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バンドブームがやってきた【17】

BOØWYの解散(1987・12)尾崎豊覚醒剤取締法で逮捕(1987・12)

昭和63年実質昭和最後の年中学生3年生で多感だった僕は多大なるショックを受けながらものほほんと過ごす田舎の中学生だった。あの頃は毎日がショックの連続だったのかもしれない。

以前の記事でも書いたが尾崎狂だった僕とBOØWYが大好きだった友達はその前後に台頭してきたバンドに興奮していた。そして卒業したらバンドを組もうと約束をした。

レピッシュ(1987)ブルーハーツ(1987)ユニコーン(1987)JUN SKY WALKER(S)(1988)LAUGHIN' NOSE(1985)…

中学を卒業し三ノ宮のギターショップで激安ギターセット(アリアプロⅡ)を買い教則本を片手に練習。セットでついてきたフェンダーの自宅用アンプのゲインをあげてオーバードライブサウンドに一人興奮していた。んー興奮しっぱなしなティーンだったんだなぁ(笑)ギター買ったよとその友達に連絡するもその友達は僕はやらないと(後に他の子とバンドを組んだ)言われ拍子抜け。結局同じ高校の友達からバンドメンバーを探すことに。何人かに声をかけるもあまりいいアクションはもらえず。やるやると乗り気の友達も聞いてみると男闘呼組(1988)みたいなのがいいと言われ。ギターオタクの友達はメタル好き(ドッケン、ラット、モトリークルー…)担任の先生に軽音楽部が作りたいと提案すると「そう言うのは学校以外でやりなさい」とやんわりと却下され。なんだかんだで一年が過ぎ平成元年(1989)の17歳、高校2年生になり同じクラスになった友達となんとなく気が合い念願のバンドを結成することができた。

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初めて買ったギターアリアプロⅡ

バンドやろうぜ(1988)三宅裕司のいかすバンド天国(1989)奇しくも、いや今思えばブームの予兆はあった。そしてそれすら仕組まれたものだったのかもしれないが、いわゆるバンドブームの始まりだったた。当時関西ではイカ天はテレビ放送はしておらず僕の住む片田舎には雑誌やその他の音楽番組(夜のヒットスタジオ、ミュージックトマト、MTVジャパン)でその存在を知るだけだった。イカ天キング→その他音楽番組だったのでやはりワンテンポ遅れていたかと思う。しかしそこは火付け役の番組であってその他テレビ番組でも色々なバンドが出てきて僕らは心躍らせた。教則本に載っていたレットイットビーのソロがTAB譜どおりに(いやおそらくそれも出来てなかった)弾ける程度のヤツが「次は僕の番だぞ」と息巻いていたほどのブームでもあった。

バンドをやろうと集まってみたものの最初は何をやればいいのかわからず。とにかくBASS担当のMのウチに集まった。何をすればいいのかわからずの程度も3人集まっているのにギター二人、ベース 一人今思えばベース 、ギター、ドラムだろと思うけどまあとにかくよくわかっていなかった。3人集まりまずは何をする?候補に上がったのはZIGGY(1987)ブルーハーツ(1987)JUN SKY WALKER(S)(1988)話し合った結果JUN SKY WALKER(S)のコピーバンドに決定バンドスコアを買い練習に励んだ。3人で何の練習をしてたんだか(笑)

練習(音楽談義)を重ねミーティング(馬鹿話)もバッチリ、靴のヒラキ(地元の靴のディスカウントショップ)でラバーソウルのパチモンも買った、黒の細身のジーンズも、ロンTの首も破いてダメージ加工も!!でもやっぱり何をすればいいのかどうすればライブができるのかはわからず。友達がライブをするよと言えば見に行っていた。因みに当時のコピーバンドはBOØWY、ブルーハーツ、ラフィンノーズがほとんどを占めあるライブなんかは連続「GET THE GLORY」「GET THE GLORY」じゃないのにドラムから始まる曲はなぜか全て「GET THE GLORY」違う曲なのに「GET THE GLORY」の大合唱でみんな暴れ出すと言うのがお決まりになっていた。しかも小さな市民会館のホールとかで。アホな高校生が公共の場で多大なるご迷惑をおかけしました。今ここでお詫びします。

ほんと何も考えてなかったんだ。
いや考えていたんだろうけど浅い。今の長男よりも。
そして根底に流れるものは今も変わらないのかもしれない。

続く。

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