

 その言葉の意味をヒロコがコトブキに訊ねようと思う間もなく、コトブキはソネを繋いだロープを取り落とし、凶相のバーテンに駆け寄って、携帯IRC端末を取り出しながら話しかけた。「トレホ=サン! 撮影許可いいですか?」

 なぜかトレホと呼ばれたバーテンは目をしばたたいて、入り口付近に立ち止まったままのニンジャスレイヤーを見た。ニンジャスレイヤーの口が「スミマセン」の形に動いた。ヒロコはロープを拾った。コトブキはバーテンの返事を待たずに端末を頭上高く掲げて自らとバーテンをフレームに収めようと位置調整した。

 ヒロコはあのバーテンがコトブキに何をするか気が気でなかったが、バーテンはシャッターに合わせて端末を睨み、殺人者そのものの表情になって見せた。コトブキはしきりにバーテンに礼を言いながらバーテンの真正面の席に座った。

 バーテンは再び元の凶相でニンジャスレイヤーを見た。ニンジャスレイヤーは小さなため息とともに店内を進みコトブキの左隣に席をとった。ヒロコは思わずソネと顔を見合わせた。ソネはヒロコに向かって肩をすくめた後、コトブキの右隣の席に向かった。ヒロコはさらにその右の席におずおずと座った。

 バーテンはカウンター席を順に眺めた。その凶相を通してですら、バーテンが思考を放棄したことが伝わってきた。ヒロコは、今日ほど出会う人全員から珍獣を見る目で見られることはもうないだろうと思った。バーテンはグラスを磨く手に目を落としたまま、サツバツとした声を発した。「……注文は」

 ニンジャスレイヤーとコトブキの声が被った。「ミルクを」「ミルクを!」ニンジャスレイヤーは強いてコトブキに目を向けようとしなかったが、コトブキは破顔し、ニンジャスレイヤーの背中を手のひらでぱんぱん叩いた。「さすが、わかってますね!」ソネが注文した。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「ケモスタウト」の表示。バーテンがヒロコを見た。ヒロコは怯みつつも答えた。「……あたしも、ミルクで……」

 バーテンはシャムロックで飾られた有翼四つ足神話ケモ動物のオーナメントを備えたビアタップからパイントグラスに緑色発泡液を注ぎ、次に他の者のミルクを注いでヒロコたちの前に並べた。そして、泡立つパイントグラスを無言でしばらく睨んだ後、ソネの前に置いた。

 ソネは早速、手首を縛られたままの状態にやや苦労しながらも、パイントグラスを両手で掴み、喉を鳴らして緑色ケモ液体を飲んだ。ニンジャスレイヤーは目の前のミルクをしばらく眺めてから、結局、儀礼的に一口飲んだ。そしてバーテンに向けて口を開いた。

 「ペケロッパ・カルトを知っているな?」

 その途端に店内BGMが鳴り止み、ボックス席のヤクザたちの目が一斉にカウンターの新参者に注がれ、バーテンがカウンターの下からショットガンを取り出す……という光景がヒロコの脳裏をよぎった。だが、実際には何事もなく、バーテンは再びグラスを磨きながらニンジャスレイヤーに答えた。「下だ」そしてソネをちらりと見てから付け加えた。「無害でアワレな連中だ。何を揉めてんのか知らんが、あまり苛めてやるなよ」

 ニンジャスレイヤーがバーテンを見る目をすがめた。バーテンはニンジャスレイヤーの視線に気付き、答えた。「別に隠すことじゃねえ。俺のボスが……このビルのオーナーがフロアの一つを連中に貸してる。何を一生懸命お祈りしてんのかは知らねえが、サケやオイラン遊びに無駄金を使うようなやつらじゃねえから、家賃の支払いも滞りない。上客だ」

 早々にパイントグラスを空にしたソネが口を挟んだ。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「もう一杯頼む」、次いで「こいつらにツケてくれ」の表示。バーテンの口角がわずかに持ち上がった。ソネは笑顔になった。

 バーテンは新たなパイントグラスにビアタップの液体を注ぎながら、外見よりも上機嫌な口調で続けた。「実際、時々訳が分かんねえことする連中だから戸惑うこともある。こないだなんか、借りてるフロアの壁に大穴開けやがった。とっちめて修理代を払わせようと思ったら、奴ら、放棄された旧世紀の巨大地下放水路か何かに通じるトンネルを掘ってた。放水路はネオサイタマのあちこちに繋がってるらしい。オーナーに報告したら、不問にするだとさ」

 パイントグラスを睨むバーテンが、ヒロコが浮かべた疑問の表情に気付いて、今度ははっきりとニヤリと笑った。仕事柄、あの凶相でも必要に応じて饒舌になれるのだろう。「企業の横流し品やら何やらを扱うスマッグラー(訳註: ここでは運び屋あるいは密輸業者の意。同名のニンジャは無関係)に使わせて使用料をとるんだよ。もちろんオーナーがだ。ペケロッパの連中はあのでかい空間でお祈りしてるだけで、横を誰が通ろうが気にもしねえ」

 ニンジャスレイヤーもコトブキも、もはや意外そうな表情を隠そうともしていなかった。バーテンはソネの前に新たなパイントグラスを置き、余裕の笑みで新参者たちを眺めた。「だからな、ヤクザのビジネスってのは、別に隠すもんじゃねえんだよ。一応ヤクザにもメガコーポにもタテマエってもんがあるからな、企業警備員の目の前でこれ見よがしに横流し品を運ぶようなことはしねえよ。だが、ヤクザがメガコーポにお目こぼしをもらってるわけじゃねえんだ」

 今やバーテンは教師役を楽しんでいるかのようだ。ヒロコはバーテンの瞳が知性で澄んでいることに気づいた。「あんたらにゃ気付かねえ社会の仕組みってのがある。ヤクザはネオサイタマのインフラだ。メガコーポの支配が及ばない個人の領域のな。人畜無害なサラリマンでも、自分のカイシャに不満を持つ奴はいくらでもいるから横流し品だって絶えねえんだ。それが気に入らねえからってカイシャがヤクザを攻撃するなら、そりゃ筋違いってもんだ。製品が横流しされたせいで生じるメガコーポの損失ってのも、マクロの視点から見りゃよ、ヤクザの秩序に必要なコストのためにメガコーポが負担する、一種の税金だ」

 「……そういうものか」ニンジャスレイヤーの声はお世辞には聞こえない。「礼なら、そこのお嬢に言ってくれ」バーテンが目でヒロコを示した。ニンジャスレイヤーも横目でヒロコを見た。「偉そうにレクチャーさせてもらったのも、正直に言えば、そこのお嬢の目が気に入ったからだ。自らの意思で為す者の目だ」

 バーテンは、そのメキシコの瞳に宿ったヤクザの知性の光をヒロコに向けた。「もし、あんたが奴隷の生活に飽きたなら、いつでもここに来るといい。仕事を紹介してやる」ヒロコは固まった。自分が褒められているのか馬鹿にされているのかも分からない。

 バーテンはヒロコの反応を予測していたようだ。「俺は勿論あんたを褒めてるんだ。奴隷呼ばわりされんのは誰だって嫌だよな。だがそれが、あんたが学校で教えられない事実だ。あんたも学校で散々愛社精神がどうとか聞かされてるんだろうがな、いいか、そんなもん全部ブルシットだ」

 「エッ……」ヒロコは思わず声を漏らした。バーテンはヒロコの水兵服に刺繍された企業ロゴに顎をしゃくった。「学校じゃ、教育費も医療費も無料なのは所属するメガコーポのおかげとか言われてるんだろ? だがな、こう考えてみろ。もしあんたが奴隷の所有者だとして、自分の奴隷が病気にかかって医者に連れてくときに、奴隷から医療費を取るか? 奴隷の生産性を上げようと思って教育を受けさせるのに、奴隷から学費を取る奴がいるか? 奴隷小屋の家賃を奴隷から取る奴はどうだ?」

