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フィル・スペクター獄中死 狂気と波乱のティーンエイジ・シンフォニー

どうも。

とうとうというか

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フィル・スペクター、亡くなってしまいましたね。

まあ〜、これに関してはちょっとトーンをドライにせざるをえない事情がありまして。それは、わかってる方にはご理解いただけると思うんですけど

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殺人犯ですからねえ。しかも、「無実をめぐって戦ってる」とか、そういうものではない類の。なので、ちょっと歯に物がはさまったような言い方にはどうしてもなってしまうわけですけど、それでも、彼が音楽活動を通してやったことには功績がある。そこは事実なわけですから、普段、ポップ・ミュージックの歴史を多く語っている当ブログとしても無視して通るわけにはいきません。ということで、彼がどんな人だったかを、音楽と実生活と両方語っていきたいと思います。

若い方だと特に知らない方も少なくないと思うので、彼がどういう人かを言っておくと、”元祖プロデューサー”です。音楽の主役をシンガーや作詞作曲家ではなく、「曲をどんな風にアレンジし、録音するか」にしてしまった最初の人」です。

この人、音楽シーンに登場したのはずいぶん早く

1,958年、この「あったとたんに一目惚れ」という曲でいきなり全米1位に輝いたテディベアーズのメンバーとしてデビューします。この右側でギター弾いてるのが、当時19歳だったスペクターです。

ただ、この1曲の成功でテディベアーズは終わりで、スペクターはこのあと、ポップ・ソングのアレンジ、レコーディングに集中する道を選ぶことになります。

そこで成功したのが

女の子のヴォーカル・グループで、このクリスタルズなどのヴォーカル・グループをヒットさせます。この頃からスペクターは、音全体にボワ〜ッとかかった”音の壁”、いわゆる”ウォール・オブ・サウンド”を売りにすることになります。

特にこの人は使う楽器の数が多彩で、それらが効果的に楽曲に彩りを与え、それが彼のサウンドの武器にもなっていきます。マリンバ、サイロフォン、グロッケンシュピール、トライアングル。ティンパニー。オーケストラで使う類の打楽器ですけど、これらをかなり効果的に使います。

そのうち

その最高峰とでもいうべき、ロネッツの「Be My Baby」が1963年に完成します。この曲あたりになると、音の壁のエコーの揺れに、多重録音による重厚な打楽器とベース、8分の刻みで入るピアノに流麗なストリングス、ドラマティックなコーラス、歌の後ろでドラマティックに響きわたるカスタネットと、リズム、ハーモニー、メロディ、すべてに隙のないパーツが集まり、そこにみずみずしい響く声に抜群のファッション・センスを持った女の子がフロントをつとめる。もう、間違いなく、これが完成系でしょうね。これはこの当時、「ティーンエイジ・シンフォニー」とまで呼ばれてたものです。

こうしてスペクターが、1960年頃から63年にかけて、プロデューサーとして大量にヒットさせた業績は、当時まだ新進気鋭のロックの若者たちに多大な影響を与えます。それがビーチボーイズのブライアン・ウイルソンだったり、ビートルズだったり。彼の影響がなければビーチボーイズの伝説の「ペットサウンズ」も生まれてなかったし、それに刺激を受けたビートルズの諸々のアルバムも生まれてなかった。それは事実だったと思います。

が!

同時にスペクターの作品には早くから問題がありました。

それは歌詞の世界ですね。きわめて性差別的というか。この曲なんかも「きょう、将来結婚する男の子に会ったの」って曲ですけど、スペクターの歌の世界に出てくる女の子って、きわめて受け身で、男の子に愛されさえすればそれで幸せ、みたいな感じの曲が目立つんですよね。この当時、せっかく、ガールグループという、女の子のヒットのフォーマットが出来つつあったのに、女の子自身の本音をちゃんと歌えたアイドルというのは少なかった。スペクターはその大きな阻害要因になったと思います。

その典型がこれですよね。悪名高いクリスタルズの「He Hit Me (And It Felt Like A Kiss)」。「彼にぶたれるのはキスの味わい」って、DVに幸せ感じるという、今だったら作ることさえ許されなかった曲まで存在してましたからね。

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そして、それは、結婚したロネッツのロニーとの関係にも現れます。スペクターの独占欲の強さゆえ、ロニーの活動は狭まれ、ビートルズからせっかく受けたツアーの前座も妨害を受け、ついには外に出れない監禁状態にもされ。

