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世界のConflicts(紛争・対立)とContradiction(矛盾)を探求する女性パレスタイン人アーティスト、Mona Hatoum(モナ・ハトゥム)

Mona Hatoum(モナ・ハトゥム)さんは、日本でも展示会があったようなので、作品を目にしたことがある人もいるかもしれません。

モナさんは、レバノンの首都ベイルートで、パレスチナ出身の両親の元に1952年に生まれ、ベイルートで育ちます。両親は、現在はイスラエルの一部となったHaifa(ハイファ)に先祖代々暮らしていましたが、1948年にユダヤ人で構成されるシオニズム民兵組織(ユダヤ人のための国をつくるというイデオロギー)によって武力により追い出され、隣国のレバノンに逃れざるを得ませんでした。
これは、モナさんの家族にだけ起こったことではなく、70万人を超えるアラブ系パレスチナ人が、モナさんの両親同様に住んでいた先祖代々の家を武力によって奪われたり、住んでいた村々を破壊され、難民となりました。
シオニズム民兵組織は、テロの手段も使い、原住民であるパレスチナ人の虐殺も行いました。

1948年にすべてが突然始まったわけではなく、世界の半分近くを植民地支配していた大英帝国が大きく関わっています。
ユダヤ人のパレスチナ地域への入植は、大英帝国のバルフォア宣言(1917年に短い曖昧な文章で、パレスチナ地域にユダヤ人の建国をすることを約束)以来、大英帝国がパレスチナ地域を委任統治をしている間に急激に増え、1922年から1935年の短い間で、9パーセントから27パーセントに増加しました。大英帝国は、パレスチナ人から強制的に取り上げた土地を新移民のユダヤ人に渡したりすることや、パレスチナ人への残酷な扱いもあり、不安が高まり抵抗・暴動も増えました。それをおさえるための残虐なやりかたをユダヤ人組織と協力して行いました。
イスラエルが現在もよく使う手法、Collective punishment(集団処罰ー国際法では違法)、攻撃されると思ったらその前に攻撃(これも国際法ではグレーゾーンで違法の場合も多い)、集団処罰として一気に市民の家も含めて家も村もすべて破壊(国際法では違法)、裁判なしでの処刑や裁判なしで人々を牢獄へ長期間拘束(国際法では違法)は、もともとは、大英帝国が植民地の人々を抑圧しているために使っていた手法で、イスラエル政府はそれらを引き継いでいます。

ユダヤ人の急激な増加によるパレスチナ人の不満をおさえるために、大英帝国はユダヤ人の入植を制限することにしたのですが、そのころには、ヨーロッパでのユダヤ人への迫害はひどくなる一方で、多くがヨーロッパでない安全に暮らせる土地を求めてパレスチナ地域へとやってきます。
大英帝国は、その船をヨーロッパに送り返そうとしたものの、ユダヤ人からの不満も高まり、大英帝国が訓練したユダヤ人シオニズム民兵組織が、今度は大英帝国の警察組織を攻撃・殺害しはじめました。大英帝国は、結局はパレスチナから去りますが、その際に大英帝国の高官が残したことばは、「ユダヤ人もアラブ(パレスチナ人)もどっちも獣(=大英帝国が大きな禍根を残したのは事実だが、どっちも人間以下なので、どうなろうと自分たちのような高級な人々の知ったことではない)」だそうです。

植民地宗主国である西ヨーロッパの国々が残した禍根は、いまだにいきています。そのつけを払っているのは、搾取され、抑圧され続けた元植民地国の人々の子孫です。

モナさんの両親も含む、難民となった70万人は、1948年のシオニズム民兵組織による侵略前のパレスタイン領地(大英帝国の植民地で、パレスタインという独立国は存在しなかった)に住んでいた人々の約半分にあたると考えられています。
現在のガザ地区の人口の70パーセントは、1948年に自分たちの家や村を追われ、難民にならざるをえなかった人々とその子孫だそうです。
ほとんどの人は、狭いガザ地区(長さ約50km、幅5~8km)から出ることはできずに人生を終えるそうです。
この地域には、200万人以上が住んでいると見られ、世界で最も人口密度が高く、空も海も地上ボーダーもすべてイスラエルに管理・監視されていて、人も物も自由な行き来はできません。
ガザ地区は、Openair prison(オープンエア・プリゾン/天井のない牢獄)とよく呼ばれ、閉じ込められているパレスチナ人には基本的人権すらないし、人間として最低限の生活を送ることすら難しい場所だとされています。
パレスチナ住民は、子供も含めて、イスラエル兵に殺されることはよく起きていますが、それが大きなニュースとはなることは少ないです。最近では、アメリカ人でパレスチナ人でもあるジャーナリストが、ガザ地区での取材中にイスラエル兵によって射殺されました。いったんはニュースになったものの、イスラエル政府の言い分は何度も変わり、アメリカ政府も追及せず、うやむやになっています。