 余りに異質なヤクザの思考をヒロコはすぐには飲み込めなかったが、しばらく無言で考えて、分かりかけてきた。結局、ヒロコの親たちの苦労も知らずに、ヤクザの地位をかさに着て人を馬鹿にしているだけだと感じた。ヒロコは反論しようとした。「だけど……」

 だがバーテンは断固とした口調で続けた。「そりゃ昔に比べたらずいぶんと生活が楽になったサラリマンどもも大勢いるだろうよ。だがな、昔の、サラリマンが奴隷未満の生活を送ってた時代ってのは、たとえ中身は絵空事でも、少なくとも人権っていう言葉、その概念が必要だった。聞いたことくらいはあるだろ?」

 授業で教えられたそれは、かつて国家が権力を独占するために市民の前にぶら下げた人参だ。バーテンは自分で手元のショットグラスにバーボンを少量注ぎ、見えない誰かに向けた小さなカンパイをして、呷った。「そんな絵空事のために国家やら法律やらの面倒事を抱えて、ほとんどの奴らは結局苦労しかしなかったとしてもだ、人間が、自分が奴隷じゃねえってことを証明するためにこそ、その苦労が必要だった」

 ヒロコは悔しさに押し黙り、目を伏せた。だが同時に、自分が何のために反論したいと思っているのか分からなかった。コトブキが見かねて口を挟んだ。「……トレホ=サン」バーテンはコトブキを見てまばたきした。「トレホ」が自分のことだと思い出したらしく、バーテンの口調が和らいだ。

 「いや、悪かった。俺が何をどう言おうと、どう考えるかはお嬢、あんた次第だ。結局、国家も法律も無いなら無いで世の中はそれなりに回る。どいつもこいつも自分が奴隷かどうかを気にしなくっても平気な、メガコーポとカネモチが談合で世の中のルールを決める今の世界は、歴史的観点から言えば、古代ギリシャあたりの直接民主制への回帰だ。人によっちゃあ結構な世の中なんだろうな」

 内心の悔しさよりもこのバーテンへの興味が勝り、ヒロコは顔を上げた。メキシコの瞳に、いたずらっぽさが垣間見えた。「意外か? 見どころがあるやつなら、ヤクザクランが学費を持ってくれる。俺もそれで通信制大学を終わらせた。社会を支えるヤクザの使命に興味が湧いたら、いつでもここにきて、あんたもそうするといい。俺がボスに推薦してやるよ」

 ニンジャスレイヤーがふと顔を上げ、しばらく頭上に目を向けた後、バーテンに言った。「……勉強になった」そして、パーカーの腹部ポケットから何やら紙片を取り出して無造作にカウンターに置いた。ヒロコは我が目を疑った。カウンターに置かれたのはオーパーツめいた万札だ。バーテンが万札を見て軽く顔をしかめた。「そういうのは、俺は正直嫌いじゃない。が、若いうちから余り格好をつけすぎるのも……」その時。

 「待たせたな」バーの入り口の方向から声が聞こえた。コルヴェットの声だ。入口の方向を見たコトブキの顔がこわばった。コトブキの表情を見たバーテンが入口に目を向け、凶相を珍妙な具合にゆがめた。ヒロコは右後方、入口の方向に身をひねった。コルヴェットと並んで、なぜかタキが立っていた。外出のために着替えたのだろうか。その清潔なTシャツには大きく「ことぶき」と書かれている。

 ソネは「ことぶき」Tシャツを着たタキを見て即座に爆笑した。「ペッ! ペッペッペ! ケロッパ!」ソネは手首を縛られた状態でハンドクラップしながら身をよじってヒロコたちを見回した。サイバーサングラスには「バカだこいつ」の表示。再びヒロコは入り口を見た。タキは俯いた。ヒロコの左後方からくぐもった声が聞こえてきた。ヒロコが振り向くと、ニンジャスレイヤーがカウンターに突っ伏すかのような姿勢でこちらに顔を背けつつ、漏れ出す笑いを押し殺そうと奮闘していた。ヒロコはつられて噴き出した。

 コルヴェットは一同の反応を満足げに見渡してから、芝居がかった仕草でタキを示した。「主賓のご到着だ」そしてバーテンに向け、通貨素子を親指で弾いた。「スリヴォヴィツェを」片手で素子を受け止めたバーテンは金額を確認し、わずかに眉を持ち上げた。「ボトルでか?」「いや、一杯でいい。カウンターの連中の分もそれで。余りは、少ないが取っといてくれ」

 バーテンはカウンター上の万札をつまみ上げた。「ああいうのを見習え」言いながら、ニンジャスレイヤーの目の前に万札を立てた。ニンジャスレイヤーは笑いを収めてバーテンに頷き、素直に万札をポケットに仕舞った。

 バーテンはヒロコの右隣にショットグラスを置き、琥珀色がかった透明の液体を注いだ。甘い果実と深い森を思わせる香りが漂った。その席にコルヴェットが座った。「オレも同じのを」タキが精いっぱいタフガイを気取りながらコルヴェットの右隣に座った。バーテンがもう一個ショットグラスを置いて注いだ。

 「カンパイは省略させてもらう」コルヴェットはショットグラスをイッキした。タキはそれに倣ったが、すぐさま下を向いてむせた。注文した液体のほとんどが「ことぶき」Tシャツに吸収された。「コルヴェット=サン」抑えきれない怒気がこもった低い声でコトブキが訊ねた。コトブキはタキを指さした。「何故、その人がいるのですか」

 「いや、それがな、予定通りに例の路地でシーカー=サンとお会いしたのだが……」そこでコルヴェットがソネの視線に気付いた。ソネはコルヴェットに軽く首を振って見せた。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「仕方ない」、次いで「気にするな」の表示。

 コルヴェットはソネに頷き返して謝意を示してから続けた。「……そのシーカー=サンなのだが、なぜだかその時、こう」コルヴェットは両腕で物を抱えるジェスチャーをした。「両のかいなにだな、あたかも愛しの姫君をいだくがごとく、タキ=サンを抱えておったのだよ。つまり、俺にも理由はよくわからん。詳しくはタキ=サンに聞いてくれ」

 「それはやめておきます」コトブキの声は冷たい。タキは強いて顔を上げてバーテンに注文した。「ケモラガーくれ」バーテンはタキを見て、息を飲むような音を立てた。コルヴェットの目に憐憫の情が浮かんだ。「まあとにかく、シーカー=サンの腕がタキ=サンでふさがっていたせいで、予想よりも随分と楽にシーカー=サンの用事が済んだ」ソネは無反応。

 コルヴェットは軽く咳払いした。「正直に言えば、タキ=サンをその胸に抱いていたシーカー=サンの心情を思うとな、実際、俺も忍びない心持ちがする」そして沈痛な面持ちでソネに向かって胸の高さに片手チョップを掲げた。「すまんな。本当にすまん」

 「移動しましょう」コトブキがタキに凍るような目線を送りながら言った。そしてヒロコを見た。「ここにいては危険です」例によってタキが喚き散らすかと思ったが、意外にもタキはおとなしくジョッキを啜っている。「コトブキ=サン、そこまで言わなくても……」「その人が着ているのは、わたしが普段着用しているTシャツです」その意味を理解し、ヒロコは文字通り総毛立った。スケベ犯罪者の実物を直に目にするのはこれが初めてだった。しかも、これほど間近に……

 ……ヒロコのニューロン内では、スケベ犯罪者の姿に重ねて無数の赤い警告メッセージが表示された視界モニタを前に、顔面上半分を超自然の細縦縞で覆われたカートゥーンヒロコが棒立ちになっていた。その足元にアルファ小カートゥーンヒロコが現れ、背伸びをしてカートゥーンヒロコのスカートの裾を引き、無邪気に訊ねた。「そいつは今、誰の下着を履いているのかな」カートゥーンヒロコは声にならぬ絶叫を上げてアルファ小カートゥーンヒロコを乱暴に蹴り飛ばし、力なくうずくまって頭を抱える……

 ……ヒロコは恐怖に突き動かされ、無意識のうちにカウンターの椅子を降りてコトブキの背に隠れた。タキが吐き捨てた。「さっさと行けよ。お前ら全員、オレの前から消えてくれ」コルヴェットが椅子を降りた。「しばらく、そっとしておくのが良いな」そしてバーテンダーに言った。「好きなだけ飲ませてやってくれんか」

