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特集・1969年(第2回) 当時の日本の表のポップ・カルチャー(音楽、映画、📺番組)

どうも。

今月は、クエンティン・タランティーノの新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の公開を記念して、映画の時代設定となった1969年について、当ブログでは大特集しています。

一昨日に公開した第1回は、「1969年当時、日本はどういう社会状況だったか」に迫りましたが、、今回は当時の日本での、一般に流行ったタイプの、表向きなポップ・カルチャーについて具体的に迫ってみましょう。

まずは音楽から行きましょう。

1969年と言うと、一般的に「カウンター・カルチャーが世界的に花咲いた年」との印象が強いです。ただ、この年の全てにエッジがあったわけでは必ずしもありません。

この年にヒットチャートの1位を取ったアーティストって、例えば森進一だったり、青江三奈だったり、クールファイヴだったりと、いわゆる演歌、ムード歌謡が多いのが現実です。ただ、昨今の演歌みたいに、「日本の心」みたいなものを強調して着物はおるとかではなしに、男はタキシード、女はロングドレスでダウンヘアみたいなパターン、どっちかというとお水系な感じがしますね。

ただ、そんな中、この人がデビューしてますね。

藤圭子がデビューしてるんですね。。歌こそ、すっごい演歌ですけど、風防見てもらえると思うんですけど、ファッションだけ見るとヨーロッパの女優さんみたいなんですよね。前髪作ったショルダー・レングスの髪に、全身黒でアコースティック・ギター持ってね。彼女は翌70年に日本で大きなブームを作るわけなんですが、外からの影響のない音楽やってた割に、そこの世界でなんか異端な空気というか、後、なんかすっごくアングラなダークさもあるんですけど、そういうものを日本のメインストリームでやってた、なんか不思議な人ですよね。

あと、このころにですね

「昭和の歌番組の代名詞」になったフジ系の「夜のヒットスタジオ」(1968年11月)と、のちの「ザ・トップ10」の前身の日テレ「紅白歌のベストテン」(1969年)が始まっています。こうしたテレビの歌番組を通じて、人々が流行りの歌をチェックするようになり。そういう時代になっていくわけです。これは「夜ヒット」の、69年にいしだあゆみが「コンピューター恋人占い」という企画をやって突然泣き出して伝説になった有名な回の映像。彼女の若い時って若い時のウィノナ・ライダーを思い出して、「日本のタレント史上最高の美貌」だと思っていたりもするんですけど、60s風のメイクもすごくオシャレです。特に目ね。

あと、この年って、流行りの歌、他の年と比べても、なんかちょっとクセある曲、多いんですよね。

これは、68年から69年にかけて、もう懐メロの大定番ですけど「恋の季節」を現象的にヒットさせたピンキーとキラーズの出演したコカコーラのCMなんですけど、「なんでこんなファッションなんだ??」って思いません?だって、「スティック持った山高帽」の集団で、リードシンガーが、ヴェリー・ショートの女の子。不思議なコーディネイトですよね。これ、でも偶然なのか、僕、「時計仕掛けのオレンジ」とか「キャバレー」のライザ・ミネリ思い出すんですよね。

この感じね(笑)。ピンキーの方が2、3年早いんですよ。

で、僕、今回のリサーチで初めて知ったんですけど、ピンキーとキラーズ、ボサノバ・グループを意図していたって知ってました??これ、個人的に衝撃だったんですけどね。どこもボサノバに聞こえなくて(笑)。でも、ブラジルにオシャレ・イメージがこのころからあったことがわかっただけでも嬉しいです(笑)。

ブラジルといえば

この盲目のシンガー。長谷川きよしの「別れのサンバ」、これがヒットしたのも1969年なんですよね。こちらの方はしかも、曲がかなり本格的にサンバに忠実で、こういう曲が日本で当時ヒットしていたことはかなり驚きです。

あとですね

このころに、フォークが、この1、2年前から日本でも流行り始めているんですけど、この新谷のり子の「フランシーヌの場合」って、これ、フランスの学生運動に巻き込まれて死んだ女性の歌ですよ。こういう曲がこの当時、日本のチャートのトップ10に入っているというのもちょっと不思議です。

あと、カルメンマキの「時には母のない子のように」。この当時、まだ18歳だった女の子が、こんなアングラ色濃厚なダークな曲を現象的ヒットにさせてたというのも、今冷静に考えるとすごい話です。

やっぱり、こうやって例を挙げていくと、この1969年って、侮れないなと思いません?メインストリームでこういうの流行ってたわけですからね。

では、続いて今度はテレビの流行り、行きましょうか。

日本における本格的なアクション・ドラマの草分けですね。「キイハンター」。これが始まったのも、この69年です。

これで誰が当たったかって

ソニー・チバですよ!

