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価値観が合う,より価値観を認め合う・高め合うことができるということなんだと思う

そんな関係の方が素敵な気がするっていう話.

僕は「価値観」という言葉をなんとなく使用してきたことが多いけれど,
この「価値観」という言葉の意味を,発する個人個人が咀嚼しきった上で,適した文脈で使われることはどれくらいあるのだろうか.

別にそのような統計を取りたいわけでも,価値観という言葉の本当の意味を知ってほしいというわけでも,誰かを否定したいわけでもない.
世の中の変化が大きく多様化しているこの時代に,価値観という言葉を使われる文脈で何かを一蹴されるようなことが往々にしてよくあるような気がしているため,これからの時代でキーになりそうな価値観という考え方に少なくとも自分が向き合っていきたいというだけだ.

価値観という言葉がよく持ち出されるような文脈や話題を見つけようとしたら,以下のようなものが…

このような思想や出来事を目の当たりにする度に,以下のような疑問が湧いてくる.

そもそも
価値観とはどういったものなのか
価値観とはどのように形成されるものなのか
価値観はどのような機能を発揮するのか
価値観とは淘汰されるものなのか
そんな疑問を抱きまくると,自分のためにも学びを得たく以下に考察してみたいと感じたことを記してみる投稿です(ただし,全ての疑問に関して考察するとは言っていないw).

価値観(かちかん、英:sense of values)とは、何に価値があると認めるかに関する考え方。 価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。 ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断
出典:Wikipedia

ちなみに,Wikipediaの関連項目には以下のような項目があった.
価値┃人生観┃人生の意義┃幸福論┃価値の明確化┃世界価値観調査┃価値観外交┃価値多元主義┃哲学┃主義┃倫理学┃規範意識┃法律┃心理学

思い返せば今までの人生で,価値観が合う,という人がどれだけいただろうか.
少なくとも僕にとっては,1人いるかどうかすら分からない.

ただ,価値観を認め合いたい,高め合いたいと思う対象の人は少なからずいることもまた事実である.
そのような出会いをすることができたと言うことができるのは本当に幸せなことなのだと思う.

僕は大学に入学する前に2年間の浪人生活を送っていた.
それまで極端に人との接触を怖がり,友達と呼べるような存在も少なく,日々をいじけて生きていたような記憶がある(思い返すだけで吐き気がw)
大学に入学することが決まり,もちろんその大学には知り合いなど一人もおらず,同級生も一つ上の学年の先輩もほとんどが歳下であることにビビりながら,大学生活への希望なんて入学する前はほとんどなかった.
自分を変えたいという想いのもと,とある団体(生徒会的な?)に入った.
そこでは,一つの揺るぎない価値観(理念)があり,それを達成しようと素人なりにずぶずぶと組織哲学を実践の元で学んでいった.
そのようなプロセスを通じて,自分の価値観に何かしらの付加をすることができたような気がする.

そこで,他学部・2学年上・同い歳の先輩(Y.O氏)に出会い,以来約10年間の時が経たが今でも交流がある.
「田中は他の人と違う空気がある」と言ってくれ,ファッションの師でもある(おそらく総額20万円以上の投資をしてくれている,すごいw)
僕にとって,その人は僕の人生において間違いなくキーパーソンである.
親友・仲間・同士といったような言葉が適切でないような適切であるような,全くもってこの間柄につける名前が分からないような関係だ.

強いて言えば,「お互いの価値観を認め合い,高め合う」ことができる関係と言ってもいいのかもしれない.
僕はY.O氏から相当なtakeを受け取っているが,何をgiveできているか分からない.
ここ3年間で結婚しお子さんも生まれたので,その時々に合うような簡単な贈り物をgiveしているくらいだ.
もう一つ言えば,誰よりもY.O氏との対話を楽しんでいるということくらい.
お互いが身を置いている環境が違うことからなのか,会う度に,自分たちの人生における分水嶺とは何か,変化してきている価値観や今後の方向性など,ノンストップでずっと話をしている.
そういう意味で,情報交換や価値観をするのにちょうどいい関係なのかもしれない.

僕の強みをこんな感じで言ってくれている↓

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本来話したいことから,話が大胆に逸れたけれど,何故こんな話になったのか.
自慢話でなく,Y.O氏と価値観が合うという話でもない.
価値観を認めあえる関係が,自らや自らが大切にしたい人との関係をアップデートし続けるキーなのではないかと感じている.

仮に価値観が合うという関係がその人にとってどんなにいい居心地を提供するとしても,それがその人にとって何かをアップデートすることにつながるのかという疑問に対して解があるとすれば,どんな解なのか.

価値観は前提として,違うことがそもそもの大前提なのだという考えを僕はもっている.
とある文脈において,全く同じ価値観が存在する状況があるしたら,それは共通の所属団体の理念や宗教の教義が一致している時でない限りなかなか存在し得ないと考える.
それらがあるとしても,生きる上で個人が持つ「正義」はなかなかに強固なものであり,その個人が立脚する到達点は異なるような気がして,「価値観が合う」ということにつながることも正直かなりのレアケースなのでないだろうか.

そもそも価値観が合うという定義はケースバイケースで,それを感じる個人の感覚によるものなのかもしれないが.

価値観とは,色眼鏡のようなものなのかもしれない.
文脈により,その個人が獲得してきた経験値が,その個人がかけている色眼鏡の「色相」や「ピント」だったりして,景色や物事をどのように捉えているかを規定する.

そして,その色眼鏡はいろいろな経験や価値観のぶつけ合いから,この世界の見え方をよりくっきりと豊かに見えるようにすることができるのかもしれない.
価値観が合う(似通うと言った方が適切なのかもしれないが)人と付き合うより,異なる価値観を認め合い高め合いたいとお互いに求め信じ合えるような関係にこそ健全な価値観のアップデートを齎すものなのだと僕は考えている.

見返すと,抽象的で感覚的でものすごく偉そうに物事を語っているので,若干の自己嫌悪に陥っているが,まぁよし.
以上,参考まで.

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世界が豊かになるように,まずは自分がささやかな豊かさを味わわせてただきたく。