そうした、ある種の狂気が進行する中で

自身のウォール・オブ・サウンドをパワフルなシンガーに歌わせることで発展させていきます。それは元祖ブルー・アイド・ソウルのライチャス・ブラザーズやアイク&ティナ・ターナーだったり。

そして70年代にはビートルズとの仕事です。彼は1970年、69年に行われながら投げ出されっぱなしになっていた「ゲット・バック・セッション」を、すでにビートルズが解散に近い状況のときにまかされ、それがアルバム「レット・イット・ビー」として世にでることにもなるんですけど、その出来をポール・マッカートニーが気に入らず、バンド内に出来てた亀裂をさらに悪化させました。

ただ、スペクターを師のようにあおぐジョージやジョンとは相性がよく、彼らのソロ初期の代表作を手がけます。この頃になると、60sとは逆に、音数を削った中で音のゆらぎを表現できるようになってましたね、スペクターは。個人的にはこのサウンドの飛躍までが、彼にとってのアーティストとしてのハイライトかな、と思ってます。

ただ!

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「スペクターが銃をスタジオ内で扱って、アーティストを脅す」という奇癖も、もう出はじめるようになっていました。ジョン・レノンがすでに1973年に銃で脅されたのをはじめ

レナード・コーエンやラモーンズも、同じく銃をつきつけられたといいます。

そして、これ以降、スペクターは表舞台から消えます。

80年代、僕はこのあたりからなんとなくの「スペクター・サウンド」というのをオマージュとして知ることになります。「ドン、ドドン、チャチャチャン!っていうリズムなのか」という乱暴な理解ではありましたけどね。小中学校だったので。

アーティストとして意識して聞いたのは

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やっぱ、大学のときに出た、このボックスセットですね。これを90年代になって買って聴き始めたときかな。これに彼のメインの仕事がほとんど収められていたわけです。

ただ、あんまり興奮はなかったなあ。だって、もう、これ、聴き始めると同時に、僕がここまでで語ってきた「悪い噂」も同時に耳に入ってきてたから。あと、さっきも言ったように、歌詞。これがどうしても好きになれなくて。

音楽は素直にいいと思ったし、これがあったからビーチボーイズやビートルズの傑作が生まれたのも頭では理解もできます。ただ、「だったらビーチボーイズやビートルズ聞いた方がいい」とも思ったんだよなあ。曲は好きなのも結構あったんだけど、僕が同時期に掘り下げて聞いたブリティッシュ・ビートとかモータウンとかディランとかバカラックほどには夢中になれなかった。うまく説明できないんですけど、なんか「容器は立派なんだけど、そこに入っているものは・・」みたいな感覚みたいなものをどこか感じていたというか。

そうしてたら

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2003年に女優のラナ・クラークソンさんの殺害事件が起きてしまいます。そこでスペクター自身が殺害容疑で逮捕されてしまいます。スペクター自身が「私は彼女を撃ってしまったようだ」と語ってます。

これはなあ〜。びっくりしましたよ。だって、復活しようとしてた矢先ですよ!

スターセイラーのこの曲、いい曲だったのになあ。

ちょうどスペクターの住んでたLAのキャピトル・レコードで、当時、かなりプッシュされようとしていたイギリスのバンド、スターセイラーのプロデュースをやったばかりだったんですよ。この件がたたってしまったか、スターセイラーもこの後、伸び悩んでしまってかわいそうでした。

ちょうどこの頃、同じキャピトルの推しだったザ・ヴァインズもスペクターと共作するって噂あったんですよね。それはそれで楽しみだったんですけど。

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このときの裁判でも、スペクター、いろんな怪しいヅラかぶって法廷に登場してね。裁判の中身より、そちらの話ばかりも話題になって。こんなんで裁判が有利になるわけもなく、この件でも2009年に19年の実刑判決を受けました。このときが70歳だから、もう、ほとんど終身刑みたいなものだなと思ったものでしたけど。そうしたら、コロナが命を奪っていった、というわけです。

・・と、ある程度、ロックに興味のある人には有名な話をしましたけど、これが彼のキャリアの概略です。どう思うかは読まれた方の解釈にまかせますが、やったことがやったこと、また、それを起こさせてしまう普段からの言動も全く擁護できないので、いわゆる「芸術に人間性を求めるな」の物言いは僕はここでは認める気はないです。ドラッグでの逮捕とか、これまでに犯罪とは縁のなかった人のやった過失致死とかではないと思うので。あと、個人的に、ちょうど子育て中でもあるので、その点でもちょっと無理かな。

 ただ、ここからよくも悪くも学ぶことはたくさんあるし、知って無駄なことはないとは思います。

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