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特集・1969年(第3回) 当時の日本の裏のポップ・カルチャー(音楽、演劇、映画)

どうも。

では、今日も昨日に引き続いて、クエンティン・タランティーノの映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」にちなんで、「1969年」の特集、行きます。今日はその「日本編」のラストです。

昨日は日本の表向きのポップ・カルチャーをやりましたが、今回は「裏」というか、ちょっと知名度としてはマイナーだけど、大事なことをやろうかと思っています。

1969年の出来事の中には、こういうこともありました。

新宿駅西口でフォーク・ゲリラというものがありました。6月のことです。これ、アーティストの連動とかは具体的になかったものだったみたいで、いいことばかりでもおなかったみたいな話も聞いてはいるんですけど、市民が自発的に行った行為として、フォーク・ミュージックがこういう形でこの当時に浸透していたことを示す意味ではすごく意味のあることだと思います。

フォークはこの3年前に「カレッジ・フォーク」という、あまり政治職のないクリーンな感じのものから日本ではブームとして広がっているんですが、68年にフォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」、早回しの回転で有名な曲ですが、あれが関西方面で自主制作で大ヒットして、始まったばかりのオリコンで1位にまでなったくらいに大流行したんですね。

そんなフォークルが「イムジン河」の演奏でリアルタイムでテレビに出た時の貴重な映像ですね。こうしたフォークルの活躍もあり、主に関西方面でフォークのカルチャーが活性化するんですけど

その中で最も頭角を現したのが岡林信彦ですね。彼は68年にメジャーでデビューしてるんですけど、この「クソ食らえ節」が放送コードに引っかかる曲、まあ、何が問題かは聞いてもらえればすぐにわかるんですけど(笑)、これはメジャーから出せず、1969年2月に発足されたアングラ・レコード・クラブ(URC)というところから出ることになったんですけど、このURCがかなりの影響力を持つに至ります。

同じ頃、GSのバンドの一つ、ジャックスが、よりダークでジャズの手法も使った実験的な音楽性でカルトな支持を受けます。聞いてもらえばわかるんですけど、朝のおTVショーでこの曲演奏できた、というのがすごい事実なんですけどね。

そして、GSの後発組の中から、かなり本格的な本場直送系のバンドが出てきます。それがエイプリル・フールなんですけど、チープな演奏で「若い僕らは」みたいな歌詞を他のGSが歌うところを、どっしりとした、この当時で言うとヴァニラ・ファッジみたいなサイケデリック・ハードロックで英語詞で歌ってたわけですからね。ちゃんとプロモーションされてたら「日本もついにここまで来たのか」と驚いた人ももっと多かったような気がします。

そして「日本のニール・ヤング」とも呼ばれたエンケンこと遠藤賢司。この曲なんて、シタールとタブラ使って、本格的なラーガ・ロックですよ!これと同じことって、ビートルズの曲の中でジョージ・ハリスンがこの2、3年前からやっていたものですが、それほど時間差なく、日本でもちゃんとキャッチアップ出来ていたことを示す意味ではこれ大事です。

こうした才能、ジャックス解散後の早川義夫、エイプリル・フール解散後の細野晴臣と松本隆、そしてエンケンと、こうした人たちがURCに集まってくるわけです。何か起きないわけがありません!はっぴいえんどを筆頭としたURCのその後に2、3年の活躍は「日本のロックの本格的なあけぼの」として今日でも伝説になっています。

そしてURCだけじゃありません。この時期、日本でロックに対しての意識改革が非常に進んでいましてですね

GSブームの中で群を抜いて演奏のうまかったゴールデン・カップスは、より本格的なブルース・ロックを追求していきます。これなんて、若きクラプトンの板クリームのカバーですよ。エディ播のギターもテクニカル的にしっかり追いついてますしね。これ、この数年前までヴェンチャーズのエレキブームだったことを考えると、かなりの秘薬ですよ。しかもこれがテレビで放映されていたと思うと、すごいですよね。

そして内田裕也がプロデュースしていたフラワーズですね。これ、フラワーズがライブハウスで活動していた時の貴重な映像ですね。このバンドはサイケデリック・ロックをバックに、麻生レミという女の子を「和製ジャニス・ジョプリン」として売り出そうとしてたんですけどね。このバンドが解散してできたのがフラワー・トラヴェリング・バンドで、翌70年から海外ツアーもやったりして、そこそこ成功してますね。日本だとURC派が強くて、フラワーズ以降の英語詞のサイケデリック・バンドの評価がかなり低かったんですけど

今から10年くらい前に、この「Jap Rock Sampler」という本がイギリスで発売されて以降、欧米圏でマニアが増えまして、注目されていたりもしています。

続いては演劇、行きましょう。

これも貴重ですね。ミュージカル「ヘアー」の日本板キャストでの公演の模様ですね。これ、すごいんですよ。主演がタイガース脱退直後のトッポこと加橋かつみ。あと前述のエイプリル・フールのヴォーカルだった小坂忠、そしてこの4年後に「学生街の喫茶店」を大ヒットさせるフォーク・グループ、GAROのメンバー2人。そして、演出を手掛けた方の人たちは、このあと、東京キッドブラザーズに発展して、柴田恭兵も輩出して、かなり成功しましたからね。

あと、寺山修司の劇団「天井桟敷」もこのころ、アンダーグラウンド演劇として影響力ありました。このころに、美輪明宏演出で今でも引き続き上演され続けている「毛皮のマリー」の海外公演が行われていますね。あと、昨日紹介した「時には母のない子のように」のカルメンマキ、彼女もこの時期の寺山門下生でもありました。

続いては映画、行きましょうかね。

映画はこの当時、テレビの台頭で産業的には斜陽だったんですが、その分、商業主義的な部分を度外視した、より実験的な映画を作りたいとするう監督たちには刺激になりまして、60年代後半にアート・シアター・ギルド、略してATGができまして、影響力を誇りました。

ATGの1969年のヒットとしては

篠田正浩の「心中天網島」。これがこの年のキネ旬ベストテンの1位です。

そしてATGで最も有名な監督といえば大島渚。彼の代表作の一つ「少年」もこの年です。

ただ、「ATGの1969年」といえば、今となってはこれですね。

この「薔薇の葬列」ですね。これ、今や世界的LGBTクラシック映画ですよ!この動画でもわかるように、「Funeral Parade Of Roses」といえば、通じる映画マニア、少なくありません。

これはピーターこと、池畑慎之介の出世作になった映画で、日本の、あるゲイ、でもあるんですが、今の分類だとトランスヴェスタイト(女装者)の少年を主役に据えたドラマですね。

これ、実験色が強すぎて、役者の演技はかなりの素人だは、製作者の自己満足ジョーク満載だは、話の脱線は頻繁だはで、映画そのものの出来としては「どうだろう」と思うところもなきにしもあらずなんですが、ただ、作品の題材の先駆性と、一回見たら忘れない強烈な映像で、どうしても「記憶」には残っちゃうんですよね、これ。

だってこれ、時期的に

アンディ・ウォホールのゲイ映画クラシックの「Flesh」。これが68年ですから、時期的にほぼ同じなんですよね。そう考えてもこれ、かなり先駆的な映画なんですよね。

他にもまだ語りたいことは多かったんですが、まとまりが良いところで、やめておきますね。

来週からはいよいよ「世界編」。より「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に近い雰囲気のところについて語っていきます。









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