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落合陽一さんの「質量への憧憬」展に行ってきました

東京は遠い。普段ならよっぽどの用事がなければふらっとは行かないのだけれど、ここ最近悲しい出来事があったりして、気持ちを休ませるつもりで大好きな落合陽一さんの写真展に行くことにした(会期は2/6まででした)。パートナーが珍しく、行っておいでと背中を押してくれたのもあり、弾丸日帰りで。

写真展を観に行く目的

「質量への憧憬」という言葉から、僕がダイレクトになにかを想起することは難しかった。直接見にいけばなにかわかるだろうか。
落合さんのことを知ったのは2017年の7月。僕とはたったの3つ違いの年上で、それでも50年くらいの人生の密度差を感じた。博士で、トップカンファレンスに何度も論文が通っていて、ラボを持って学生さんも育てていて、本も書いていて日本社会の問題解決にも寄与していて、それでいて全く嫌味もない。この人が何を考えているか知りたくて、追っていけば数限りなく自分の知らないことが知れるのではないか、人生迷子の自分にとってヒントをくれるのではないかと思っていて、翌年2018年の1月には現落合塾に参加することにしていた。
僕には何もないし、社会的地位のある何者かになれるとも、その必要もないと思っている。尖った専門性もなく典型的な近代人として育ってきた。それでも社会に対してなにか良いことをしたくて、ずっともやもやしているのである。中二病だ。行動が伴わない。
だから落合さんが何を考えているのか、どんな人間なのかもっと知りたいと思っている。著作を読んでもわからなかったことが、体感としてわかるのではと期待して写真展に足を運ぶ。

僕にとっての質量

行く前から気になっていたのは、花の写真4枚。

暗闇から浮かび上がってくるようなはっきりとした佇まいが印象に残っていた。優柔不断で曖昧な自分との対比で惹かれたのかもしれない。
すごく記憶に残っているのは「時限つきのみずみずしさ」という言葉。4枚の写真が残しているものは失われていく経過。枯れていく過程でみずみずしさ、質量が失われていく。僕は、死に向かっていくことは喪失感をイメージしていたがこれはなにか違う。死に向かっているどの瞬間も美しいと感じるのだ。失われていく過程を美しいと感じ、朽ちて自然に融け込んでいくことをこうまで美しいと感じたことはなかった。落合さんはいのちが然びていく過程に、自分の目だけでは知覚できない世界の中に見える美しさに、これでもかというほどシャッターを切ってきたのだろう。見ている本質の解像度が、僕とは全く違う。
それでも、落合さんの視点の中から、一生懸命僕の気持ちを言語化しようとする。そうか、僕が質量に憧憬をおぼえるとき、それは「生きている」こと、生に対する憧憬だ。

いのちの質量

質量を失っていることを五感で知覚するとき、それは生きていることを感じることと同義だと思った。身近な人を失ったとき、悲しいよりも先に喪失感が勝っていた。自分の人生の質量を大幅に失ったのだ。失ったものから思い出を漁ったとき、初めて頭で理解して悲しみという感情に変わった。変化していく人生の質量、自分自身の質量、大切な人や、ものの質量は、生きている限り死に向かって徐々に失われている。たぶん、それを意識しなければ無駄に生きていることになる。そういう意味で、写真を撮って残すことは人生の質量を保存しておく行為なのだと思った。ただ失われていくことを意識するだけよりも、僕が美しいと思ったこと、僕自身の感覚を、魂の質量を死ぬまで残し続けたいと思った。一緒に生きていく人の質量も保存していきたいと思った。ああ、僕がパートナーの写真を撮るのが好きで、チェリー(チワワ3才)の写真を撮るのが好きな理由が言語化できた。僕が写真を撮るモチベーションはここに帰結するんだろう。

落合さんの写真

落合さんの撮った写真はどれも美しかった。落合さんが愛でるものをこれでもかと情報として浴びることで、目線や感覚がなんとなく頭の中で結びついたような気になってはいる。落合さんというひとりの人間が、写真という物質化された情報の集合体によって表現されている。養老孟司さんが、「デジタルネイチャー(落合さんの著作)はアーティストの心象告白」と言っていたのを思い出して、今回の展覧会はそれを可視化したものなのかな、とふと思った。
もちろん、落合さんが見ているフォトンや、デジタルとアナログの間にあるもの、その先に知覚しているものは僕にはまだ見えていないし修行が足りない。見えていないなりに彼の見ているものが見えるようになりたいと思うし、塾でヒントをもらって勉強する中で、僕自身の感覚や世界に対する解像度は徐々に研がれてきていると思う。
写真展で見たこと、考えたことで、自分にとって大切なことが今までよりもはっきり言語化できたし、心にあったわだかまりも溶けた。いのちの質量を感じながら、これからも生きていくことにする。

作品を見て思ったこと

・紙の障子のように背景がぼんやり見えるかんじが素敵。曇りで空の色が入らなかったのが個人的には惜しい。

・枯れススキに、液晶に映る風そよぐススキが再生されている作品。解像度が違うがどちらもススキ、だけど生きているのは映像の中のススキの方…物質じゃない映像のほうに質量を感じてしまう不思議な感覚。背後に電柱の写真を入れて撮ると、どっちも生きている感じがする…

・入ってすぐの写真と、光を纏う枯れ木。枯れているのに生きているように見える…。そして写真の圧倒的な物量感。周りが暗く光が強調された写真が多いのは、落合さんが光の色やかたちや硬さを見るのが好きだからなのだろうか。ためしに離れてメガネをはずして見てみたが、ボケの大きく映った写真になんともいえない奥行きを感じた。Morpho scenery の解説にも、物質を介することで背景に身体性を感じさせる、って書いてあったような。

・完全なる個人的好みだが青いにじみボケがいつまでもみてられるくらい好きだった

・外が見える窓と見えない窓の配置になにか意味があるのだろうか。なぜかサダハルアオキのボンボンショコラを思い出した。

・ソルトプリントという印刷手法らしい。モノクロから感じるはっきりとした奥行きと、それでいて絵画のような質感もあって、近づくと吸い込まれそう。現実と映像のグラデーションみたいな表現が好きなのかな…

・人生ゲームみたい。

・玉虫とレーザーの反射光が同じという気づき…フォトンを観察する修行の賜物なのだろうか
これもデジタルで自然を表現してるということか
いつかホログラムで質感も表現できると仰っていたがすごく楽しみ

Hey息子 かわいい!

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