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自らが変容し続けることを促す鍵とは何だろうって考察

両親が二人とも還暦を超えた歳になったことをずっと祝うことができなかったので,これもタイミングだろうと昨日実家に一瞬帰省し,珍しく外食に行くことができた.

僕の家族は少し一般的な家族実態と異なるような感じがあるのは子ども頃から若干感じつつ生きてきたし,大人になってから尚のこと確信に変わってきた.
それが本題でないのだが,僕もいい歳した(三十路)おじさんの仲間入りを果たしたし,長男であることをそこまで強く意識していな上そこまで大きいことを両親に提供することはできないが,せめて何かしら食べたいものを金銭で叶えることができればと思ったくらいだ.

親としては(少なくとも僕の両親は),子どもに対して「健康的に楽しく過ごしてくれていればそれでいいという望みがあるだけらしい.
僕の仕事事情に関しては,実績が超絶いいのでその話も嬉しそうに聞いてくれたので,少しは親孝行をできたのではないかとちょっと清々しい気分になった.

僕の親孝行に纏わることを話したいのが本題なのでなく,タイトルのこと.

「自らが変容し続けることを促す鍵とは何だろう」

自らが変容し続けることこそが自分の人生を豊かにしてくれる鍵だと勝手に僕は信じている.
変容といっても,容姿(ファッション,ヘアースタイルなどの外見)を変えることでなく,精神的な姿のこと.
目にどのように世界が映っているのか,という精神的な蓄積のことだ.

その理由は,時代そのものがダイナミックに変化し続けていることがきっと大きく,それに取り巻かれる人もまたそれに適応できるように変化し続けることを義務でなく行使するかどうかという選択的権利として突きつけられるからなのだと捉えている.
また,自らの精神の蓄積が変わらないということは「淀み」が生まれ続けるということだ.流れのない水はいずれ淀む.そして,生き物が生きていく環境に適さないようになっていくのだろう.

前置き長すぎ案件発生中なのだけれど,何故こんな話になったかというと,昨日の家族一緒の食事中に,「人の話を聞いてそれを実際の行動に結びつけることができるかどうか」という話がでたのだ.

母は栄養士の免許を所持しており,いわゆる超絶健康オタクだ(本人にその自覚は全くないw).
食事のことにかける情熱というか,健康に向き合う姿勢がすごいのだ.
両親の身長は165cm・152cmというサイズで,親戚一同も体格が大きめの人がいないどころかどちらかというと小さめの体格の人がほとんどだが,僕は身長183cm(妹・弟は平均身長).
運動する・寝る・そして食うことを人並み以上に十分に果たす10代を過ごすことができたのは,貧乏ながらも紛れもなく母が施してくれた食事環境のおかげなのかもしれない.

毎朝,米・味噌汁・魚・野菜が必ず出てくる食事が15〜17年続くと,それはもうすごいこと.
肉や油ものは1週間に1度出れば多いくらいだし,何より食材の栄養表示のチェックが抜かりなさすぎて,田中家の食事を初めて見た人は少なからずややカルチャーショックを受けるのではないかってくらい.

父は,かなりの肉好き・油好きなのだが,母の食事教育を施され「(父曰く)去勢されたような食事」を継続し,健康体になったという話を昨日していた.
還暦を迎えて尚,健康診断で問題のある判定が出ないほどである,僕の母と父,すごない?笑

やっとこ本題に移る仕込みができたところで,何が言いたいかというと,
父「人の言うことを自分の行動に取り入れることができているかどうかって,本当に人の話を聞けているかどうかに関わってくる」(ちょこっと実際の台詞とは違うけれど)
父「人の言うことを聞くことって,いろんな人の考えや行動をいくつも知っているバックボーンがないと,なかなかできることではないよな」(ちょこっと実際の台詞とは違うけれど)

確かにな!と思った.
あくまで自分の場合なのだが,小・中・高校生の時までなんて,僕は人の言うことを聞くような聞かないような軸がブレブレな人間だった(今もかなり当てはまるけれどw).
多少のロジックでの判断はあったけれど,好き嫌いであるいは反発的な感情で物事を判断する安易な決断が大きかった.
面倒なことを避け,意味を吐き違えている「自己犠牲」を美学だと無心に信じ,本当に自分がやりたいことが何なのか分からないまま,随時的・姑息(=その場逃れ)的に生きていた.