 バーテンはコルヴェットに目で応じつつ、ニンジャスレイヤーに小声で伝えた。「奥の突き当りの左の階段だ。一番下、地下9階まで行け」ソネが椅子を降り、タキに歩み寄ってその肩に手を置き、慰めの言葉をかけた。「ペケロッパ」サイバーサングラスには「気持ちは分かる」の表示。そして他の面々に振り返り、頷いた。

 一行はオツヤじみたアトモスフィアに包まれ、移動を開始した。化粧室の扉を通りすぎ、緑色で階段のマークが描かれた鉄扉を開ける。吹き抜けを囲んで、踊り場で90度ずつ曲がるスチール階段がはるか下まで伸びている。いつの間にかニンジャ装束姿になったニンジャスレイヤーが無言で前に出て先導を開始した。

 階段を降りるほどに気温が低下する。壁面にのたうつようなケーブルの束が現れ始める。やがて、ケーブル束は壁面を覆いつくし、危険異星生物に占拠されたLV−426めいた様相を呈する。弱々しい照明が時折バチバチと火花を飛ばす。

 そして一行は吹き抜けの底に至った。扉は「九」のカンジが描かれたフスマが一つのみ。施錠はされておらず、あっさりと開く。ニンジャスレイヤーが内部を見て暫く警戒したのち、振り返って一行を促す。扉の先には、やはり不気味なケーブル類で覆われた壁に挟まれた細い通路が続く。低い天井からもケーブルや黒い磁気テープが垂れ下がり、一行は原生林を掻き分けるかのように歩みを進める。

 左右に一度ずつ折れ曲がって進んだところで、タタミ20畳ほどの空間に出る。無人。天井から手術台めいた照明。壁際には天井まで旧世紀UNIXのパーツが積み上げられている。左手の壁の中ほどだけジャンクの山に覆われていない部分があり、立てたタタミ1枚ほどの大きさの穴が雑に空けられている。

 ニンジャスレイヤーが壁の穴に向かう。コトブキと相変わらずロープに繋がれたソネが続く。ヒロコは今更迷った。この先に自分まで進む必要はあるだろうか。だが、一人でこの空間に取り残されるさまを想像してとたんに気を変え、小走りになってコトブキの背に追いついた。

 地中を掘ったままのでこぼこの通路を進み、分厚いコンクリート壁を刳り抜き取り付けられたシャッターフスマに至った。先頭のニンジャスレイヤーが近づくと、シャッターフスマがひとりでに左右に開いた。ニンジャスレイヤーに続いて一行はコンクリート開口部をくぐった。

 そこは整然とコンクリート柱が並ぶ巨大な空間だった。オニタマゴ・スタジアム何個分になるのか見当もつかない。はるか頭上の天井にぽつぽつと見える照明は決して弱いものではないのだろうが、コンクリート床に届く光は一行の姿をぼんやりと照らすだけだ。タタミ50枚ほど先の空間に人影が見える。

 ニンジャスレイヤーとコルヴェットが並んでその人影に向かった。ヒロコたちはタタミ10枚ほどの距離をおいて続く。徐々に人影のディテールが明らかになる。フード付きのローブをまとった長身の男がこちらに背を向けている。ヒロコには、あの男だと分かった。その周りを何らかのオブジェが囲んでいるが、近づくにつれ、それが座った人間だと分かる。

 ニンジャスレイヤーとコルヴェットはローブの男からタタミ5枚ほど離れたところで立ち止まった。ヒロコたちは柱の陰から見守った。ローブの男は、コンクリート床に描かれたドヒョー・リング大の魔方陣めいたザゼン数式の中心に立っている。ローブの男を囲むのは、五芒星の頂点の位置に配置された、ガスマスクを装着し並列サークルLAN直結した5人のペケロッパ信者たちだ。アグラ姿勢でゆらゆらと上体を揺らし、ヒロコたちに気づく様子は全くない。

 そして……ローブの男が、フードを脱ぎながらゆったりとニンジャスレイヤーらに向かって振り返った。青白い肌に長いオールバックの銀髪。首から下は大部分がチタン色に鈍く輝くサイバネに置換されている。はだけたローブの胸元から覗く、わずかに残る左胸の生身の肌には「色即是空」の太ミンチョ体タトゥー。

 男は手にしたリモコンのボタンを押した。ガコンプシュー。ヒロコたちの背後で、先ほど通ったシャッターフスマが気密密閉された。そして男が、瞳のない真っ白な目に微笑みらしき表情をたたえて、ニンジャスレイヤーらにアイサツした。「ようこそペケロッパの家へ。お待ちしておりました。私はアルケミーです」ニンジャスレイヤーらがオジギとともにアイサツを返した。「ニンジャスレイヤーです」「コルヴェットです」

 ニンジャスレイヤーが口を開いた。「まるでおれたちが来るのが分かっていたような口ぶりだな」アルケミーは答えた。「そのことはまたいずれ。それよりも」アルケミーは柱の陰、ヒロコの傍らにいるソネに目を向けた。「ソネ=サンを保護して頂いたようで、ご迷惑をおかけしました」

 ニンジャスレイヤーはアルケミーを睨む目を細めた。アルケミーは鷹揚に笑った。「実際、私の目の届かないところで交通事故にでもあっているのではないかと、いつも気が気でないのですよ」「分かっているとは思うが、別に親切でソネ=サンを連れてきたわけじゃない」「勿論、交渉に応じるのは吝かではありませんよ」「立場を分かってないようだな。こちらの要求にあんたが応じるのかどうかだけが問題だ」

 アルケミーは余裕の態度を崩さぬ。「ソネ=サンの扱いを見る限りですが、あなたたちは彼がどれほど重要な存在か、ひいては私たちが目指すものの価値がどれほどのものかを、知らないのでしょう」「カルトの教義などクソどうでもいい」ニンジャスレイヤーは冷たく返した。アルケミーは頷いた。「それも仕方のないことです。人類の大多数が深淵なるペケロッパの教えをゆえなく軽蔑し、あるいは無視しているのですから」「何が言いたい」

 アルケミーは二人のニンジャに向かって歩いた。ニンジャスレイヤーとコルヴェットは身構えた。だが、アルケミーは魔方陣数式を歩み出たところで立ち止まった。「お話したいのは、これです」そして懐に手を差し入れ、何かを取り出しながら、コンクリート床に片膝をついた。

 ニンジャスレイヤーらが見守る中、アルケミーは取り出した物体を埃っぽいコンクリート床に置き、ニンジャスレイヤーらに微笑みかけた。床に置かれたのは、平凡なツルのオリガミだった。

 それを見たコトブキが、いきなりオリガミを指さして叫んだ。

 「映画で見ました!」


# 8


 ヒロコは、素っ頓狂な叫び声を上げたコトブキを思わず見たが、コトブキは至って真剣な面持ちでオリガミを注視していた。ニンジャスレイヤーもまた、オリガミを前に床に跪く狂人から目線を外さない。「……馬鹿にしているのか?」

 アルケミーは微笑みを浮かべたままだ。「とんでもない……ところで、あなたはオリガミについて考えたことがありますか?」ニンジャスレイヤーがなぜか絶句した。ヒロコが訝しむ中、ニンジャスレイヤーがやや間をおいて苛立ち交じりの声で答えた。「……おまえの知ったことか」

 アルケミーはニンジャスレイヤーの返答を聞き、意外そうに軽く片眉を上げたが、すぐに元の表情で床の上のツルを撫でるかのような仕草を見せた。ツルは折り目のついた正方形の紙片に変わった。「オリガミをこのようにほどけば、一見ただの紙切れです。ですが、この状態にこそオリガミの本質がある。オリガミに孕まれた膨大な情報が」「……情報だと?」

