見出し画像

特集・1969年(第1回) 1969年の日本の社会的状況

どうも。

では、こないだも言ったように、今日からボチボチはじめます。タランティーノの新作映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」にちなんだ、映画の時代背景にもなった「1969年」についての大特集。

第1回目の今回は、ズバリ、「1969年の日本の社会的状況」についてです。

もちろん、このブログのことなので、音楽や映画、TV番組などのカルチャーについて語ることにはなっていきますが、今日はですね、それを始める前に、まず、そもそも「50年前の日本」というものがどういうものだったか、ということを見ていこうかと思います。

まず、首相は

佐藤栄作氏ですね。1964年から72年まで続いた長期政権の、真ん中過ぎた頃でしょうか。経済的には、「いざなぎ景気」という、日本の高度経済成長の一番大きな時期ですね。これも1965年から70年まで続くんですが、その只中、ということになります。

そうした世相を反映するようにですね

東名高速道路が完成します。自動車が一般家庭に普及しはじめたのは、この3年くらい前に各自動車メーカーが大衆車を売り始めた時、と言いますから、そこから3年で、こうしたハイウェイができて、欧米並みの車社会を迎える、ということにもなりました。

1969年頃だと

トヨタ2000GTとかフェアレディZとか、こういう車が世に出て間もない頃です。日本の国産車のデザイン、絶対この時の方がカッコよかったと思うんですけどね。今見ても、この色合いとか、先の突き出た感じとか、そそるんですけどね。

人々の暮らしで言うと、もう、この頃になると、「三種の神器」と言われた家電「冷蔵庫、洗濯機、テレビ」はどの一般家庭にも普及してますね。東京オリンピックの頃にはテレビはもう、だいたい一般家庭はどこでも持っていたようなんですが、

カラーテレビの普及はまだ20%以下だった

とのことです。

あったとしても、こんな感じでしたね。これ、日立のキドカラーっていうテレビで、なんか家具にテレビが入れられたようなデザインで、これはこれで今見ても風情があります。僕のうちにも、この時代の5〜10年後に「古い方のテレビ」という感じで、これとほぼ同じものがあって、親が見たい番組があって僕が見たいものが見れない時に、このテレビでみたい番組を見てましたね。

と、そんな時代にですね

若者文化が、カルチャー、ファッションで急激に刺激的になりはじめた!

そんな時代です。

この年のほんの1、2年くらい前からですね、これらの動画に見られるように、サイケなアート感覚が流行し始めるんですけど、このように1969年にはもう日本の茶の間で見れるようになっています。それまでだったら、「角刈りの黒縁メガネで、かかる曲は唱歌か演歌調」みたいなものも珍しくなかったのに、この頃になると、今の基準で見ると若干の垢抜けなさは残りこそすれ、かなりこの当時の欧米の流行を意識したものになっていて。上の動画で見ると、坂本九って、この時代より明らかに前の世代の人なんですけど、その彼のTVショーのオープニングでさえ、当時のサイケ技術を駆使したものに進化してますからね。

あと、ファッションもかなりカラフルになって、「男の長髪、女の子のベリー・ショート」みたいな、ジェンダーの既成概念を変えるようなファッション的な現象も出てきてますね。

それから、一番下のタイガースにも見られるように、このほんの1年前の1968年に、日本で初めて「本格的な国産のバンドブーム」が起こっています。これも既成価値観を変える出来事だったような気が僕にはしてます。そして、いまさら言うまでもないですが、ジュリー、やっぱりカッコいい!

あと、この頃はですね

この小川ローザの「猛烈ダッシュ」みたいにですね、ハーフ並びに外国人モデルを広告に使うパターンが非常に多かったんですね。相対的に見て、西洋への憧れが非常に強い感じがします。

こういう例もあります。

女性ファッション誌の「AnAn」は1969年に前身雑誌、「AnAn Elle Japan」が始まっているんですが、そこでもそれは顕著で、1971年版にはなんとセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンが表紙ですよ!これ、あの雑誌の歴史上、一番オシャレな表紙だったんじゃないかな。そのイメージもあってか、この雑誌、しばらく表紙、外国人だったんですよね。

あとセヴンティーンもこんな感じだし

この当時って、少女漫画のイメージもこんな感じでしたからね。西洋嗜好強い僕が見てでさえも行き過ぎなものを感じます(笑)。ちなみにセヴンティーンやマーガレットって、GSブームを盛り上げた代表的媒体だったりもします。

この頃って日本、GDPが西ドイツを抜いて2位になってるんですけど、国の意識として、「西洋の先進国にカルチャーでも追いつきたい」という気持ちが非常に強い時期だったんじゃないかな。それゆえの、こうした現象だったと思います。西洋の真似をすることが必ずしも良いことだとは思っていないんですが、しかし、こうした過程があって努力したからこそ後の日本の文化があるのであって、バブルの時代で栄華を見たからといってあぐらをかいて外を見る努力をしなくなって「日本がサイコー」とかって自己礼賛しかしなくなるよりは数10倍マシだと思います。

あと、こうした「外の世界からの影響」というのはファッションだけではありません。

この、東大安田講堂焼き討ちに象徴されるように、学生運動がかなりの高まりを見せる時期でもありました。これに関しては大学の自治の問題を発端に始まったものですが、のちにこれに「70年安保」と言って、日米安全保障条約が更新されることによって、日本がベトナム戦争に巻き込まれるのではないかという強い懸念がそれを後押しします。

これも近い時期に

アメリカでのベトナム反戦運動とか

ストーン・ローゼズの歌の主題にもなってたりする、1968年のフランスの5月革命。これもかなり大きな学生運動によるプロテストで、ジャン・リュック・ゴダールがこれを機に政治的な実験映画に走ってトリュフォーと袂を分かったりしています。

あと、東欧だと、チェコ・スロヴァキアでソ連の東欧牛耳る姿勢に反旗を翻した「プラハの春」も起きてるし

前年68年秋のメキシコ・オリンピックでの、黒人選手の表彰台でのブラックパワーの拳ですね。これなんかは当時よりも今の方が影響力強くなってる気がします。

日本での音楽でのこうしたことからの影響は次回以降に回しますが、このころの日本のプロテスト、いいことばかりでもないことは歴史でも語られているのですが、積極的に疑問を口にし行動することがあったこと自体は評価されてしかるべきだったのかな、と思います。

このあたりの時代の空気って、奇しくも1987年に村上春樹が「ノルウェイの森」、村上龍が「69 sixty nine」で描いていたりもして、その頃、実は日本でちょっとしたリバイバルみたいな空気感があったんですよね。僕らの世代だと、そういうことも加わって、この当時のカルチャーへの興味がわいたところもあったんですけど、今の若い人だと、なかなか接点、見出しにくくなっているのかな、と言う気はしないではありません。

次回は、日本の1969年のポップ・カルチャーにより具体的にアプローチします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?