また,人の話を聞くということはいくつかのパターンがあり,それぞれ目的は異なるのでないかと認識している.(これに関しては,考察深めて記事にするぞ!←逃げ)

ただ,今回の話に関してだけで言えば,
事実:栄養士の免許を持ち健康オタク的食事指導を家庭で存分に振る舞い,その考えを父はインストールし,還暦にしてかなりの健康体であること(母・僕・妹・妹も同じく笑)
事実因子:父が母の食事に関する考えをしっかり咀嚼し,わがままを言わず受け入れていること

あと,僕の体験的にも一つ言えることがあるとしたら,
「人の言うことを聞くことができるかどうか(コトのテーマに依拠するところはある)は,個人のバックボーンや現在の到達点が問われる」
ということ.

前述したが,僕が人の言うことを冷静かつ理知的に判断できる素地は高校生頃まで備わっていなかった.
その理由の一つとしては,
選択的に判断するだけの多様な人がいることやそれらの人の思想が多様であることを実感していなかったから
ということ,に尽きるのだと思う.

それと,田端さん(Twitterアカウント)がR25(20代ビジネスパーソンをメインに提供するWebサイト(説明がかなり雑だけど))で以前に
『妥協はクリエイティブな行為』と言っていたことが途轍もなく自分の中に刺さりまして,この言葉を思い出しもした.
妥協=(日本人的な考え方として)品質を下げる考え方や行動
だと,思っていたけど,実際は
妥協とは既存の意見を,2者以上でアップデートする意思決定プロセスであり,合意である
というように,なんとなしな考えがあったため(その時は言語化できていないレベル),妥協をよしとする前向きな考えに至ることができた.
妥協をする前に,最善主義的なスピードとクオリティを高める地盤を走りながら作ることがもちろん前提として必要になるわけだけれども.

その先にあるテーマとして,異なる言い方をできるとすれば,
2者以上でお互いの価値観を認め合うことができるかどうかで,よりいい意思決定ができるかどうか
となるのだと勝手に話を飛躍させてみる.

何故,他者と話をするかというと,
より最適化された意思決定を行い,最善の結果を求めるため
(いや,あれですよ,全てがこれに当てはまるわけでないし,雑談もあるし,ちょいと大風呂敷を広げすぎているけどさw)

そのために,相手と自分の思考の棚卸を(テーマに沿って)見せ合う.
仮に,その人の蓄積された経験値が相手の思考の棚卸を積むことができる「許容面積(広さや丈夫さ)」と置き換えると,受け入れるだけの到達点が必要なのかもしれない.
たくさんの人の話を聞く,その上で自分の考え・到達点を知る鏡として利用し,次のステップ(目標や課題)として設定できることにつながる.

何かを受け入れるって簡単なことではない,という話を聞くけど,そりゃそうですよね.
そもそも同じ人間なんていないんだから,内面的・肉体的蓄積が違うんだから.
話がこじれるのだって,前提や立脚点が違ければ,お相手の展開についていけなくもなりますよ.
だから,相手の思考の棚卸を知ることができるような質問をできるって大事だと思うんですよね(最後の最後に浅いし雑…).

話があっちゃこっちゃいったので,言いたいことをまとめると

2019年2月3日現在の僕の思考到達点
自らが変容し続けること(豊かに生き続けるため)を促す鍵とは何だろう

人とその思考の多様性があるという実感をできているか,それを磨き続けることができているか
他者の考えとその背景を知るために最善を尽くせているか(質問する・される┃意見の差異を明確にする・理由を知る)
価値観を認め合うことができるようなマインドセットができているか(否定しない・かといってイエスマンでもない┃)

常に発見思考が重要ですね,マジで(いつも以上の話の飛躍具合に自分で呆れている顔٩( ᐛ )و)


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世界が豊かになるように,まずは自分がささやかな豊かさを味わわせてただきたく。