 ヒロコは軽い困惑を覚えた。ニンジャスレイヤーの様子は、まるであの狂人の話に興味を持ったかのようだ。狂人は折り目のついた紙片を指先で摘み、立ち上がった。「そう、情報です。オリガミを解さぬ者にとっては、この紙に刻まれた折り目は、単なるランダムな直線にすぎない」

 アルケミーは紙片を左掌に載せた。「ですが実際には、この折り目は、それ自体がオリガミの姿を指し示している。知っていますか? たとえ折り目とは別に折り順を指定する情報がなくとも、折り目同士に矛盾が起きぬようオリガミを折ると、おのずと完成したオリガミの姿となるのです。そして、そのようにオリガミの解を導く手順は、厳密な数学的法則に従って決定されます」

 アルケミーは再び紙片を撫でた。紙片は完成直前の、平たく畳まれたツルの姿をとった。「ですから、このように正しい折り目が与えられた紙片でさえあれば、その紙片は、あるべきオリガミの姿をとる。すなわち、オリガミの折り目とは数学的な情報の記述なのです。そして、さらにそれが二次元から三次元に拡張された場合のその情報の膨大さたるや」

 アルケミーは畳まれたツルの両翼を摘んで軽く引いた。ツルは立体的な羽ばたく姿をとった。「少しでも想像してみれば、誰もが理解するでしょう。もし、我々が普段意思疎通に使用する言葉のみによって、このツルの形をなすようにオリガミの折り目の位置を正確に記述するとすれば、どれほど大量で迂遠な記述を要することか」

 言葉だけでツルのオリガミを説明する……思わずヒロコは想像してしまった。正方形の辺の何分の何の位置から直線が伸び、その角度はどの方向で、どこまで伸びて止まるのか。それが山折りか谷折りか……そんなことを、そもそもどういう順番で書いたらいいのか見当もつかない。いや、順番は関係ないのか? 言葉の順番に意味がない言葉……たちまち考えることにうんざりした。アルケミーが瞳の無い目を自分に向けて微笑んでいることに気付き、ヒロコはぞっとした。

 アルケミーはヒロコの表情を見て満足げに頷いた。「言葉に限らず、あるいは数式によっても。それだけではありません。与えられたオリガミの折り目だけからあるべきオリガミの姿を……解を導くためには、どれほどの計算が必要か。膨大なUNIX計算資源を必要とするでしょう。にもかかわらず」

 アルケミーが再びニンジャスレイヤーに目を向けた。ニンジャスレイヤーは……わずかに後ずさり、踏みとどまった。アルケミーは笑みとともに頷いた。「……熟練のオリガミ・アーティストであれば、開かれたオリガミの折り目を見ただけで、直感的にそのあるべき完成形を紙片のうちに見いだすと言います。私は実際羨ましい。宇宙をそのように直観的に把握できる、選ばれた人々が」

 アルケミーが繰り返しオリガミを撫でた。ツルが紙片に、またツルにと姿を変えた。「オリガミこそは、数式と、その演算過程と、そしてその演算の結果を同時に体現する、完全な宇宙の縮図です。魔境に揺らぐことのないゼンの境地のごとき、可逆的に計算可能な、宇宙の、縮図。あなたたちは理解できますか……その、宇宙の姿!」

 アルケミーはツルを紙片に変えて、それを狂信者の熱狂を込めて空中に放り投げ、カシワデを打った。空中にとどまった紙片が、一瞬後にはタタミ30畳ほどの面積の、微かに黄金色に光る透き通った平面となった。アルケミーの口調に興奮が混じる。「ほとんどの人は理解していないのです。オリガミがまさしく宇宙そのものたりうることを。実際、オリガミは演算機械といえるのです。それを、もし、離散的な計算を行うコードを実行する一種のUNIXとして扱えば」

 アルケミーは指をスナップした。頭上に浮かぶ平面のところどころが卵のような形に凝縮し、やがて卵から透き通ったツルが折られ、ひとりでに羽ばたき平面上を移動し始めた。ツルは徐々に成長しながら移動し、他のツルに出会うと、そこにまた新たな卵が生じた。卵は数瞬後には新たな小さなツルとなった。

 ヒロコは唖然としてしばらくツルが羽ばたき増殖する様を見守っていたが、アルケミーが再び指を鳴らした。ツルは動作を中断した。ヒロコは我に返ってアルケミーを見た。「このように、オリガミは、世界そのものが世界それ自身を演算する一つの宇宙となります。いわば、オリガミ・オートマトンが織りなす計算世界。あるべきものがあるべきようにありのままに存在するゼンの宇宙です。そして我々が囚われているこの物質世界もまた、根底を辿ればオリガミの宇宙であるはずなのです。実際そのように解釈可能! なのに!」

 この世界が、オリガミ……ツルのオリガミを使ったオリガミ芸は確かに面白かったが、ヒロコはそろそろ狂人による世界の解釈に付き合うのに飽きてきた。アルケミーは明らかに自分の長口舌に酔っている……ニンジャスレイヤーを見た。警戒の構えを維持して微動だにしない。アルケミーの狂信的な情熱は、今や怒りさえ孕んでいた。

 「この、忌まわしき偶然に満ちた、イデアの影というにも程遠い世界! 不確定性という名の呪いの軛! 我々を支配する盲目の神!」一人熱狂に駆られて意味不明の言葉を吐き散らすアルケミーは、とうとう中空に向かって姿が見えない誰かに語りはじめた。「そう、量子のゆらぎがもたらず偶然性こそが、この世界に住まう全ての者にとっての苦しみと恐怖の根源なのです」

 ヒロコはふと思い当たり、ソネのTシャツをあらためて見る……「量子が憎い」……だが、そんなことの意味が分かってどうする。ヒロコはいい加減馬鹿らしくなってきた。

 アルケミーの語りは、もはや完全な妄想だ。「かつて、偶然性がもたらす災厄を物質世界から除くために、古代ギリシャ哲人ニンジャたちを率いて世界の理を解明しようとしたパンドラ・ニンジャ。ですが、現在ではその伝説は歪められ、災厄を封じた箱の封印を解いた愚か者の寓話として伝えられています。何という欺瞞!」

 アルケミーは嘆いた。「本来は災厄の原因である偶然性を、最後に箱の中に残った『希望』と呼ぶ欺瞞。そのような欺瞞を強いられるほどに、人は太古の昔から、偶然性こそがあらゆる害悪の根源であるという事実を恐れ、目を背けてきたのです。インガオホーとうそぶいたところで、不条理が道理を殺すというこの世界の根本的な欠陥を覆い隠すための、虚しい自己欺瞞にすぎません」

 「それがどうした」ニンジャスレイヤーの声は侮蔑を隠そうともしていない。「交渉の引き延ばしでもしているつもりか? さっきも言ったが、おれはそもそも交渉する気はない」思い出したようにアルケミーの視線が中空から正面に戻ったが、動揺の色はない。「それも欺瞞です」「何だと?」

 「あなたの要求は聞かずとも判ります。どうやって嗅ぎ付けたのかまでは分かりませんが、我々の計画をUNIXハッキングテロとでも考えて、それを中止させようというのでしょう」アルケミーはやや首をかしげてみせた。「ならばなぜ、ソネ=サンを殺そうともせず、ここまでやって来たのです?」

 「おまえが要求に応じないなら、おまえを殺せば済む話だからだ」「つまり、ニンジャは殺す。しかし、たとえ目的のためであっても、哀れなモータル(訳註:定命の者。ここでは非ニンジャの意)は殺さぬ、と」アルケミーは軽く両手を広げた。「このマッポーカリプスの世ではたぐいまれな善性、そして感性。あなたのような人こそ救われるべきだ」

 ニンジャスレイヤーの返答がやや遅れる。「……図に乗るな」「誤解です。私ごときの力であなたを救えると考えるほど、私は傲慢ではありません。あなたを救うのは」アルケミーはヒロコたちがいる柱の方向をフライトアテンダントめいて手のひらで示した。「ソネ=サンです」ニンジャスレイヤーが一瞬だけ、わずかに首を回してこちらに横目を向けた。アルケミーは動作を中断したまま空中に浮いているオリガミ・オートマトン平面に指を向けた。

