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ゼミ選考課題で書いたけど落とされた作品

これは去年の秋にゼミの選考課題で書いたエッセイです。最初は小説を書こうとしていたんですけど気付いたらエッセイ風になっていましたね。残念ながらそのゼミに#入る事は出来なかったんですけどせっかく書いたので供養したいなと思い掲載することにしました。

課題の題目は『始まらなかった祭りのあとで』という通しタイトルのアンソロジーに収録する作品を書く。小説、エッセイ、ルポルタージュなんでもOK。ただし「2020年という時代と、舞台にした現実の街と、それを描く自分自身がしっかり感じ取れるもの」でした。

2020年という年はとても苦しかった年ですが、苦しかったからこそ感じられた事は沢山ありました。そんな思いの数々を実体験を交えてまとめました。

それでは以下より本文です。

『そして夢を見る』


 プロローグ
夏といえば何を想像するだろうか。海、バーベキュー、山登りなんかもいいかもしれない。でもそんな中でも忘れてはいけないのは夏の風物詩“お祭り”であろう。鼓膜に響く人々の喧騒、色彩豊かな浴衣姿、鼻に突き通る屋台の匂い。古来よりお祭りは人々を元気にし、地域に力を与え続けて来た。しかし2020年、お祭りはその姿を消した。お祭りによって支えられていた地域は活気を失い元気のなさは日本全土を覆っていた。これは元気が消失した日本で活気を失ってしまった地域の話である。

 第1章 馳せる
一歩、そしてまた一歩踏みしめる。賑わう商店街、人々の歓声、踊り子たちの笑顔。動き出した足は止まることを知らず、踏みしめるたびに蘇る思い出が残像として瞼の裏に映し出され、そして記憶の彼方へと消えゆく。「ああ、そうか。これが2020年という年なのだな。」理想と現実の乖離を目の当たりにした僕は天を仰いだ。雲ひとつない青空だけはあの頃のままだった。
 
 第2章 違和感
遡ること数週間前、サークルの同期六人組でシェアハウスをしていた僕たちはリビングでダラダラとした時間を過ごしていた。そんな静かな時間の中、唐突に叫びだしたトムの一言から全ては始まった。「夏休みの終わりに高知行こうぜ!」僕らは全員ポカンとした顔でトムを見つめた。よさこいサークルに所属している僕らは毎年夏に高知のよさこい祭りに参加していたから高知県とは少し縁がある。だが、今年の祭りは中止になっていて行く理由は特にない。「東京から高知に行くのってコロナ的に大丈夫かな?」冷静なしゅーきが返答する。待っていましたと言わんばかりの顔で即答するトム。「交通手段は大事だよね。夜行バスとかも安いけどなんか不安。東京から高知まで一三時間かかる上に、換気もあんまりされてないから感染する可能性あるし。飛行機は感染予防対策しているから安心だけど、学生の懐的にはキツいものがあるよなあ。それでさ、俺考えてみたのだけどレンタカー借りて車で高知まで行くのはどう?交代で運転すれば一人あたり二、三時間の運転で済むし、全員で割り勘すればそこまで高くないよ。何より他の交通手段に比べて他者との接触が少ない。名案じゃない?」断る理由はなかった。それにお祭りのなくなった高知が気になった僕らは顔を見合わせて頷いた。よし、高知に行こう。
 深夜に東京を出発した僕らは早朝に大阪を超えた先にある宝塚北SAで休憩を取ることにした。見渡す限りの関西ナンバーの中で僕らの“品川わナンバー”はひときわ目立っていた。周囲からの冷ややかな目線は至極真っ当なものであり、それを十分に理解していた僕らは用事をさっさと済ましてそそくさとSAを後にした。友達と過ごす夏にしてはどこか物足りなさが胸につっかえたまま僕らは高知県へと突入した。
 高知インターを降りて走ること数分、変わらぬ高知の景色に僕らは喜びの声をあげた。駅前のコーナンも、毎年泊まっているホテル高砂も、はりまや橋も、全てが全て僕らの記憶のままだった。そう、街に活気がないことを除いては。それはそうだ。僕らが毎年高知に行っているときは全国から約200ものチームが参加しており、およそ18000人もの踊り子が高知に集結しているのだ。その時に比べれば人数が少ないのも当然と言えば当然であろう。しかし活気というのは単に街に溢れかえる人数の話ではなく、街全体としての雰囲気に関係してくる。抽象的かもしれないが、きっとこれ以上にいい言葉はないだろう。街に元気がないのだ。ホテルで車を停めた僕らは街へと繰り出した。サークルで高知へ来る時はいつも一週間以上滞在しているが滞在期間のほとんどの時間をお祭りの参加に費やしているのでお祭りなき高知での過ごし方を僕らはまだ知らない。何をすればいいのか分からず僕らは帯屋町壱番街商店街にある行きつけの塩ラーメン専門店「なゆた」へ出向いた。相変わらず店長は陽気であたかも僕らが常連さんかのように接してくれる。「東京から来たん?!そりゃスゴイなあ!えらい時間かかったんちゃう?ゆっくりして行ってや。」温かかった。ただただ温かかった。コロナという未知の病が流行しているご時世で、コロナの蔓延が止まることを知らない東京から来た若者に対してここまで親身な対応ができるだろうか。人の温もりに触れ、僕の心に刺さっていた棘が取れたように感じた。東京から来た人ではなく、一人の人間としてやっと扱われた。
初めてだった、この旅が始まって心からの笑みがこぼれたのは。

