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今こそ名文を装備する時だ



ストーリーテリングとは、ある約束を受け手と交わすことだ。しっかり耳を傾けてくれるなら、驚きを与え、想像もつかないレベルと方向で人生の痛みや喜びをお見せする、という約束である。何より大事なのは、それをさりげなく、ごく自然にやってのけることで、観客がみずから発見したかのように仕向けなくてはならない。(中略)洞察は観客が注意を傾けたことで得られる報酬であり、巧みに設計されたストーリーはシーンにつぐシーンでこの楽しみを提供してくれる――ロバート・マッキー著『ストーリー』より引用



ウインター・イーズ・カミーング! はいどうもー! いやー、やっぱりゲースロやべえ。シーズン8の一話二話はなんかずっと伏線回収モードばっかりやってるなと思ってたら、とうとうマジで冬が来たった第三話ときたら! 冷静に考えると中世風ファンタジーとドラゴンとゾンビの大群を節操のかけらもなしで同じ画面にぶち込んでごった煮にしてるところに大量の登場人物が絡んでるのに、できあがったドラマといえば、全ての要素が必要不可欠なピースとして噛み合ってるとしか感じられない。これは凄いでしょ。殺意と機動性が高いタイプのゾンビが大群で出てくる映像作品としては、この第三話よりも面白いのは存在しないんじゃないかと思う。具体的にどれだけやばいかは逆噴射先生の記事を読んでもらったほうが早い。



んで、見終わった俺は、身も蓋もない言い方だけどこう思った。結局、生死を決めるのはぶっちゃけ装備の差だな、って。ドラゴングラス大量に揃えた精鋭軍団に神秘の炎エンチャントまで盛ったところで、ホワイトウォーカーの大群が物量で攻めてきたら死ぬ。死にたくなかったら、実家から盗もうが何しようが手段を問わずにヴァリリアンスティール製の名剣とかの最強レジェンダリ装備を手に入れて敵をワンパンで溶かせる火力を得た上で、まずは死なないことを目標に泥臭い力押しで目の前の敵を潰し続けるしかない。

つまりね、初期装備縛りみたいな縛りプレイなんかは、頻繁に死んでは生き返って再挑戦する実のところデスペナルティーが軽いゲームをやってる奴がイキってやればいいんであって、俺らが生きてるこのウェスタロスの世界では(一部キャラを除いて)デスペナは死そのものなんだから、縛りプレイなんかやってる余裕はない。パルプでサクセスするその日までまずは死なないことが一番重要なんだから、そのためには、他人にどう思われようと良ドロップのボスをファームしまくってレジェンダリ装備を掘りに掘りまくっても何ら恥じる必要はない。だから俺は今回、バフチンとかを無断で節操なくパクりながら、レジェンダリ名文装備の掘りかたと名文ビルドのメカニクスについて言いたいことを言う。


名文を恥じるな


俺がこういう話をすると、「名文みたいな気取ったもんは、俺の書くパルプには不要だね」みたいなことを言う奴が大抵出てくる。プレイヤースキルを磨かずに装備の性能でごり押しするのがハズいとか思ってるんだろうけど、まずは俺の話をちゃんと聞け。名文は北の大地を生き延びるための鋼と筋肉であって、ジョフリーが見せびらかすオモチャじゃない。つまりパルプに不可欠な、無駄が削ぎ落とされてシンプルであり、にもかかわらず豊かなイメージが読者に叩き込まれる、そういうテキストが俺が今説明しようとしている名文だ。たとえばこういうやつだ。