 「オリガミ用紙をナノメートル厚のシートにレンキンしましたが、物質世界の制約は如何ともし難い。あれの動作を続ければ、あっという間にツルを構成する物質が不足します」ヒロコは再び黄金色の平面を見上げた。言われてみれば、平面の面積が最初よりも明らかに縮んでいる。ツルに折られた分だけ縮んだのか。

 「……ゆえに、同様の演算機械を、物質世界ではなくネットワーク、コトダマ空間で動作させる試み、ということか」この場に至り初めてコルヴェットが口を開いた。「……ソネ=サンにそれほどの力が?」

 アルケミーが頷いた。「実際、不世出の天才です。とあるコードロジストのカバルに生まれた彼は、幼少のころにオリガミの本質に気付き、密かに研究を重ねました。やがて異端としてカバルを追われた彼を見出したのが、我々ペケロッパの使徒だったのです」

 ニンジャスレイヤーは沈黙している。アルケミーはその表情を見て満足げに続けた。「彼が着想したのは、計算世界の最初の種子となる、物質世界には存在しえない数多の角度を持つオリガミ。無論、物質世界においては、コードの実行によりUNIX上で動く仮想のオリガミでしかありません。しかも現状のUNIX演算性能の制約下では、実際の動作もままならない。ですが幸いなことに、私にはそれを別な次元で現実化させることが可能なジツがある」

 アルケミーは指をスナップした。頭上のオリガミ平面がただの紙片となって舞い落ちた。「私のジツは、コトダマ空間を経由させることで物質の構成を変換するものです。が、敢えて、コトダマ空間から物質世界への現出の段階を省略すれば……」アルケミーが再度カシワデを打った。アルケミーの足元にあった紙片が01の風となって消えた。「物質世界の存在をコトダマ空間内の存在に変換できます」

 「成る程。つまり、ソネ=サンのコードを実行するUNIXをコトダマ空間上の存在に変換し、自ら世界を形作るオリガミの仮想機械を、コトダマ空間に現実化させる、と」コルヴェットの声は深い懸念を滲ませている。「だが、それはネットワークのありかた自体の改変ではないか? ネットワークを基盤として動作するUNIX機器への影響はどうする?」

 アルケミーは熱心な教え子を見るかのごとき表情で答えた。「そのようなもの……勿論、新たな宇宙への移住のため、私のジツと連携する一部の特殊UNIXはスタンドアロンで確保します。ですが、その先は、もはやネットワーク利用のためのUNIXがそもそも不要。計算資源となるエテルは無限。その地平は無限遠の彼方。その次元において、コトダマ空間に満ちるエテルの流れを直にオリガミし、あるべき世界を思いのままに現実化する、新たな宇宙に変えるのです」

 アルケミーはほとんど得意げに両手を広げ身を反らせた。「そしてついに今日! ソネ=サンは長年に渡るコーディングを完遂させ、宇宙の種子たるオリガミをインストールしたUNIXを、我々のもとに運んできたのです!」その時。

 「ゴメンナサイ!」またもやコトブキがコンクリート柱の陰から唐突に叫んだ。アルケミーが思わずコトブキを見た。コトブキは縛られたソネの手首を掲げて、ソネの左腕に装着されたハンドヘルドUNIXをアルケミーに示した。「さっきぶっ壊しちゃいました!」

 アルケミーの顎が落ちた。コトブキはアルケミーに向かって、ぎゅっと目を閉じ顔の前でしきりに両掌を擦り合わせた。ソネが呆れた様子で口を開いた。「ペケロッパ」全員がソネを見た。サイバーサングラスには「自宅にバックアップがある」、次いで「当たり前だろ」の表示。アルケミーとコトブキが同時に安堵のため息をついた。

 アルケミーは気を取り直して一同を見渡した。「……予定が多少延期されるのは残念ですが、計画の偉大さに比べれば些細な遅延です。世界の法則から偶然性が全く排除される救済の時。その宇宙は事実上不変であり、情報量は意味を為さなくなる。ゆるぎなき、穏やかな1bitへの退行。その時が目前に迫っているのです。お分かりいただけましたか? 私は是非とも、あなたたちにその宇宙への移住をオッファーしたい!」

 ヒロコは、アルケミーに何か声をかけてやろうかとしばらく言葉を探して、結局やめた。彼らは要するに、肉体を捨ててネットの世界でワガママし放題を夢見て、努力の末ついにそれを実現したと言いたいのだ。なんて虚しい努力。学校やカイシャでジョックどもの餌食にされ続けるような人生を送ったかどうかしたのだろう。

 挙句アルケミーは、ジェネレータの暴走爆発その他の迷惑を掛けてでも肉体を捨ててワガママしようというオッファーを、自信満々で提示している。コトブキ=サンとトモダチになることすらない孤独な宇宙。ふつうは誰も応じるわけがないのに、彼らはそんなことも判らないのだ。ヒロコは呆れつつも、あのアルケミーという狂人にカワイソウを感じた。そしてソネにも。

 ヒロコは憐みの目でアルケミーを見た。だがアルケミーの表情にヒロコは困惑を深めた。アルケミーがニンジャスレイヤーを見る余裕の態度は、ニンジャスレイヤーの答えを予測し疑っていないかのようだ。それにもましてニンジャスレイヤーのあの様子……いつからか、あの容赦ない罵倒がずっと鳴りを潜めたままだ。ヒロコは焦りを感じた……まさか、あの狂人の言葉に惹かれているのか?

 最後の一押しとばかりに、アルケミーの声が再び情熱を帯びた。「想像してみてください。自らの意思で三世の書の記載内容をコントロールし可逆的に計算可能な宇宙。その住人ひとりひとりが、自らの宇宙を書き記した三世の書を司る神となる世界です。そこではもはや人は運命などといったものに隷属する存在ではない」

 アルケミーは、まるで救世主気取りでニンジャスレイヤーに向かって手を差し伸べた。「我々が、あなたに救済をもたらしましょう。たとえあなたの過去にどのような苦難があったとしても、そもそも過去という概念に囚われること自体が無意味……」「もういい。大体分かった」ニンジャスレイヤーがアルケミーの言葉を遮った。アルケミーの笑顔は能天気なほどの勝利の確信だ。だがニンジャスレイヤーは無言で首を巡らせ、後方、ヒロコたちの方向を横目で見た。

 ヒロコは見た。ニンジャスレイヤーの目は暗い怒りに燃えていた。ヒロコの理性はヒロコを安心させようとした。やっぱりあの人は大丈夫だ。その怒りはアルケミーに向けられているからだ。そう理解しつつもなお、ニンジャスレイヤーの目を見たヒロコは恐怖に呑まれた。コトブキは事態を察し、硬直し立ち尽くすヒロコの手を引いた。そして、ソネを繋いだロープとともに、更にタタミ20枚後方の柱に誘導した。

 アルケミーはニンジャスレイヤーを、そしてコトブキたちの反応を見て訝しんだ。ニンジャスレイヤーはアルケミーへ向き直り、言った。

 「今決めた。貴様を殺す」

 アルケミーの表情がにわかにこわばった。ニンジャスレイヤーの殺意に打たれたその顔には、今や動揺と畏れがあった。ニンジャスレイヤーの装束が内なる熱で煮立った。ニンジャスレイヤーは不浄の黒炎を纏う腕をアルケミーに向けて構え、ジゴクめいて宣告した。

 「慈悲があると思うな。ニンジャ、殺すべし」


# 9


 ニンジャスレイヤーは殺意を研ぎ澄ました。彼はこの日、ずっと不快だった。あのバーテンの言葉が脳裏をよぎる。自らの意思で為す者の目。言われずとも彼自身気付いていた。たとえ僅かではあっても、確かに、その目に微かな面影を見出していた。だから、あの小娘を見た時からずっと不快だったのだ。

 そして何よりこの状況が不快だ。結局あの小娘を……ヒロコたちを危険に晒しているのは完全に自分のウカツだ。タキがどんなに危険なスケベ犯罪者だろうと、この場にいるよりタキの隣にでもいたほうが遥かに安全だ。