西欧諸国(元植民宗主国)やイスラエルは、この地域の問題はとても複雑だというものの、実際は、典型的なSettler Colonialism(入植者の行う植民地主義:あとからきた入植者が前にいた現地の人々を武力や暴力で追い出したり殺害し、土地や資源を奪い、自分たちがもともとの原住民であると主張し、生き残ったもともとの原住民を二級市民扱いして、基本的人権を与えず、差別し搾取する)でアパルトヘイトだとも表現されます。

モナさんの両親は、キリスト教信者のパレスチナ人で、レバノンでもキリスト教徒の多い地域に住んでいたそうです。父は、イギリス領事館で仕事をしており、経済的には、ほかのパレスチナ難民に比べると良い生活を送っていたようですが、レバノンはパレスチナ難民に市民権を許可しなかったため、モナさんは生まれも育ちもレバノンですが、パレスチナ人です。
ちなみに、レバノンでパレスチナ人に市民権を与えないのは、レバノン自体も、とても複雑な地域で、宗教(キリスト教、イスラム教でも違う宗派が共存)、部族の違い、階級の違い等があり、デリケートなバランスで成り立っている(政府やさまざまな機関でこれらの違う宗派や宗教、部族等を不満が出ないように配置)ため、突然増えたパレスチナ人(多くはイスラム教のスンニ派)を市民にすると、社会構成が大きく変わり、社会が不安定になる可能性が高い、ということも大きな理由だったようです。

モナさんは、芸術家になりたかったものの、不安定な未来を恐れた両親は、大学進学をすすめ、モナさんは、ベイルート大学のグラフィックデザイン科を卒業し、広告代理店で働き始めます。でも、モナさんはオフィス・ライフが大嫌いで、ちょっとした旅行でロンドンにきている間、レバノンで戦争が勃発し、戻れなくなります。これは、1975年に始まり、終結したのは1990年でした。この戦争の原因にも、イスラエルが1948年に多くの土着のパレスチナ人たちを武力で追い出し、パレスチナ人たちが周辺国へと逃げざるを得ず、さまざまな地域でイスラエルに対する抵抗運動を続けたことも影響しています。

モナさんは、レバノンにいる両親を心配しながらも、ロンドンで念願の美術学校へと通い始めます。休日や空いた時間はアルバイトをして、なんとか生活していたそうです。両親は、レバノンでの戦争はすぐに終結するとは思えず、レバノンには若者の未来はないことを確信し、モナさんがロンドンに残って、夢だった芸術家への道へと進んでいることを喜び、応援していたそうです。

モナさんのロンドンでの初期の作品は、モナさん自身が行ったパフォーマンス・アートが多いです。そのころ、誰もが履いていたドクター・マーティンの靴の靴ひもを足首に巻いて靴を後ろにひきずりながらBrixton(ブリクストン)を数時間裸足で歩いたりと、生まれ故郷である地域の紛争の緊張感やフラストレーションを表現します。

その後は、芸術大学での講師の仕事をしながら、自分の作品をつくりますが、パフォーマンス・アートにも疑問を感じ始めていたころ、カーディフ(The UKの4か国のうちの一つ、ウェールズ国の首都)で職を得て、ここで初めてきちんとしたスタジオを持つことができ、次第に抽象的なインスタレーションワークへと変化しはじめます。

パフォーマンス・アートやインスタレーション・ワークでよく知られていますが、描画力も優れていて、通常のスケッチブックはかさばるし、なんだかもったいぶっているようで、今は常に小さなノートをかばんにいれて持ち歩き、スタジオでは大きなノートを使っていると言っていました。

モナさんは、作品をつくりはじめるとき、最終的にどうなるかは、自分でも分からないそうです。それがエキサイティングであるとも言っていました。

モナさんは、現地にいき、現地の人々のなかで暮らし、現地の普通のお店やマーケットをめぐり、作品を作り上げることが多いです。スタジオの中に一人でこもって、というスタイルではありません。
そのため、さまざまなアクシデントや偶然があり、違うアイディアや新しいアイディアがよく頭の中、心の中を飛び交い、オーガニックに育っていきます。
そのため、いったん展覧会に出した作品も、最終作品ではなく、心の中にのこっていて、もっとプッシュしたりひろげたりできるものだと考えています。モナさんの中での、ときが満ちた時、それは自然に出てきます。