 ロンドン。ミケルマス開廷期を終え、大法官が座するはリンカーン法曹院ホール(訳注:ホールは大法官裁判所の法廷としても使用された)。容赦なき十一月の天候。ストリートの大量の泥はあの大洪水が今し方地球上での一仕事を終えたばかりのよう、これではメガロサウルスに、体長四十フィートかそこらの、這うさまはゾウじみたトカゲのごときにホルボーン・ヒルの上で出会っても驚くには値せぬ。煙は煙突から下り降り、柔らかな黒い霧雨を成し、ぼた雪ほども大きい煤を取り込んで――喪に服した、と想像する人もおられよう、太陽の死ゆえの喪に。犬ども、泥濘の中で判別不能。馬ども、大差なし;飛沫は馬の目隠し革にまで達している。徒歩の通行人たちは互いを雨傘で突き合い不機嫌の集団感染の中、そして足を滑らせる街角は、他の何万人もの徒歩の通行人がスリップとスライドを夜明けから(明ければだが)続け、泥の層の上に新たな貯蓄が積み上がり、しつこく舗装路にこびりついて、複利式で貯め込まれる。


これはディケンズ大先生の『荒涼館』の、名高い開幕冒頭の一段落目。読んでみれば一目瞭然、忍殺文体のご先祖様といえるでしょう。ただ風景描写するだけでノアの洪水やらメガロサウルスやらと自由すぎる連想の飛躍が行われつつ、文章として完結してない言葉の断片をバシバシ叩きつけてくる。んで、死せる太陽、富の蓄積に比喩される汚泥……そこに浮かび上がるのは、石炭煤煙汚染雲と泥濘にまみれ、人々がディスコミニュケーションの中で搾取される、ヴィクトリア朝ディストピアロンドンの姿と不気味なラスボス感を漂わせる「大法官」。引用した一節を読んだだけで誰もがそれをイメージしたはず。ディケンズ大先生はディストピアロンドンの抑圧に対する怒りみたいなのを原動力にゴリゴリ書いて、市民たちは毎月の連載を生きるよすがとしてた。そういう歴史が、名文がパルプを生み出すことを証明してる。ちなみに既存の日本語訳は、こういうテキストを文章として整った形に訳そうとしてる結果、元のテキストのバシバシ感が失われて、回りくどくて頭に入って来にくい訳になってると思う。業界の奴らは反省が必要だ。

まあそれはそれとして、別な例としてはこういうやつ。


プリニウスによれば、夏、竜は象の血を欲しがる。象の血は非常に冷たいからだ。竜は象に突然襲いかかり、体を巻き付け、歯を食い込ませる。血のなくなった象は地面をころがり、息絶える。竜もまた、その餌食の重みに押し潰されて死ぬ。


滅茶苦茶な展開とゾウやドラゴンのテンポ良すぎる死にっぷりでなんか逆噴射性を感じさせるこのテキストは、ボルヘスの『幻獣事典』の、「西洋の竜」の項目からの引用です(柳瀬尚紀訳)。「ア・バオア・クー」等々の無茶な与太話が多数収録されている『幻獣事典』は完全にパルプであることが証明されてるといえるでしょう。ネットで時折見かけるこいつも出てくるぞ。


だがこれらの名文が名文である理由を解き明かすことに意味があるのか? これら名文は、あくまで作者の才能とかセンスとかがアドリブ的に光って生み出されるものなのではないか? けど俺はそうじゃないと考えた。何事にも仕組みっていうのがある、はずだ。名文が名文である理由から、名文が名文として成立する機能みたいなやつを解明することは不可能ではないはずだ。そう考えた俺は独り、「壁」の北へと旅立った……


名文のメカニクス


要するにですよ、面白いパルプを読んでて、別に大きな事件とかが起こってない静かなシーンとか登場人物が飯食ったりあまり意味ない会話したりしてるシーンでも読んでて面白いのは、描写されてる出来事の内容じゃなくてテキストそれ自体に読んで面白さを感じさせる要素があって、そういう要素が仕事してるのが名文なんだと俺は考えるわけです。

そう考えると、なんか風景描写が苦手とか大きな事件が起こってない静かなシーンを持たせるのが苦手とか会話シーンが苦手とかそういうタイプの悩みが、名文の仕組みを解き明かして実践できるようにすれば全部解決! こいつは探求の価値がある!