 その程度の事にも考えが及ばなかったのは、意識的にしろ無意識にしろ、ヒロコから敢えて目を背けようとしていたからだ。同時にヒロコの話から予測されるリスクも甘く見ていた。彼は自分で理解し、益々不快になった……そして今目の前には、そもそもの原因である狂ったニンジャがいる。ニンジャスレイヤーは視線に乗せてアルケミーに殺意を叩きつけた。 

 ニンジャスレイヤーの殺意を受け明らかに動揺したアルケミーであったが、数瞬後には冷静さを取り戻し、再び余裕の微笑みを見せた。「急にどうしたのですか。私の発言に至らぬ部分があったのであれば……」「命乞いのつもりか?」

 アルケミーはさも残念そうに顔をしかめた。「私たちが争う必要があるとは思えないのですが……致し方ありません。あなたの心変わりに期待しましょう」アルケミーは後方フリップジャンプで魔方陣の中央に移動すると、シャウトとともにカシワデを打った。「レンキン・ジツ! イヤーッ!」

 カシワデとともに、魔方陣でアルケミーを囲むペケロッパ信者のうち二名が叫び声を上げた。「「ペケロッパ!」」その者らの姿は01のノイズに分解され、次の瞬間、野球バットほどのサイズの複数の半透明の物体へと凝縮した。ペケロッパ信者一人につき5本。計10本。物体は微かな黄金色の輝きを放ちながらアルケミーの背後頭上に浮上し、蜂の群れめいた群体運動を始めた。その鋭利な先端はあたかも結晶の槍のごとく、いずれもニンジャスレイヤーを狙っている。

 ニンジャスレイヤーは宙を舞う結晶槍の群れを眺め、アルケミーに視線を移した。「相変わらず面白い手品だな。貴様に似たサンシタなら、つい最近プラハ観光のついでに殺したばかりだ」アルケミーが目を見張った。「もしや、エゾテリスム=サンを?」「何だ。手品師仲間が殺されて悔しいか」

 アルケミーは苦笑した。「とんでもない。あの魔術師気取りには我々も辟易していたのですよ。ネットワークに唐突な時空震をもたらして何をするかと思えば、ただ野放図に物質世界でエネルギーを暴走させるだけ。魔術師が聞いてあきれる」そしてニンジャスレイヤーに向かって両手を広げた。「あなたには感謝しかない。あれのせいで我々の計画にも実際支障が出ていたのです」「礼なら、貴様が死んでくれるだけで十分だ」

 アルケミーは余裕の笑みを崩さぬ。「そうしたいのは山々なのですが、その前に、私のジツの真価をご理解いただいて、私をエゾテリスム=サンの同類扱いしたことを撤回してもらいましょう」アルケミーは指をスナップした。結晶槍の群れがニンジャスレイヤー目掛け襲い掛かった。

 ニンジャスレイヤーは連続側転で回避した。ニンジャスレイヤーの軌跡を追うように結晶槍が次々と上空から飛び来たり、回避するニンジャスレイヤーの足元のコンクリート床を穿った。大したスピードではない……と判断しかけた次の瞬間、ニンジャスレイヤーの死角に回り込んでいた3本の結晶槍が同時にニンジャスレイヤーの回避ルートを先回りし、ニンジャスレイヤーを狙った。

 ニンジャスレイヤーはニンジャ第六感でその動きを察知し、咄嗟にバック転を繰り出した。3本の結晶槍は、それまでの結晶槍とは明らかに異なる高速で、一瞬前までニンジャスレイヤーがいた地点の床に突き刺さった。第一波の攻撃をすべて回避された結晶槍の群れは再び上空に舞い上がり、次いでニンジャスレイヤーを取り囲む動きを見せた。コンクリート床を穿った先端に欠けた様子はない。

 結晶槍が再びニンジャスレイヤーを襲った。今度はニンジャスレイヤーを包囲する結晶槍が水平に近い角度で不規則な間隔で飛来する。ニンジャスレイヤーは差し当たり回避に徹しながら状況判断した。油断さえしなければ結晶槍の回避自体はさほど難しくはない。アルケミー自身もさほどの使い手とは見えぬ。

 だが彼我の実力を承知しているはずのアルケミーの余裕の態度には、何らかの奥の手の存在を感じさせる。そうでなくとも、結晶槍を甘く見てその不規則な動きを読み誤れば無事では済まないだろう。ニンジャスレイヤーは次の一手を検討した。ニューロンをニンジャアドレナリンが駆け巡り、主観時間の流れが泥めいて鈍化した。ニンジャスレイヤーは意識の奥底から身をもたげる存在を感じた。

 (((グググ……その心がけ、まずは褒めてやろう)))ニンジャスレイヤーのニューロンに愉悦の声が響く。ニューロンの邪悪な同居者、ナラク・ニンジャの哄笑である。(((ブッダに会ったら殺すのコトワザのごとく、目についたニンジャを殺す……儂の日頃の教えの賜物……)))(黙れナラク)(((キンボシを狙うは今後の課題として……)))

 (少しは役立つことを言え)(((何を儂の知識に頼る必要がある? 目の前におるのはミダスニンジャ・クランのレッサーニンジャソウル憑依者に過ぎぬ。ミダス・ニンジャはかつて、そのジツであらゆる物を黄金にレンキンする日々に明け暮れた挙句、己の営みが黄金の価値を鉄くず以下に貶めることを悟ってクラン一同セプクして果てた愚昧の徒……目の前のニンジャはセプク儀式の背景に過ぎぬ、実際書割り……迷うことなく捻り潰せ……!)))

 邪悪な哄笑は徐々に意識の奥底に沈み、時間の感覚が戻った。いくつかの可能性を検討したニンジャスレイヤーは、まず回避の動きの中からアルケミーの眉間めがけ牽制のスリケンを放った。「イヤーッ!」アルケミーは動じることなく片手を掲げ、指先でスリケンを挟み斜め後方に逸らした。「イヤーッ!」

 逸らされたスリケンが通過した無人の空間に、突如として短剣を構えたコルヴェットの姿が現れた。ステルスからのアンブッシュを看破され驚愕するコルヴェットの頬に、赤く一直線の傷が生じた。スナップで結晶槍を一時停止させたアルケミーは振り返りもせず言った。「大方、自らを包むごく小範囲の大気に負の屈折率を与えるたぐいのジツなのでしょうが、その手のステルスは私には通じません」

 アルケミーは自らの瞳のない目を指さした。「私がこの『目』で何を見ていると思ったのです? 私には、この物質世界に重なるエテルの流れのレイヤーが見えているのです。私の目には剥き出しなのですよ、あなたがたのIPが」コルヴェットは自らの油断を悔い、つぶやいた。「ゆえに、我々の到来もお見通しだった、というわけか」

 「コルヴェット=サン、あいつらの面倒を頼む」ニンジャスレイヤーは動じることなくアルケミーを睨んだまま、肩越しに背後の柱へ親指を向けた。「おれの獲物だ」「……承知した」コルヴェットは後退した。アルケミーは指をスナップした。ニンジャスレイヤーは次の手を試すことにした。結晶槍が列をなす陣形をとりニンジャスレイヤーを後方から襲った。ニンジャスレイヤーは敢えてアルケミーの周囲を大きく回りこむルートをとり、ダッシュとフリップジャンプを断続的に繰り出しつつ結晶槍を回避する途中で、唐突にアルケミーに接近した。

 「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはアルケミーへの高速ダッシュからすれ違いざまのイアイ・チョップを抜き打ちした。アルケミーは腕を回してこれを受け、容易にいなした。「イヤーッ!」直後、両者共に後方に跳びすさり距離をとった。両者がいた地点に高速で結晶槍が飛来した。ここまでは想定内。

 ニンジャスレイヤーはアルケミーから距離をとり、回避行動を継続しつつ連続してスリケンを投擲した。「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」アルケミーは高笑いと共にヴィトローヴィアン男めいた5連続側転を繰り出し回避した。「ハハハハハ!」結晶槍の動きに全く鈍る様子はない。

