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南半球最大のロック・クイーン、ヒタ・リー死去~この人がいたから僕もブラジルに・・・

どうも。

今日は僕がブラジルに来て、もっとも悲しい日になってしまいました。

それは

ブラジルを代表するロックスター、ヒタ・リーが亡くなってしまいました。これは相当ショックです・・・。

 何を隠そう、実質的にこの人が僕をブラジルに誘ってくれたところは確実にありましたからね・・・。

 そのことについて今日は語りたいと思います。

①「60年代に、ブラジルに衝撃的なサイケバンドがいた」ことの発見!


ことは1999年のことです。確か渋谷のレコファンだったと思うんですけど、僕にこのCDのジャケ写が目にとまりました。

それがこのムタンチス、ヒタが60年代から70年代にかけて所属したバンドですけど、このバンドのアルバムが結構積まれて置いてあったんですよ。まず、このジャケ写が気になって吸い寄せられたんです。で、バンド名見て「ああ、これCMJのチャートに入っていたやつだ」と気付いたんですね。名前だけアメリカのインディ界隈で聞いたことあったんですけど、まさかそれがブラジルの過去のバンドだとは思わなかったんですよね。

で、聴いてみたら。これが衝撃だったんですよ。

特にこの2曲にやられたんですよね。超ド級の、人工的なケミカル色の強いサイケで。1968年くらいのスタジオ技術を使えるだけ使ったかのような。びくりしましたね。そんなことができるの、イギリスくらいのものだろうと思い込んでましたから!

イメージとしては

これを初めて聞いた時の衝撃に近かったんですよね。ピンク・フロイドとかトラフィックの初期シングル。サイケの中で、僕が一番イかれてると思ってた曲郡。それに匹敵することが、まさかブラジルにも存在していたとは!

 やっぱ、それまでブラジルのイメージと言ったら、やっぱボサノバとかじゃないですか。だから、「ロックでこんなに斬新なものがあったのか」という感じでしたよ。

で、調べたら

1960年代の子の伝説のコンピ「トロピカリア」にムタンチス、メンバーとして入ってたというのではありませんか!恥ずかしながら僕これ、持ってたのにあんまり聞いてなかったんですよね(苦笑)。だって、その時にこのアルバムで強調されてたのって、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルでしたからね。ムタンチスの名前ってあげる人、あの当時の日本だと聞かなかったんですよ。その当時、ちょっとマニアっぽい人たちの間でカエターノがクールな扱い受けてて。僕は聞いたけど、正直あんまりその当時は良さがわかってなくて、今も90年代当時のカエターノ、ぶっちゃけ興味ないんですけど(笑)、だけどムタンチスの上の曲が入ってると知って、「ああ、そんなにすごかったんだ、これ」と逆に気づかされましたね。そして、上の曲も作った人自体はカエターノとジルだったこともその時に知りました(笑)。

 これ知った時に「この時にっこれ作れるって、異常だよ!」って思ったんですね。これにプラスして、この当時

このセパルトゥラの「ルーツ」とか、日本盤がソニーから出て一部で話題だったシコ・サイエンスの「カオスのマンギビート」とか、ブラジルから刺激的な作品出てたんですよ。それで思ったんです。「この国のロックの歴史はすごく面白いに違いない!」と。

だって、その過程で知った話では

その前の年に出てた、ベックの「Mutations」。これがムタンチスに由来してたというし、さらには

カート・コベインがインタビューで、ムタンチスのアルバム3枚見せて、「これはすごくいい!」って褒めてたんですよね。これ、映像そのものを見たのは今日が初めてなんですけど、カート曰く「友達にすごく薦められて、ブラジル行く(1993年1月)なら買ってこいと言われたんだ。で、買って聴いたら確かに素晴らしくて」と語ってます。

 こういう話聞くと、やっぱりいてもたってもいられなくなるわけじゃないですか。

②ブラジル行く前から、「ヒタ・リー」という人が気になって仕方なかった


それでムタンチスのアルバムを、最初の3枚は日本盤も出て買ったんですけど、そのうち僕はムタンチスそのものよりも


このヒタ・リーという人がものすごく気になってきたんですね。だって、すごくオシャレじゃないですか!