で、俺の壮大な旅路を詳しく語って聞かせてもいいけど正直ゲースロの原作小説みたいに全然進まなくなる危険があるんでポイントだけ解説。念頭に置いておかないといけないのは、パルプの、ひいては小説の言語の特殊性です。

どういうことか? たとえば、こういうことを考えてみてください。三人称の小説の地の文はなぜ「標準語」なのか? 一人称の小説なら会話以外の部分も「語り(スカース)」だから全編方言というのも可能でしょう。だけど、想像してみてください、例えば大阪に住んでる奴が大阪に住んでいる読者だけを対象に書くとしてもですよ、三人称の小説で地の文を全編大阪弁にした小説って成立するでしょうか? 不可能なはずです。

大阪弁みたいな方言に限らなくても、話し言葉全体が三人称の地の文に不向きです。たとえば桃太郎を、「昔々あるところに……」っていうスタイルで語られる内容を文字起こしして活字で印刷したテキストを読む、ということは可能です。でも読者はそれを「小説」だと感じるでしょうか? 比較的標準語に近いし三人称視点で語られる物語がテキスト化されているにもかかわらず、読者はテキストの桃太郎を、三人称小説の地の文とは別物の「語り」だと感じるはずです。つまり、例外的に「語り」を模倣した三人称の小説というのはちょくちょく存在はしますが、そういう「語り」の模倣をしないのに話し言葉で地の文が書かれてる三人称小説っていうのは存在しない、というか多分存在し得ないわけです。その結果、これは誰でも無意識でそうしてるんですが、「語り」の模倣をする例外的なケースを除き、三人称小説で地の文を書くときには「標準語」、つまり、作文書いたり論文書いたり仕事で書類書いたりするときには使うけど、普通日常生活で会話する時には使わない「書き言葉」で書く。「標準語」の「書き言葉」じゃないと三人称小説の地の文にならない。そのことを誰もが無意識に感じ取ってる。

これは改めて考えてみると極めて重要なポイントだと思います。三人称小説の地の文っていうのは、会話や一人称の語りとは根本的に言語としての性質が異なってる部分があるってことです。そうすると、三人称の地の文について考える時には、普段俺らが会話したり語ったりするときに使う言語の性質についての当然と思ってる前提も疑ってかからないといけない。普通、会話したり語ったりするときに使う言語は当たり前ですけどコミュニケーションの、情報伝達とかのツールなのであって、そこで使われる言葉は当たり前ですけど情報です。論文やら仕事やらであれこれ説明のために書く言葉も情報です。だけど、小説のテキストではその当たり前の常識が通用しないとしたら? そこで使われる言葉は情報とは別物だとしたら?

んで、俺はこう考えてみた。パルプの、小説のテキストの面白さ、その文章が「読ませる」やつかどうかっていうのは、今言ったような、一人称で会話したり語ったりとかとは根本的に違った性質を持つ小説の言語の特殊性をうまく使ったりできてるかどうかに左右されるんじゃなかろうかと。

あ、今のうちに白状しとくけど、小説の言語の特殊性とかは100年以上も前にバフチンとかそういう奴らも指摘してる。けど、じゃあどうやったら名文を装備できるのかまでは誰もちゃんと説明してないようなので、俺はこれを書いている。

それでだ、俺はこれから核心に入る。小説を小説たらしめるテキストの特徴、日常会話とも語りとも作文論文とも異なっていて、かつ三人称で地の文を書こうと思ったら「標準語」が要求される、小説特有のテキストの機能とは、大まかに二つある。「省略」と「他者の意識」だ。次に具体例を出す。


取り敢えず『雪国』を殺して装備をいただく



 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。


これは言っておきたいんだけど、みんな川端のことを甘やかしすぎだ。俺も仕方ないから『雪国』買って読んだけど、本当に読んでる最中は終始ムカつきっぱなしで苦痛だった。島村とかいう主人公は本当にクソどうしようもない最低のファック野郎だし、出てくるだけでこっちがイラつく馬鹿そのものの馬鹿ゲイシャとそういうファック野郎がジメジメ会話とかする様子を延々読むハメになる。時代背景がどうとかいう言い訳を聞くつもりはない。ファック野郎はファック野郎だ。読んでる最中は、俺は登場人物の葉子とかいう奴が最後にはブチ切れて斧かなんかでファック野郎と馬鹿ゲイシャを惨殺してくれたりするラストをちょっぴりは期待したけど、そういうのも起こらなかった。