 ニンジャスレイヤーはアルケミーのジツについて凡そ当たりをつけた。思っていた以上に厄介だ。迂闊に足を止めて接近戦を挑めば結晶槍の餌食。回避行動の中から繰り出す一撃で仕留められるほどの弱敵でもない。何より、回避行動を強いられる中での攻撃は容易に読まれる。当面の主導権がアルケミーにあることを認めざるを得ぬ。このまま回避を強いられればジリー・プアー(訳註:徐々に不利)か。

 ニンジャスレイヤーの読みは、アルケミーの余裕の語りに裏付けられた。「お気付きとおり、私のジツはキネシスの類で物体を操るものではありません。あれらは、私の意思とは独立して行動する、レンキンの過程でコーディングを施された物質なのです。無論」アルケミーは指をスナップした。結晶槍が瞬時にアルケミーの前に並び槍衾を作った。「私が簡易な命令を下すことも可能です」

 「大した手品だ。おかげで、貴様の寿命が多少は伸びる」「そうですとも、そうですとも!」アルケミーは心底愉快そうな笑顔を見せた。おそらく、次の手も読まれている。何の問題もない。正面から叩き潰す。

 アルケミーは指をスナップした。結晶槍衾が面となって一斉に真正面から飛来した。ニンジャスレイヤーは結晶槍を越えるように大きく跳躍した。「イヤーッ!」通常であれば自殺行為だ。いかなニンジャスレイヤーとはいえ、結晶槍とは違い、空中で方向を変えることはできぬ……回避された結晶槍は、すぐさまニンジャスレイヤーの背後で方向を変え、空中のニンジャスレイヤーを狙う! アブナイ!

 だがニンジャスレイヤーはジャンプの頂点で身をひねりながら、不浄の炎に覆われた右腕を打ち振った!「イヤーッ!」超自然の燃え盛るフックロープが伸びる! 更に左腕!「イヤーッ!」左腕からもフックロープ! ニンジャスレイヤーは二本のフックロープを接近する結晶槍に振るう! 爆ぜる炎とともに結晶槍が弾かれる!

 着地したニンジャスレイヤーの双眸がギラリと光り、すぐさま床を蹴って両手フックロープを縦横無尽に振るいながら結晶槍の群れめがけ飛び込む! 「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」その姿はさながら混沌の刃もて屠る古代ギリシャの呪われし神殺しの戦士! 機械的にニンジャスレイヤーを狙うだけの結晶槍は最早フックロープに打ち据えられ弾き飛ばされるばかりだ!

 不浄の炎の鞭で行動を乱された結晶槍は、コードの命ずるところに従って攻撃すること能わず、ひと塊となってニンジャスレイヤーから距離を置こうとする動きを見せた。そこを狙い、ニンジャスレイヤーは自らの身体を軸に回転しながら追撃!「イヤーッ!」

 独楽のごとき回転から繰り出されるフックロープが結晶槍の群れをひとまとめに絡め取る! そしてニンジャスレイヤーはその回転の勢いのままに結晶槍の束を振り回し……アルケミーめがけ頭上から叩きつけた!「イヤーッ!」

 だがアルケミーはニンジャスレイヤーが結晶槍を絡め取った時点でこの攻撃を予測、バック転であっさりと回避した。想定内。所詮、挨拶代わりの大振りの攻撃にすぎない。ニンジャスレイヤーはアルケミーが距離を取ったのを見て本命の行動をとった。

 一瞬前にアルケミーがいた地点の床からコンクリート片が放射状に弾け飛び、結晶槍の束が床につきたてられた。構わずニンジャスレイヤーは結晶槍の束に向かって猛然とダッシュ、そのままフックロープで拘束された結晶槍に肩と背中を叩きつけるボディチェックを繰り出す!「イヤーッ!」ガギン! 極大の打撃を受けた結晶の束に徐々に亀裂が入り……数瞬後、まとめて黄金色の微粒子と化し砕け散った。

 「お見事」アルケミーがゆったりと拍手した。ニンジャスレイヤーも気付いている。アルケミー自身が積極的に攻撃に出ていれば、これほど容易に結晶槍を片付けることはできなかった。ニンジャスレイヤーは問い質した。「何を考えている」

 どこまで芝居のつもりか、アルケミーが寂しげな表情を見せた。「私は理解していただきたいのです。この物質世界の脆さとはかなさ。私がジツでレンキンした物質とて、コンクリート程度で傷つくことはなくとも、あなたが繰り出した攻撃、私たちをニンジャたらしむ根源的な力をこめた攻撃の前では容易に破壊される、かりそめの結合を与えられたものにすぎない」

 「だから手品を繰り出すのが貴様の交渉術か?」ニンジャスレイヤーは鼻を鳴らした。「無意味だ」「まあそう言わず、もう少し私の手品にお付き合いください」アルケミーは再びシャウトとともにカシワデを打った。「イヤーッ!」

 魔方陣内に残っていたペケロッパ者のうちの二人が再び結晶槍と化した。「「ペケロッパ!」」再び生じた10本の結晶槍はニンジャスレイヤーから距離を取り、高い位置からニンジャスレイヤーを遠巻きにした。アルケミーは指をスナップした。

 「またか。手品師ならもう少し……」ニンジャスレイヤーは嘲りを中断し、咄嗟に連続サイドフリップで回避した。空中の結晶槍の鋭利な先端に次々と光球が生じ、そこからニンジャスレイヤーを狙った光線が放たれた。

 自律遠隔攻撃結晶槍の群れが不規則に位置を入れ替えながら四方八方から光線を斉射する。斉射される光線はニンジャスレイヤーの回避ルートをも同時に狙っていた。5秒ほど続いた最初の連続斉射が終わった時、ニンジャスレイヤーの左肩と右腿が削られていた。いずれも浅手。だがまともに食らえば結晶槍の物理直撃と同等のダメージだろう。

 ニンジャスレイヤーは空中の結晶槍との距離を測った。遠隔攻撃結晶槍がひたすら距離をとるのであれば先の手は使えぬ。アルケミーが戯れるようにクナイ・ダートを投擲した。ニンジャスレイヤーは指先でクナイを挟み、投げ返した。アルケミーは笑みを浮かべて首を傾け回避した。ニンジャスレイヤーはアルケミーの無言の挑戦を悟った。望むところだ。

 再び結晶槍が斉射を開始した。ニンジャスレイヤーはニンジャ敏捷性の限りを発揮し、コンクリート柱が立ち並ぶ空間を連続トライアングル・リープで跳び、回避する。ニューロンの奥底からナラクがイメージを提示した。反物質アンタイ・ウエポンをも対消滅させる極大の威力のスリケン。それを連続して投擲し、墜とす。極限のニンジャ集中力とニンジャ第六感を要する。

 ニンジャスレイヤーはニューロンの奥底に意識を向けた。(力を貸せ! ナラク!)ナラクはニューロンの内に轟く禁忌のシャウトで応じた。(((ヤッテミルサ!)))ニンジャスレイヤーの意識がナラクと同調し、両目が赤く発光した。背中に燃え上がった黒い炎が肩から両手へと伝う。ドクン。心臓が強く鼓動し、ニンジャアドレナリンがニューロンをどよもした。

 周囲の光景が消し飛び、光源のない空間ですべての結晶槍の動きがほとんど静止した。ニンジャスレイヤーの腕を伝う不浄の炎が凝縮され、その手の内に炎のスリケンを形作った。結晶槍の本来の位置に先んじて結晶槍の像が動き、結晶槍の未来位置を指し示す。その位置を狙いすまし、ニンジャスレイヤーは左腕を振るった。「アタレ! イヤーッ!」

 残像を伴って振るわれた左腕が黒い炎のスリケンを射出、スリケンが螺旋軌道を描いて飛ぶ! 奥義、ツヨイ・スリケンだ! スリケンが描く炎の軌跡が伸びる先に結晶槍の一つが移動し、そこにツヨイ・スリケンが到達して結晶槍に命中! 結晶槍が砕け散る! 撃墜! ナラクと共鳴したニンジャスレイヤーが数える!「「ヒトツ!」」

 続けざまに、ニンジャスレイヤーは首と腰をひねって振り向き、同時に左脇の下から背後に向けて右手ツヨイ・スリケン射撃!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーの背後をとろうとしていた結晶槍の一つがまたもや自らツヨイ・スリケンにぶつかりに行くかのように動いて命中、撃墜! 数える!「「フタツ!」」

 その時、結晶槍の一つがニンジャスレイヤーの正面に移動、鋭い先端に光球が生じた。さらには左右後方からそれぞれ結晶槍が接近、至近距離からニンジャスレイヤーを狙う。三方向からの同時攻撃フォーメーションだ!

