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交通事故と「世間」

自動車免許の更新にいってきました。講義に出てきたビデオ映像が、交通事故に関するものだったのに、僕にとってはテーマが「世間」にしか見えなかったので、noteに書いてみました。

交通事故からはじまるストーリー

ストーリーとしては、和菓子屋の三代目が配達後、息子(4代目)にサッカーボールを購入しに行く途中、人をひき逃げしをしてしまい、そのひき逃げをキッカケに、息子がいじめられたり、和菓子屋の仕事が急遽キャンセルになったりと、仕事や家族に影響が出てくるというものです。

家族や仕事にも影響があるし、加害者家族、被害者家族ともに不幸にしてしまう交通事故は引き起こしていはいけない、そんな感じの終わりでした。

「世間」のにおいを感じたところはいくつかありました。

子どもの代わりに謝罪に行く父親

 ひき逃げしてしまった和菓子屋の三代目は、勾留されており、父である二代目が、代わりに被害者家族に謝罪しにいくシーンがありました。テレビドラマでは、子どもの過ちを親である父親があやまりに行くのはよくあるかもしれません。

ただしそのような場合、せいぜい30歳までの子どもの過ちを、50歳の親が謝罪しに行くというものではないでしょうか。

ひき逃げをしてしまったのは、息子の三代目(50歳くらい)でした。その父親の二代目は70代ということになります。しかし、親子(二代目と三代目)は、共通の時間を生きており、その関係は一生続くものと考えがちです。ゆえに「家族の過ちはその他の家族過ちでもある」そういう考えがあるかのごとく、息子の過ちを親が代わりに謝罪に行くのです。それがいくつになっても。

父親の過ちが息子のいじめの原因に

「カズオ(仮)の父ちゃんひき逃げ犯だって」「あっち行こーぜ」公園のシーンはこんな感じだったと思います。除け者にされるといういじめにあっていました。

悪いのは加害者である二代目(ひき逃げという行為ですが)なのにも関わらず、なぜその息子(小学生)までその罪を背負わなければならないのでしょうか。

「家族の過ちはその他の家族の過ちでもある」こんな言葉があるかのごとく、加害者の家族はひどい仕打ちを受けていました。

家族は共通の時間を生きており、罪を背負うのも加害者個人だけでなく、加害者を含む家族だと考えられてるようでした。

家族という共通の時間

ビデオで「世間」のにおいを感じたのは、家族という「共通の時間」でした。

鴻上尚史さんの「『空気』と『世間』」(講談社現代新書)では以下のように書かれています。

親と子供は別々の時間を生きている、と日本人は考えません。「世間」で一番の身近な単位である家族は、みんな、同じ時間を生きていると考えるのです。結果として、子供はいくつになっても親と同居して、子供扱いされても、別に疑問を持たないのです。

加害者の父親が、代わりに被害者に謝罪することや、加害者の息子が父親の罪を背負わされたりなど、家族が「共通の時間」に生きていることを感じさせるビデオだったからこそ、「世間」のにおいを感じたんだと思います。

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