だから俺は何の良心の呵責も感じることなしに『雪国』をあっさり切り刻んで身ぐるみ剥いでやった。みんなもそうしろ。『雪国』屠殺解体のプロセスはこういう感じだ。


 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

名文が名文だと言われるのは、当たり前だがそれを名文と感じる読者がいるからだ。だから名文を我が物とするために大事なのは、名文に対して読者がどう反応するかを丹念に観察することだ。では読者は、上に引用した『雪国』の最初の段落から何を読み取るか。

・舞台は雪国呼ばわりされるような、けっこう田舎の地方

・時代設定は「国境」(くにざかい)みたいな言葉が使われて普通にSLが使われてる、結構昔の時代だ

・主人公はこのSLの乗客で、トンネルを抜けたことで見えるようになった、窓の外の風景を見ている

・時間帯は夜

・窓の外の風景は一面の雪景色

・あまり曇ってなくて月が明るい

読者はこれだけの情報を、つまり、舞台、時代設定、オープニングで主人公がいる場所、時間帯、天気、目に見える風景といった、物語のオープニングで必要な状況設定に関する情報を、わずか「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」だけから読者は洞察する。これを読んでいるあなたも全くおなじ情報を洞察したはずだ。

つまりあなたは、あなた自身が何故「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」だけで大量の情報を洞察したのか、自分自身に問いかけつつ、テキストを分析すべきだ。つまりあなたは洞察力豊かな、作家にとって最良の読者であることを自覚した上で、自覚的にテキストをディグするように読むことができるし、そうすべきだ。そのことを忘れるな。

そして、小説の読者はほとんどの場合、あなたと同じ最良の読者だ。パルプを書こうとするなら、あなたは最良の読者を相手にしてるってことを絶対に忘れたらだめだ。ロバート・マッキー大先生も著書の中でこう言って……ってAmazonリンク張り忘れてたわ。



この本。超絶おすすめ。で、この本の初っぱなのほうで、ロバート・マッキ―大先生はこう断言してる。

 観客は驚くほど感受性が豊かであるだけでなく、照明の落とされた映画館や劇場に腰を据えるや、IQが二十五も跳ね上がる。映画を観ていると、スクリーンに映っている物事をじれったく感じることはないだろうか。あるいは、登場人物が実際に動くよりも先に何をするか予想がついたり、かなり前に結末が分かったりしないだろうか。観客はただ頭がよいどころか、ほとんどの映画よりも賢明だが、スクリーンの向こうの作り手の側へ移動しても、その事実は変わらない。脚本家にできるのは、自分が習得した技巧を余すことなく使い、集中した観客の鋭い知覚の一歩先を行くことだけだ。

要するに俺らは「クエストマーカー親切すぎ問題」に真剣に向き合う必要があるってことです。みんな経験あるでしょ? 精緻に作り込まれたオープンワールドを旅してるはずなのに、クエストマーカーがいちいちあれしろこれしろって指示してきて最適な道順とかを全部画面に表示しちゃうから、プレイしてる側としては、なんかオープンワールドを旅してるんじゃなくてクエストマーカー追っかける作業してるみたいに感じられて、ゲームがつまんなくなるあれ。