 だがニンジャスレイヤーは、空中仁王立ちの姿勢から正面の結晶槍に向け素早く右手のツヨイ・スリケンを投擲!「イヤーッ!」その勢いで身をひねり、炎を纏った左手チョップで左右の背後を切り払う!「イヤーッ! イヤーッ!」至近距離の二本の結晶槍は灼熱のチョップを受け、たちどころに飴のように切断! ツヨイ・スリケンが命中した正面の結晶槍と切断された二本の結晶槍が同時に砕け散る! 三連続撃墜! 巨大地下空間に響き渡る赤黒の悪魔の数え歌!「「イツツ!」」

 そして……コンクリート列柱間を高速移動する赤黒の風から炎の螺旋の軌跡が放たれるごとに結晶槍が砕け、10秒にも満たぬ間に残りの結晶槍が撃墜された。ニンジャスレイヤーはコンクリート床に三点着地した。短時間とはいえ、極限の集中力の中で高速移動と連続極大射撃を強いられたその疲労は無視できぬ。

 それでもなおニンジャスレイヤーは、「……スゥーッ」深い呼吸と共にゆらりと立ち上がり「フゥーッ……」タタミ十数枚先のアルケミーに向かってチョップ手を構えた。呼吸とともにニンジャスレイヤーの装束がふいごで吹かれるように膨張と収縮を繰り返し、ボロ布めいたマフラーがたなびいて火の粉を散らした。アルケミーは全く動じることなくシャウトとともにカシワデを打った。「イヤーッ!」

 魔方陣めいたザゼン数式に残っていた最後のペケロッパ者が「ペケロッパ!」の叫びと共に5本の結晶槍へとレンキンされた。それを見たニンジャスレイヤーが威圧した。「代わり映えのしない手品も、それでアウト・オブ・アモーだ」だがアルケミーは余裕の笑みをたたえている。「いえ、正しくはオーテ・ツミです」ニンジャスレイヤーは真意を測りかね、眉根を寄せた。

 アルケミーが笑みを消した。ニンジャスレイヤーは睨んだ。「いまさら貴様自身も戦ったところで無駄だ。手品のタネは割れている」真顔のアルケミーが不意に顔を歪め、低く笑い出した。ニンジャスレイヤーの声に苛立ちが交じる。「とうとう気でも狂ったか」

 アルケミーが笑いをこらえながら答えた。「いえ、まったく、たかが手品とはいえ、こうもはまるとは……」そして、嘲りの目でニンジャスレイヤーを見た。「なぜ、私がレンキンできるのがペケロッパ者だけだと思い込んでいるのですか?」

 ニンジャスレイヤーはその言葉の意味を悟り、己を呪った。アルケミーは再び真顔になった。「これが最後のチャンスです。あちらのお嬢様方……おや、一人はオイランドロイドですか。そういうご趣味で……まあ、それでもレンキンに支障はありません。ソネ=サンを引き渡さぬのなら、お嬢様方をレンキンします」

 アルケミーは指をスナップした。5本の結晶槍がニンジャスレイヤーの背後に回り滞空した。「無論、私にはニンジャのような強大な存在まで即座にレンキンするほどの力はありませんが、お嬢様方もあわせて同時に15本もレンキンすれば、あなたを斃すには十分でしょう。何なら、もっと別の物質にレンキンしましょうか? カワイイなお嬢様方に相応しい姿に……」

 ニンジャスレイヤーの眉間を汗が伝った。ニューロンの奥底からナラクの声が届く。(((多少数が増えたところで、最早あの程度の手品、恐るるに足りぬ……容赦なくアウト・オブ・アモーさせ、目の前のニンジャをば絶望に追い込み惨たらしく縊り殺せ!))) (黙れナラク)

 勝ち誇るアルケミーの顔が卑しく歪んだ。「全く、どれもこれもあなたのおかげです。オイランドロイドをレンキンするのも楽しみではありますが、まさか、あのような少女をレンキンできる機会を頂けるとは……制服少女を……フィヒッ……」堪えきれず、際限のない狂笑を始めた。「フィヒ! フィーヒヒヒヒヒ! フィヒヒーッ! ヒーッ! ヒーッ!」

 ナラクが叱責した。(((ええい! 何を躊躇うておるか! まさかあの小娘を気にかけているのではなかろうな? いくらオヌシにしても……)))(黙れナラク!)(((あのような小娘、助けたところで何の益がある!?)))(黙れ! ナラク!)

 ニンジャスレイヤーは邪悪なるナラクの意志に抗いながらも、その言葉を反芻した。あの小娘……ヒロコ。彼女が彼の前に現れた意味を。彼は不快だった。コトブキが語ったヒロコの物語は、彼の奥底に確かに存在する、別の願望を刺激していた。アルケミーの誘いなど比較にならぬほど強力に。それを認めることは何よりも不快だった。

 だが、彼は認めることにした。メンポの下に自嘲の笑みが浮かんだ。その意図を察したナラクが驚愕の叫びを上げた。

 (((何をバカな! サツバツナイトといいオヌシといい、なぜそうしきりに小娘にこだわる!?)))

 (知るか。力を寄越せ)

 (((許さぬ! あのようなサンシタ一匹にそのようなリスクを冒すなど……! 取るに足りぬ小娘を庇いここで斃れるのがオヌシの本望か!? サツガイを何とする! リスクをヘッジせよ!)))

 (どうとでも言うがいい。力を寄越せ、ナラク!)

 (((このバカ! バカ! 許さぬ! 許さぬぞ……!)))

 ……ようやく笑い疲れたと見え、アルケミーは呼吸を整えながら、微動だにしないまま沈思黙考を続けるニンジャスレイヤーを見やった。その視線の先で、ニンジャスレイヤーの装束が突如としてざわめき始めた。アルケミーの第三の目は、ニンジャスレイヤーの内にある何らかの存在が煩悶し、その周囲のエテルをかき乱すのを感じ取った。

 アルケミーは訝しみ、改めてニンジャスレイヤーのアトモスフィアに注意を払った。突如としてニンジャスレイヤーが叫んだ。「どうとでも言え! ナラク!」アルケミーのニンジャ第六感がただならぬ異変を知らせた。アルケミーは指をスナップした。結晶槍の群れが整然と突撃を開始したその時、死神の咆哮が巨大地下空間を揺るがした。

 「Wasshoi!」

 そして死神が消えた。一瞬アルケミーの思考と足が止まった。それが命取りとなった。アルケミーが前方に漂うセンコめいた光点に気付いた瞬間、アルケミーは防御した。だが予想した打撃は放たれなかった。防御の隙間から伸び来った燃え盛る鉤手がアルケミーの顔面を鷲掴みにし、そのままタタミ数枚後方のコンクリート柱に後頭部を叩きつけた。

 その激痛をにわかに認識できぬほどの驚愕の中で、アルケミーはその顔面を掴む鉤手の指の隙間を通して、ほとんど密着状態となったニンジャスレイヤーをようやく視認し、事態を悟った。咄嗟にジツの解除を試みようとした時には既に手遅れだった。

 右手でアルケミーの顔面をコンクリート柱に押さえつけるニンジャスレイヤーの背を、アルケミーもろともに5本の結晶槍が刺し貫き、コンクリート柱を穿った。


【続く】


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TheBottle

テキストカラテ私論

サイバーパンクニンジャアクション小説「ニンジャスレイヤー」の構造・形式面について、素人なりに独自見解を述べます。また、「逆噴射文体」についても考えてみます。
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