モナさんは、1996年(43歳ぐらい)に初めて、イスラエルと、イスラエル占領地域であるパレスチナ自治地区にも足を踏み入れます。そこで初めて、両親がもともと住んでいた家を外から眺めたり、会ったことのなかった親戚たちにも会います。自分の両親の住んでいた家は、1948年に力づくで奪われた後、イスラエル人が住んでおり、眺めるだけで、当然中には入れません。
親戚たちも、全員が、自分たちの家を奪われました。多くのパレスチナ人は、自分の家や村を追われたときに、いつか戻ることを自分たちのなかで約束して家の鍵をもっていったそうです。
でも、そこから75年たった現在も、多くは難民のままで、将来への展望はありません。

イスラエル政府側のナラティヴが多くのメディアを占めており、私のユダヤ人の友人にも、「イスラエルは、2000年以上前から約束されていた、もともと私たち(ユダヤ人)が権利をもっている土地に、ヨーロッパで迫害や虐殺を受けたユダヤ人が建国。イスラエルが建国される前は、ほぼ誰もいない、小さなからっぽの土地だった。ほんの少しいたシンプルな現地人(パレスチナ人)には、イスラエル国民になってもいいという選択をあげたのに、それを選択せず、難民になったのはパレスチナ人の選択で、イスラエルには全く関係ない」というよく聞くナラティブを主張するひともいます。
これは、全く事実ではありませんが、このナラティヴを信じている、信じていたいひとも多いようです。
ほかの友人が、「その土地にはパレスチナ人が多く住んでいたし、それを武力やテロで追い出してつくったのがイスラエルだよね」とチャレンジされると、これもよくある受け答えで、「ナチによるホロコーストでどれだけのユダヤ人が虐殺されたと知っているのか、私の親戚もユダヤ人だからというだけで、虐殺されたり、なんとか生き延びた親戚たちの腕には、入れ墨された囚人番号があり、それらをみたことがないひとに、何が分かるのか」という感情的なものとなり、通常の議論を成立させるのは不可能となります。
虐殺や迫害にあったひとびとを、国籍や人種に関係なく、同情をよせるのは人間として普通の感覚だとは思うのですが、難しく感じる人々もいます。
ただ、ナチによるユダヤ人虐殺(ユダヤ人だけでなく、ナチが劣勢であると見なした人々ー身体・精神障害者、ジプシー、政治に反対する人々も同様に大量虐殺の対象だった)があったからといって、ほかの人々に対して抑圧や占領を行っていいという理由にはならない、ということは、ユダヤ人の良心ともよばれる、生化学教授でもあり哲学についても幅広い教養をもち多くの著作をおこしたYeshayafu Leibowitzさんも、生前言っていたそうです。
Yeshayafuさんは、イスラエルが国家と宗教をきちんと分離しないならば、宗教は腐敗を起こし、腐敗宗教国家となり、ユダヤ教はファシストのカルトとなりさがるだろう、と警告していたそうです。
現在のイスラエルは、ファナティックな極右派が政治を握っていて、ユダヤ人(=ユダヤ教信者)のみの国・地域にする(=パレスチナ人はいらない)という方向で、国際法に違反したウェスト・バンク地区の占領もどんどん推し進めましたが、国際社会からは、大きな批判や、国際法違反に対しての制裁は見られません。
それどころか、アメリカはイスラエルの軍事力をあげるための資金援助を長く続けています。

ただ、イスラエルの中でも当然ながら、さまざまな意見が存在します。
イスラエルはテロや武力でパレスチナ人を彼らの土地や家から追放し、土地や家を盗んだのだから、ユダヤ教の教え「殺すなかれ/盗むなかれ」に反しているとする人々もいるし、ユダヤ教を横に置いておいたとしても、基本的人権や国際条約に反しているとみるイスラエル人や、世界に散らばっているユダヤ人もいます。

日本にいると見えにくいと思いますが、ヨーロッパの多くの国々、特にドイツでは、ユダヤ人虐殺に対する集団的な罪深さのようなものが大きく、イスラエル政府の多くの国際法違反の行動について批判したり、パレスチナ人に対する抑圧・殺害(どれも国際法違反)に同情するようなことをいうのは、社会的にキャンセルされることにもつながりかねません。

それでも、勇気のある小説家やジャーナリストは声をあげつづけています。

なぜなら、多くの善良なひとびとが沈黙し、目の前で起こっているいることから目をそむけつづけると、ホロコーストのようなひどいことが起きうるのは明白だからです。
私たちは、ひとびとを非人間化することばや行動をきちんと批判し、私たちすべての人間性を守っていく義務があります。

モナさんやほかのアーティストたちが、声なき人々の声を伝え続けているように。

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