だから、この記事の冒頭で引用したマッキー大先生の言葉の言葉を今一度読み返してみてください。洞察。劇場の観客も、パルプ小説に没入してる読者も、みんなIQ跳ね上げて集中してる状態に変わりない。んで、彼らはなんでそんなにオープンワールドに没入したがるかというと、自分で洞察したいからなんです。それが面白さの核心。小説のテキストも、過剰に親切なクエストマーカーよろしくあれこれ読者に親切に説明されても逆に読者はどんどんつまんなくなるだけであって、ダンジョンの中で分かれ道に来たときに、雰囲気とかからなんとなく「右に行くのがボスにたどり着くルートっぽいけど逆に行ったら宝箱とかありそうだな」って感じ取って実際に左に行ったら宝箱があったときに、プレイヤーは面白さを感じるんです。あなたがゲーム制作者だったら、分かれ道に「右に行ったらボスで左に行ったら宝箱があるよ」なんて看板立てる? そうじゃなくて、なんとなく宝の雰囲気みたいなのをプレイヤーに伝えて、ほんとはゲーム制作者側がプレイヤーに宝を発見させるように仕向けてるのに、プレイヤーは自力で見つけたみたいに感じて面白がるようにするでしょ?

つまり、名文の二大構成要素の一つである「省略」のも同じ理由。ここまで読んだあなたにはもう説明不要でしょう。「省略」っていうのは読者が勝手に想像してくれるから記載を省いていいっていう意味じゃない。読者により多くの情報を洞察する楽しみを提供するために、意識的に積極的に戦略的に、可能な限り言葉を削らないといけない。そして、読者の勝手な想像に委ねるんじゃなくて、読者がどのような情報を洞察するかを先読みして、読者の無意識を積極的にコントロールしにかかる必要がある。桃太郎や論文では、言葉が省略されれば省略されるほど読者が喜ぶということはあり得ない。

この観点からは、小説のテキストを構成する言葉は、もはやその個々の言葉それ自体の意味を提示する情報の単位たり得ない。小説の言葉は情報じゃなくて、その言葉の先にある何かを示唆して指し示す手がかりの断片になってる。だから言葉の矛盾が平然と利用される。さっきの『雪国』思い出してみてください。もし日常会話で実際に夜行列車に乗ってる奴が窓の外の雪景色をみて「わぁー夜の底が白くなったー」みたいなことを言い出したらそいつは速攻Asylum送りですよ。「夜の底」って何だよ。それって白くなったり黒くなったりするのか?

だけど川端は平気で「夜の底が白くなった」と書く。「夜」とか「底」とか「白」っていう言葉を、その言葉それ自体の意味を伝える情報じゃなくて、それぞれの言葉が示唆するべつの何かを提示するパーツとして使うからだ。結果として読者は、個々の言葉の持つ情報を超えた情景を、窓の外に広がる月明かりに照らされた雪景色を洞察する。ここでテキストの表現する情報はテキストに内在するものじゃなくて、テキストの外に構築されるものになってる。こうして『雪国』は名文の代名詞扱いを受けることになった。

さて、名文っていうのはそうやって風景描写するだけのものか? というと当然違う。パルプの面白さは逆噴射先生が常日頃から繰り返し強調してるとおり、登場人物たちのヒリヒリする緊張感とか苦悩とかのリアルな感情や手触り、息づかい、アトモスフィア……そういったものがビビッドに読者に伝わることで生まれる。つまりは名文の二大構成要素のもう一つ「他者の意識」だ。

どういうことか? 何度も繰り返して申し訳ないけど、また『雪国』の冒頭思い出して。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」って書いてあるけど、これがもし、引いた視点から「雪国との国境にある長いトンネルを汽車が抜け出た」って書かれてると、読者としたらどう感じるでしょうか。続く文章を「夜の底が白くなった」って続けて書ける?

つまりね、川端は地の文のふりをして、実はこのSLに乗ってる登場人物の、おそらく主人公にあたる奴の、主観的意識を同時に書いてる。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、そのSLに乗ってる登場人物の主観的体験を書いてるし、「夜の底が白くなった」は、その登場人物の目から見た、それまで真っ暗なトンネルの中を走ってたのが、トンネルを抜けて月に白く照らされる雪景色になったっていう風景の変化を書いてる。こういう、登場人物主観からみた時間と動きとかの変化や流れがどういうものか? っていうことに基づいて地の文の組み立て方を決めてる。そうして、登場人物の意識もまた、読者にとってのトレジャーである洞察の対象になる。