僕、60sのロンドンのファッション、スインギング・ロンドンとか大好きで、

こういう感じですよね。僕、あの当時のブラジルで、こういう感じをしっかりマスターできてたそのセンスがすごく気になっちゃってですね。

それこそ、今年の2月には、こういうツイートまでしてました。これの動画とか、もうオシャレすぎてヤバイんですよ(笑)。これ、リアルタイム体験してたら、まちがいなく大ファンでしたね。

これ、貴重ですよ。だって、この時期、ロックを歌う女の子って言ったら

まだ世界でもジャニス・ジョプリンとグレース・スリックくらいしかいなかったんですよ。その時期にですよ

「ファッション・センスではむしろ勝ってるじゃないか!」と思ってですね。もう、気になって仕方なくなって。

 そこに加えて「ヒタはソロになっても成功してた」なんて話を小耳に挟んだりしたものだから、なおさらでした。

だから勢いで

2001年に出てたこの彼女のアルバム、買いましたもの。輸入で入ってきてたんですよね。やはりあの当時、日本でも需要高くなってたんで。あまり長くは続かなかったですけどね。

 ただ、このアルバムが本国でどういう位置付けなのかとか、あの頃の状況では全然わからなくて。まだ、今の妻とも出会ってもなかったし。だから、もどかしかったですね。


③ネットを通じて、ヒタがソロで大スターだったことを知った


ただ、気持ちは通じるのか、その後、ブラジルの架空の年間チャートみたいなサイトを見つけたんですよね。今もうないんですけど。なんの集計を基にしたのか全然書いてないんですけど、今振り返っても、これがすごく完成度の高い嘘でして(笑)。エントリーしてた曲に間違いがないというか。その後によく耳にする曲がうまい具合に並べてあったんですよね。

 その過程で、ヒタが70年代後半から80年代前半にかけて、年間チャート上位常連アーティストだったことを知ったんですね。

 ただ、その時もなかなか聞けなくて。それが分かるまでにはYouTubeの登場まで待たなくてはならなくて。

 そこでYouTubeが2000年代の後半に出てきた時に、この曲だけ聞きました。

すごいシティ・ポップみたいな曲ですけどね。1980年に大ヒットした「Lanca Perfume」。しばらくはこれを聞くしかなかったですね。タワーレコードのラテン売り場にヒタの過去のソロの作品なんて全く入ってきませんでしたから。

④妻にブラジル・ロックの歴史を教えてもらう


そして今の妻と2005年に出会って、その年から同居始めるんですけど、気がすごくあったのことの一つにブラジル音楽があって。というのも彼女、欧米のインディ・ロック好きで、ブラジル音楽その物に興味がなかったんですよ。元がアメリカの移民の娘だったのが大きくはあったんですけど。

 ただ彼女、「日本には伝わってない優れたブラジルのロックがある」と熱弁してまして。それである時に、彼女のコレクションを一斉に聞かせてくれたんですけど

80年代のポストパンク系のバンドがメインでしたね。この当時のブラジルとアルゼンチン、そういうバンドの宝庫でしたから。

あと

70年代のハウル・セイシャスとかセコス・エ・モリャードスとかも教えてもらって。

曰く、「その中でヒタ・リーは最高の存在だった」と言ってたんですけど、残念なことに彼女、ヒタのCD持ってなかったんですよ。ムタンチスは持ってたんですけどね。彼女も「あのカートまで激賞してた」と言って、ものすごくムタンチスのことは誇りに語ってましたけどね。