俗に言う千葉真一なんですけど、タランティーノが、彼のアメリカ名「ソニー・チバ」の名で大ファンなんですよね。確かに千葉真一の場合、日本のアクション、変えた人ですし、その功績、デカいですからね。「日本にも、こういうカルチャー、あったんだ!」と気がついた時の衝撃はなんとなくわかる気がします。

あと

その一方では、女性のアクションものの走り、「プレイガール」も始まってるんですよね。「キイハンター」がアメリカの刑事モノに規範を置いていたとすれば、こっちはなんかイタリアっぽさを感じさせてかなりオシャレです。

あと、アクションだけじゃなくて

コメディ番組もすごく開花するのがこの年です。特に日テレの「ゲバゲバ60分」は日本にシュールかつナンセンスなギャグを最初に持ち込んだ画期的な番組だったんじゃないかな。このハナ肇の「アッと驚く為五郎」って、一発ギャグとしては最高峰だと思うんですけどね(笑)。衣装がジミヘンっぽい感じがいつ見ても好きです。これ、実は本当に同じ頃に世界的にこういうお笑い番組が開花してるんですよ。その辺りは来週以降にまた話します。

この「ゲバゲバ」だけじゃないんですよ。この69年に

欽ちゃんと二郎さんのコント55号

ドリフの「8時だよ!全員集合」もはじまってますからね!

この年にドリフは「ズンドコ節」も大ヒットさせてるんですけど、これ、アレンジがすごくソウルっぽい曲でもあって、そこも妙に69年っぽかったりもします。

あと、テレビの流行りは、「柔道一直線」とか「サインはV」みたいな「スポーツ根性もの」という路線が流行ってましたね。これは、この5年前に東京オリンピックがあった影響かとも思うんですけど、なんかあんまりタイムレスな感じがしないんですよね。こっちは。ただ、次回で1件触れてrおきたいものはありますが。

続いて映画に行きましょう。単純に映画の興行成績だけ見てると、石原裕次郎の日活の映画スターとしての全盛期の、ほぼラストの時期だったようですが、「時代を象徴」しているとは思わないので、他の映画を。

この年はこのシリーズが始まってますね。

はい。「男はつらいよ」。日本で最大の映画キャラと言って過言じゃないんじゃないかな。寅さんです。これが69年の8月27日にはじまってますね。今、ちょうど50周年記念キャンペーンやってますね。渥美清もなくなって、もう23年くらいになるのかな。僕の世代だと、寅さんって「オヤジくさい」イメージあって積極的には見なかったんですけど、「たまに見てみると実は面白い」って感じでしたね。Netflixが「シリーズ全作解禁」とかっていつかやってくれないかなあ、と思っていたりします。

それから

任侠映画で「ヒロインもの」がはじまったのもこの頃ですね。藤純子の「緋牡丹博徒」シリーズ。高倉健とか鶴田浩二の任侠ものはこの5年くらい前から始まってます。日本で60年代後半に任侠映画が流行ってる頃、アメリカだとクリント・イ_ストウッドのマカロニ・ウェスタンとか、スティーヴ・マックイーンのアクション映画が流行ってるんですよね。日本も世界も、どちらの場合も「バイオレンス・アクションのパイオニア」みたいな映画が同時期に流行ったというのは興味深いんですけど、アメリカでそうしたものに当時「ヒロインもの」って出来なかったんですけど、日本はそうしたとこ、寛容だったようで、こういうのできてますね。上の「プレイガール」もそうですけど。日本でこの時期に、一方でアメリカで盛り上がっていた「ウーマンズ・リブ」ほどフェミニズムが盛り上がっていた、みたいな話はあまり聞かないんですけど、無意識のうちに「強い女性」を描いちゃっていたのかな。

そして同じ時期に

タランティーノ自身が大ファンを公言している梶芽衣子が、太田雅子名義から梶芽衣子に名前を変えて、本格的にアクション・ヒロインとしてデビューを飾っています。彼女はこの翌年以降に「野良猫路ロック」「女囚さそり」「修羅雪姫」といった映画で活躍し、カルトなアクション・ヒロインとなっていきますね。

・・といった感じでしょうか。次回は、1969年日本の、ちょっとメインストリームとは外れるかもしれないけど大事なカルチャー。これを見ていこうかと思います。



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