だから俺らは潔く認めたほうがいい。小説の登場人物は作者が自由に操れる道具じゃなくて、作者とは別人、作者から独立した意識を備えた立派な「他者」だ。そして地の文にさえ、その他者の「意識」が不可分に溶け込み、登場人物の意識と言葉が地の文を構成し始める。三人称の小説の地の文でさえ、実は作者の言葉じゃなくて他人の言葉だ。俺らがパルプを書くとき、俺らはバンデラスの言葉に真剣に耳を傾けて、バンデラスに代わってバンデラスの言葉をテキストにしているのだ。繰り返すがたとえ三人称で書いてもだ。そうして、バンデラスが肌に感じるメキシコの風が読者にも吹き、読者はメキシコに連れ去られるのだ。読者をメキシコに連れ去った手柄や責任はバンデラスだけじゃなくてあなたにもあるので心配するな。

まあとにかく、「他者の意識」をそっくりそのまま地の文で書いても本当は問題ない(自由間接文体とかいう技法らしい)けど、それをそのままやり過ぎると、読者が登場人物の内心を洞察する楽しみを奪っちゃうので、さっきの「省略」の手法の応用と組み合わせるとかして注意深く用いてください。

まとめ。名文は、読者が洞察する楽しみを提供するためにこそ「省略」を武器に使う。んで、三人称でも神の視点とかからじゃなしに登場人物の意識を反映した地の文を通じて、複雑な内心とかを洞察させてますます読者を楽しませる。このへんの名文のメカニクスは当然、パルプでもそうじゃない小説でも機能させることが出来るし、分かってるパルプの作者は意識的にこのメカニクスを使ってる。最後に、簡単にですが忍殺でそのことを検証してみましょー。


忍殺における名文メカニクスの具体例


さて、忍殺における名文の具体例を検討するなら、やっぱり静かなシーン、地味なシーンでどうやって読者を引きつけてるかっていう部分を紹介すべきでしょう。そこで紹介するのは、今なお忍殺のベストエピソードの一つとして輝く名作、『レイズ・ザ・フラッグ・オブ・ヘイトレッド』

このエピソード、知っての通り忍殺恒例のエピソード限定ゲスト主人公モータルとして、ハンドルネーム「ロックスター」を名乗る若者が登場して、ラストでは静かでありながら猛烈にエモーショナルな展開の担い手になって読者を感動の渦に叩き込むわけですけど、じゃあこのエピソードの序盤、ロックスターが読者の前に初登場したころに、作者であるボンド&モーゼス(以下「ボンモー」)はいかにして名文メカニクスで読者の関心を引きつけているかっていうところをいくつか拾ってみます。

まずこれ。ロックスター(とはまだ名乗ってない、この時点では無名の大学生)が違法改造サイバーサングラスを入手するために街を歩くシーン。

まずこの22番のツイート。こういう主観的な評価を地の文に書くって言うのは、実は普段の忍殺では余りありません。珍しい例。それでも読者はこれを特に違和感なく読む。これは地の文=サンが主観的評価を下してるんじゃなくて、ロックスターの意識を反映していると無意識のうちに洞察するから。そしてさらにそこから、ロックスターの今感じている感情とかも洞察する。

そして23番のツイート。「彼は知らない」という客観的な記述から次に「ただ、胸騒ぎがするのだ」という主観に寄った記述。そして次に来るのは「オナタカミ・トルーパーズによる治安改善は、見かけだけだ」という、ロックスターの内心の独白そのままの記述を、カギ括弧とかでくくったり「○○と彼は考えた」みたいな書き方をせずにそのまま地の文の中に入れる。この内心の独白そのままの記述が自由間接文体とかいわるらしい技法なんだそうですが、これをやりすぎると一人称で延々独白を続けるようなやつになってしまって読者は白ける。ボンモーはそれを分かってるので、次の記述は「彼はそれを直感的に悟っていた」っていう客観寄りの記述に戻す。

