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私が私であるために

出る杭は打たれるという言葉のように日本で自分という人間を表現することはとても勇気がいることだ。アイデンティティを全面的に出すことは間違っていないのに固定観念と均一化にまみれた社会によって人々が自己同一性を失ってしまうこと。僕はそれがとても悲しい。

自分という人間を見失わないためにも自分の意見、表現は貫き通すべきだ。世の中の”当たり前”に押し潰されながら自我を通すことは辛いこともあるが、諦めて”当たり前”に従ってしまった時の方がもっと辛い

僕自身の話を少ししよう。僕はピアスをつけるのが好きだ。そこに深い理由などなくただファッションの一つとしてピアスをつけるのが好きなだけだ。僕からしたら自分の好きなことをしているだけではあるが、赤の他人からしてみたら僕はチャラい人怖い人でしかないだろう。知人たちに聞いた僕の第一印象と幾度となく受けた職質がその事実を裏付けている。

さらに僕は気分で髪をめちゃくちゃ伸ばしたりブリーチしたりする。柄が悪い事は重々承知している。でもこれは自分がやってみたい事であり、自分という人間の表現の一つである。確かに他人から小言を言われるのはストレスではある。それでも自分の好きに包まれることは幸せなことである。

最大限自分を理解できるのは自分であるから、最大限自分を魅せれるのもまた自分なのである

だから僕は自分のアイデンティティを全力で肯定していきたいし押し出していきたい。自分が自分でいるだけでこんなにも幸せになれるのだから。

結局他人は他人で自分は自分なのだ。他者はそんなに自分のことを見てもいないし気にも留めてない。自分の人生に他者の評価を介在させる必要はない。ゲームなんかでもそうではないか?「お前なんでこんなの手持ちポケモンに入れてんの」と言われたところで「うっせえわ」と返して聞く耳を持たないだろう。それと同じだ。

さらに自分を表現した生き方をした結果、他人の生き方を尊重できるようになる。僕はアイデンティティを保持する上でこれが一番大事なのではないのかと思う。もしも人類がみんなこの考えを出来るのであれば、極論すると人種差別やジェンダー問題は消えることになるのであるから。要するに自分を愛することが出来ない人が他者を愛することは出来ないのだ。

何故自分を表現する人が少ないのだろうか。一つ考えられる結論として、出る杭は打たれる風潮によって自分を出しづらくなった結果「量産型」に落ち着いてしまったのではないか。「量産型」という言葉があるが、量産とはそもそも大量生産の略称であり、いわゆる量産型男子や量産型女子というのは無難な・ありきたりな人を表している。二つ目に考えられるのは現代に蔓延している安定志向の考えだ。自分の可能性を見限り、夢も特になく無難に生きようという人間は一人や二人ではないだろう。そういう無難な人が無難な人間になってしまうのは驚くことではないのかもしれない。自分の夢に向かってチャレンジしているような人が人の目を気にして自分を表現することを躊躇うはずがない。

否定的な意見を羅列してきたが、価値観の変容が見られるようになった今、自分のやりたいことができるようになってきているのは間違いないだろう。となると夢を持ち始める人も多くなり、自分のアイデンティティ剥き出しの人で溢れかえる時代もそう遠くないのではないのかと思ってしまう。

やりたいことができる世の中でやりたいことを追求しないのは愚問だ

長々と書いてしまったが僕が願っているのはただ一つであり、社会人でピアスつけてても何も言われない世の中になって欲しいって事だけです。

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