 第3章 灯火
 腹ごしらえを終えて僕らは遊びに出かけた。天気が良ければ毎年サークルメンバーで遊びに行っていた五年連続水質日本一の仁淀川。相変わらずに透き通っているその水に僕らのテンションは最高潮に達していた。そんな中でこの状況をどこか俯瞰している自分もいた。本来なら何十人もの仲間と遊んでいるはずだったこの場所には僕ら六人しかいない。ポッカリと空いた心の隙間に澄んだ仁淀ブルーが流れ込んで来た。僕の心は濁ったままだった。
 夜は帯屋町壱番街商店街を抜けた先にあるひろめ市場へと歩を進めた。相変わらず夜の高知に祭りの匂いはなく真夏の夜風の匂いだけが鼻の奥に充満していた。一歩、そして一歩。旅が始まってから実感していた理想と現実の乖離は僕に重くのしかかって来た。「あ、中央公園だ。」トムの一声で僕は左を見た。例年ならば中央公園には特設されたステージが中央公園を埋め尽くしておりお祭りのメインステージとしてその存在感を示している。しかし今年はステージがあるわけもなく、僕らは初めて中央公園が実はそこまで大きくないことを知った。突きつけられる現実は重く僕らにまとわりついた。「高知で踊りたかったな。」誰かがそうボソッと呟いた。なぜだろうか、僕の頬を一筋の雫が垂れた。垂れて、止まらなかった。ぼやけた視界で見る街灯は憎たらしいほどに美しく、残酷だった。
 いつからだろうか、期待することを諦めたのは。いつからだろうか楽しみを奪われることに抵抗しなくなったのは。いつからだろうか自分の気持ちに蓋をして心の引き出しに閉まったのは。二年間共に頑張って来た同期たちと半年間かけて作り上げた演舞。それを披露する機会が失われたことがただただ悔しかった。大人は言う、「来年があるから今年は我慢しなさい」と。僕らはいう、「2020は今年しかなく、来年に来るのは2021年なんだ。幹部代の僕らには来年は訪れない」と。有限の時間を生きる学生には“今”を生きることが大切なんだ。無駄に過ごせる時間など一秒もないはずなのに無条理にその時間は僕らの手からこぼれ落ちてゆく。ただただ悔しかった。だから僕らはただただ泣いた。泣くことしか出来ないから。それが最善の策だったのだろう。泣きじゃくった後の僕らは見た目とは裏腹にスッキリしていた。
 このろくでもない、素晴らしき2020。決して恵まれた年ではない。だけどその現実を受け入れ理想を諦めてもいいのだろうか。大切なものをたくさん失ったこの年だからこそ、大切なものを再確認出来た年となるんじゃないか。お祭りは失われ、街の活気は減ったかもしれない。学生の時間が失われたかもしれない。だからと言ってみんな下を向いたままでいいのだろうか。コロナ禍でできることを模索していかなければこの2020年という年は本当にろくでもないもので終わってしまうだろう。ろくでもない、素晴らしき2020年にするために前を向いて今できることをやる必要があるのではないか。あまりにも長い間自分は腐っていたなと思いながら中央公園を後にした。見える景色は往路とは全く違ったものだった。
 遅ればせながらも僕らはひろめ市場に到着した。感染防止対策として一テーブルに四名までしか座れなくて二テーブル使用した。これぞウィズコロナの生き方と言わんばかりだ。ひろめ市場は本来ならば人で溢れかえっており見知らぬ人と机を共有する偶発的な出会いで地元を感じられる楽しさがあるのだが、ソーシャルディスタンス(人と人との間に物理的な距離を置くことで密接な接触を行う機会を減らす方策のこと)が重視される今、その楽しみは存在しない。その代わりに、話したい人と快適な広さで会話ができるため会話に集中ができてそれが今の僕らにはぴったりだった。地元のお酒と料理を嗜みながら僕らはこれからのことをたくさん話した。形は違えども、仲間と過ごす夏が此処には確かにあった。大事なものがあまりにも奪われてしまったが、コロナの時代もそう悪くない。僕はそう思えた。順調に進んでいく人生なんて面白くない、壁にぶつかってこそ、それを乗り越えてこそ人生は面白いんじゃないか。自分という人間がひとつ成長したのを自分でも感じられた。
 コロナで失われていく文化。文化が失われ、生産性も無くこなすだけの日々。文化を奪われた私たちはまるで機械のようだ。だからこそ我々は文化の大切さを再確認しなければならない。今を生きる我々には代々引き継がれ、時代に合わせて形容していく文化を守り後世に残す義務がある。お祭りも同じだ。今年で終わらないようにするために、街が元気を無くさないようにお金を投じること。街へ直接訪れて経済に貢献することや応援のメッセージを送るだけでもいい。文化には必ずそれを作り上げている人がいることを文化の参加者である我々は肝に命じて置かなければいけないだろう。今まで幾度となく訪れた高知という街。そのような街をコロナ禍に訪れたことで今までとのギャップを知ることができた。確かに、今までの街はそこにはなかった。だが、僕は実際に目の当たりにすることで僕が守るべきものを認識して、この時代でも理想を追い求めることを理解した。理想と現実は乖離している、だからと言って理想を追い求めてはいけないわけじゃない。
自分次第でいくらでも美しくなるこの世界。
ろくでもない、素晴らしき2020に終わらない夢を見たくて。
暗闇を照らす灯火になりたくて。

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