こんなふうに、客観寄りの記述から主観的記述へ移行してからまた客観寄りの記述に戻すっていうのは、ボンモーのようなPROのやつらは完全に意識的に計算ずくでリズムとかのコントロールをしているという一例です。この記述の仕方を意図的に変化させてリズムとかグルーヴとかをコントロールする技法はパルプでも必須。

さて、こういう地味ながら読者には無意識に洞察を通じたロックスターへの親しみとかを感じさせるテキストを積み重ねて、次にこう来る。ロックスターが暗黒管理社会を予感させる理不尽非道行為を目撃した場面。

このツイートよく読んでください。カギ括弧でくくられる独白、客観的な描写、説明を交えた描写、そしてまたもや間接自由文体での「心細い。暴力まみれのこのストリートで、音楽だけが勇気を与えてくれる。」という独白っていうふうに、テキストの書き方は変わりつつも、その変わり方のルールは、登場人物であるロックスターの主観にどれだけ近づいたり離れたりするか、っていう距離の変化っていう点で一貫してます。

んで、30番のツイートを読んだ読者はどのような洞察を得るか。あなた自身、なにを洞察しました? テキストはどれも、後にロックスターというハンドルネームが判明するもののこの時点ではまだ無名でしかない、ただの大学生の感じた恐怖、怒り、無力感、そういった言葉が記載され、「心細い。暴力まみれのこのストリートで、音楽だけが勇気を与えてくれる」との独白が記載される。だけど読者は記載されている表面的な言葉とは裏腹な事実を洞察する。つまり、実際無力な一大学生にすぎない彼が、何らかの重大な決断をした結果、危険を顧みずにこの暴力まみれのストリートにやって来たのだということを。言うまでも無く、音楽が勇気を与えてくれれば万事解決で怖い物なしな訳がない。そうは書いて無くても彼自身が、音楽が勇気を与えてくれることを願っているに決まってる。読者は当然そのことを無意識に洞察する。こうして読者は、表面的なテキストを裏切った内容、すなわち、この若者は、彼が発揮した真の勇気に基づく重大な決断を下し、行動に出たのだ、ということを洞察するのだ。

いいですか? ここで無論ボンモーは読者に、ロックスターが勇気に基づく決断を下して行動に出たんだ、ってことを読者に伝えたいと思ってる。でもボンモーは明らかにわざと、「ロックスターが勇気に基づく決断を下して行動に出た」ということを直接説明したり言及したりすることを徹底的に避けてる。むしろ「ロックスターが勇気に基づく決断を下して行動に出た」という事実とは矛盾する言葉ばかりが30番のツイートに記載されてる。それでも読者はちゃんとボンモーの思惑通りに洞察するんですよ。なぜかというと、つまり「ロックスターが勇気に基づく決断を下して行動に出た」ということを直接説明したり言及したりすることを徹底的に避けるのはすなわち「省略」のメカニクスの応用であって、「省略」と前提になってるシチュエーション、それとさっきの主観に近づいたり離れたりの記述との合わせ技で、読者は無意識の洞察を通じてビビッドにリアルに、ロックスターの感情を体験するからなんです。


名文なら殴り放題だ


今回はこんなところかな。前回の俺の記事では「設定で読者を殴ろうとするな」みたいなことを書いたけど、今回はそういう制限はない。主観べったりで書きすぎないみたいなことにさえ注意しておけば、いくらでも好きなだけホワイトウォーカーどもを殴りつけて問題ない。たった一文だけで「名文だ!」って褒められる必要はないけど、忍殺でやってるような名文メカニクスを理解すれば静かなシーンでも地味なシーンでも風景描写でも、読者にビビットにリアルに伝わるパルプが可能だ。読者が洞察する楽しみを奪わないようにすれば、読者が勝手に洞察して没入するから。

だから今後あなたが取り組むべきは、ホワイトウォーカードどもを全滅させる勢いで殴り続けることだ。ん? ホワイトウォーカーどもが全滅したら次はどうするのか? 次はもちろん、キングスランディングにいるファック野郎と馬鹿ゲイシャを血祭りにあげて、川端に思い知らせる時だ。

それじゃ、またねー。