⑤ブラジルに行き、ヒタがさらにかっこよかったことを知る


そして2010年にサンパウロに渡ったわけですけど、そこでヒタがさらにかっこよかったことを知るわけです。

それまで知らなかったこのアルバム、1975年の「Fruto Proibido」、これが最高傑作だよ、と何かで知りました。

 これ、ジャケ写見て「かっこいい!」と思ってですね。

だって、1975年って言ったら



パティ・スミスがデビュー作出して、フリートウッド・マックにスティーヴィー・ニックス入ったばかりですよ。そんな時期にヒタ、ブラジルを代表するロックスターだったんですから。

日本でいうと

https://www.youtube.com/watch?v=gYe35SoloP0

荒井由実がスターダムに駆け上がった時期に近いといえば近いですけど、そういう存在だったと思っていただけると良いと思います。

この時期、彼女がやってたの、ストーンズっぽいロックンロールだったんですよ。しかも、70ファッションがすごくカッコよくてね。

この時期をみんなにもっと知って欲しいんですよね!

日本の音楽マニアだと、ムタンチス、ムタンチス、言い過ぎるので(笑)。

⑥ブラジル国民に浸透しているヒタのヒット曲


そしてブラジル住んでて思ったのは、日常の何気ないタイミングでヒタの昔のヒット曲を想像以上に耳にしたことです。実はそれで覚えた曲も多いんですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=zbd_ObeUoZI

この辺りの曲は、ブラジル人だったら、ある一定の年齢以上の人だったら大体知ってると思います。僕も巷でかかって知った曲ばかりです。

例えて言うなら、日本の50代、60代が、ジュリーとか聖子ちゃんのヒット曲を歌詞も見ないですらすら歌える感覚に近いです。それくらいの影響力だったんですよ。

特に80年代

旦那さんのロベルト・デ・カルヴァーリョと連名で作品出してた時期がシティ・ポップ路線なんですけど、この時期、歌詞がいいんですよ。主題が化粧品とかピンクとか入浴とか、そういうあえて女性の生活習慣を強調した歌詞になってて。そういうとこ、ユーミンっぽいんですけどね。そういうとこでも成功してました。

⑦ピーク過ぎても佇まいがかっこよかった


ヒタは1回人気が落ちてMTVアンプラグドのライブで90sに復活するという、エリック・クラプトンみたいな過程も経験してます。

それ以降のヒタは、髪色の派手なおかっぱとサングラスがトレードマーク化します。

40代、50代になってもファッション、かっこよかったんです。

⑧隠居してもかっこよかった


ただ、僕、あまり恩恵に預かれなかったのは、2012年に彼女、ライブ活動やめちゃうんですよね。

その最後のライブでヒタ、ライブでお尻出して警察に捕まります(笑)。この時、64歳でした。

惜しかったんですよね。その直後に出たこのラスト・アルバムはヒットしたのに。

ただ、隠居してからもこの人目立ってまして

自叙伝とか写真集出してヒットさせたりしてたんですよ。僕も伝記買って持ってます。

あと、パンデミックの時期は夫のロベルトとスタジオ入って、久々に歌を披露してましたね。

それからインスタもオシャレでね。いかにも60sのサブカル少女の趣味全開で。

しかし

2021年にガンが発覚。その後もインスタ通じて、こういう風に闘病をアップデートとして

一旦は克服したとして、その闘病記を本として出版するとこまで行ってたんですけど、残念なことになりました。なおヒタ、癌のことをジャイールと呼んでました。クソ前大統領、ジャイール・ボウソナロにちなんでます(笑)。

そして今の大統領、ルーラは、ヒタの死に対し、ブラジル人に3日、喪に服すように言いました。それくらい、ブラジルにとっては大事な人でした。

そして彼女はサンパウロ市民に取ってもすごく大事な人です。成果が、僕のよく立ち寄るところの近くにあったりして、それでサンパウロではことのほか、影響力が強いです。それは出身地の違うカエターノとかジルとか、ミルトン・ナシメントではないことでもあります。

ヒタのことは

ここにも色々書いてますので、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。



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